19.
美穂が退院してから一週間以上経った。明日は、退院後初のカウンセリングになる。午前中は西村先生の診察に陪席して、昼前に患者さんが途切れた。何となくそのまま診察室で話をしていると、扉が鋭くノックされた。
「はい?」
西村先生が返事をすると、看護師が中に入って来る。動きがやけに早いし、表情が硬い。すぐに何かあったのだと身構えた。病棟でトラブルでもあったのか。
「西村先生、警察から、電話があって――」
看護師の言葉は、どんな予想とも違っていた。
「警察ですか? ちょと心当たりはありませんが。何か言っていました?」
西村先生も、首を傾げている。
「……佐藤美穂さんが、亡くなったと」
「えっ?」
驚いたような西村先生の声。
僕は声が出なかった。ただ、口を開けたまま動けずにいる。
看護師が、西村先生に小さなメモを渡す。
「電話番号です。手が空いたら連絡が欲しいと。話を聞きたいそうです」
「解りました。ありがとう」
メモを受け取った西村先生が、診察室を出て行く。僕は黙ったまま、その後ろを付いて行った。
西村先生の背中を見ながら、看護師の言葉を思い出す。『佐藤美穂さんが亡くなった』とは、どういうことだろう。どうもこうも無い……美穂が死んだということだ。
あの美穂のことか? 僕が知っている美穂の? それ以外には考えられない。死んだということは、原因があるはずだ。手首を切った? 退院が早かった?
あぁ、西村先生の肩に、髪の毛が一本ついている。取ってあげた方がいいかな。
いや、そんなことをしていられない理由があったはずだ。
そうだ、美穂が死んだのだ。
考えることばかりに夢中で、体の感覚が無かった。歩いているのだから、手も足も動いているに違いない。しかし、妙にふわふわしてしまって、廊下の硬さが解らない。リノリウムの床が擦れる音がする。靴底がゴムなので、キュッキュッと嫌な音がする。だから僕は、確かに歩いている。
そんなことはどうでも良い。美穂が死んだって? なぜ?
「兎に角、電話してみます」
西村先生の硬い声が響いて来る。気が付くと僕は、見慣れた医局で椅子に座っていた。
西村先生が、電話で話をしている。美穂の名前が出て来ているようだが、僕の知っているような話ばかりだった。それはそうだろう。警察に質問されて、西村先生が答えているのだから。
美穂が死んだ原因は何だ? 僕が対応を誤った? 自殺してしまった?
僕が知りたいのはそれだった。西村先生は警察から聞いたのかもしれないが、電話の先の声はここまで届いて来ない。
美穂に何があったのか、繰り返し考えながら電話が終わるのを待つ。
しばらくすると、ただ待っている自分が脳無しに思えて来る。会話を続ける西村先生を見て、喉が渇くだろうと思い立ち、医局を出て自動販売機へ向かった。
相変わらず体は浮遊感に襲われ、気が付くと自動販売機に到着している。ペットボトルのお茶を二本買って手に持つと、冷たさが伝わって来て安心した。
医局へ戻って間もなく、西村先生が受話器を置いた。
買って来たお茶を差し出すと、封を切って何度か喉を鳴らした後、溜め息を吐いて椅子の背もたれに寄りかかる。険しい表情を見て、かなり深刻な話だな、と思う。当然だろう、僕は馬鹿なのか……美穂が死んだのだから。
「何があったか大体は聞けたので、神田先生にもお話しましょう」
西村先生の言葉に、黙って頷いた。
「佐藤美穂さんが亡くなりました。死因は、首を絞められたことによる窒息死だそうです」
「え?」
自分で腕を切ったのでは無いのか? 窒息死……?
「お母様が、美穂さんの首を電気コードで絞めたようです。その後、お母様は手首を切ったらしいのですが、一命は取り止めたと。どうやら、無理心中しようとしたらしいです」
小説の話でも聞かされたような気分だった。
母親が美穂と無理心中しようとした? なぜそんな話が出て来るのだろう。派手な化粧をした母親の顔を思い出す。あの人が我が子を手に掛けたのか……?
「なぜ……なぜそんなことに」
自分の掠れた声に驚いて、お茶を口に含む。西村先生も釣られるようにお茶を口にしてから、僕へ説明を開始する。
「美穂さんのお父様によると、浮気がお母様にバレたらしく、揉めた挙句に、お父様が離婚を切り出したようです。一人で美穂さんの面倒を見て行くことに悲観したお母様が、激情に駆られて、無理心中を計ったのだろうと」
「そんな……離婚で無理心中? そこまでのことですか? 訳が解らない」
西村先生は、僕の気持ちは解るとばかりに何度も頷いて見せた。
「そうですね。私もそう思いますが……お父様は、慰謝料を多くやるから、美穂の面倒はお前が見ろと言ったようです。それを聞いたお母様が、そんな金では、一生美穂の面倒を見続けることは出来ない、専業主婦だから仕事も出来ないと言っていたようです。浮気のショックと、将来に対する不安に襲われて、冷静な判断が出来ない状態だったのかもしれません」
「そんな……そんな……」
何と言えばいいのだろう。あの母親が、あの美穂を殺した? 親が子を? どう聞いても納得できそうも無い理由で殺したというのか。
確かに、冷静な判断では無いだろう。勝手すぎる両親に、言ってやりたいことはいくらでもあった。
浮気をした父親は馬鹿者だ。しかも、離婚して美穂を母親に押し付けようとするとは、何という身勝手な。愛情を持ち合わせていないのか? 母親だってそうだ。父親と浮気相手に怒るならいい。許せないならば、戦えばいい。お金が必要ならば、働けばいい。なぜ美穂を道連れにして死なねばならない?
「酷い話です。ショックですね」
西村先生の言葉に、俯いて唇を噛みしめた。
そんな言葉で簡単に済ませられる話では無い。そうは思っても、何をどう伝えたらいいのか解らなかった。
「僕にとって、『酷い、ショック』だと、そういう言葉で片付けられない話です。でも、他にどう言えばいいのか解りません。両親に腹が立ってしまって……」
「そうですね」
「父親はどんな様子なのでしょう。責任を感じているのでしょうか?」
「どうでしょう……警察によると、淡々と事情を話していた、ということですが」
「じゃあ、母親は?」
「病院で意識が戻って、放心したようになっていると」
「そんな……」
我が子が死んでしまったのに、両親は涙も流さないのか。
カウンセリングに、新しい服を着て来るとはしゃいでいた美穂。僕と話したいことを書き留めたメモは、どれぐらい埋まっていたのだろう。もう、次のセッションは無い。終了だ。美穂が存在しないのだから。
美穂の笑顔を思い出すと、呼吸が苦しくなった。慌てて息を吸い込み、俯いた体を真っ直ぐに伸ばす。視線の先には、西村先生の優し気な顔があった。
「神田先生。考えて耐えるしかありません、乗り越えるしかありませんよ。今回はかなり予想外の事態ですが、患者さんが亡くなる可能性があることは解っていたでしょう?」
「それは……はい」
大学院の教授にも、カウンセリングを担当していた鬱の患者さんが自殺してしまった話を聞いたことがある。それで臨床家を辞めた人がいるという話も。臨床心理士は、そういう目に遭うこともあるのだと、心構えとして教えられたのだ。でも、どうやって乗り越えるのが正しいのかは教えられていない。教授は、どうしたと言っていたっけ。上手く思い出せない。
西村先生は何と言ったっけ。考えて耐えて乗り越える、そう言ったような気がする。美穂の死を耐えるとはどういうことだろう。何に耐えるのだ。
怒り? 悲しみ?
ちょっと待てよ……僕は悲しんでいるのだろうか。それはそうだろう。美穂のカウンセリングを担当して来たのだ。深く関わってきたし、彼女のことはよく知っている。そんな人が亡くなったのだから、悲しいに決まっている。この胸の苦しさは、悲しみに違いない。しかし、僕は今、涙を流していない。
美穂は、死んでしまったのだ。
しかし僕は、涙を流していない。
さっき僕は心の中で、娘の死に涙を流さない両親を非難したけれど、僕だって泣いていないじゃないか。他人だからいいのか? これが普通なのか?
「西村先生、僕は今、泣いていません。ドラマとかで、患者さんが死んでしまって泣いている新人看護師を、医者がたしなめるシーンがありますよね。僕は今、美穂さんが亡くなって泣いていないのですが、それでいいのでしょうか」
「いいも何も……」
西村先生はそこで口を噤むと、困ったような顔をして机に頬杖を付いた。真っ直ぐに僕の目を見返して、黙り込んでしまう。返事はもらえそうにないので、続けて口を開く。
「怒っているから、悲しみに支配されずに済んでいるのでしょうか?」
今度も返事は無さそうだ。ただ、僕を眺めている。
「僕は、美穂さんが亡くなったと聞いた時に、自分が対応を誤ったのだろうかと気になったんです。これは、悲しむより前に、自分の責任について考えたということでしょう? それは酷くないですか? 考えて耐えて乗り越える以前に、僕には人として、何か欠けているんじゃないでしょうか。僕が担当している、二十歳にもならない少女が親に殺されてしまったんです。
泣くことも無く、保身を考えていた僕は、酷いじゃないですか。僕は今、どんな顔をしていますか?」
一気に捲し立てた僕の前へ、お茶が差し出される。素直に受け取って喉を潤すと、自分が何を言ったのか良く覚えていなかった。
「落ち着きなさい。今、神田先生が言ったこと全て含めて、考えて耐えて乗り越えるしかないと言っているのです。長い時間が掛かるでしょうが、そうするしかないのです。怒りが和らげば、後悔の念も押し寄せて来ることでしょう。それに負けてはなりません」
「後悔?」
頷く西村先生を、じっと見つめる。
後悔とは何だろう。僕が、ああすれば良かった、こうすれば良かったと、悔やむということか。どうすれば良かった?
母親と面談したのだから、何か気付けていたら良かったのかもしれない。美穂の退院を遅らせていたら、殺されずに済んだかもしれない。父親が浮気していることに気が付けたら良かったのか。美穂が死なずに済んだ選択肢が、僕にもあったのだろうか。それならば、西村先生にもあったのだろうか。
「西村先生は、今何を考えているのですか?」
僕の言葉を聞くと、両手を頭の後ろで組んで天井を仰ぎ見た。
「悔しいし悲しいですが、自分に何か出来たことがあっただろうかと考えています。今回のような悲劇を繰り返さない手段が、私にあるかどうか考えています。神田先生からしたら、取り乱さない私が、さぞや冷静な人間に見えるでしょうね」
それは正直、そうなのだ。動揺を見せない西村先生は、冷静な超人に見えた。
人柄を知っているので、冷酷だとは思わない。この動じない姿こそ、僕が目指すべきものなのだろう。
「西村先生は、動揺を押し込めているのですか? それとも、あまり感じていないのですか?」
「どうでしょう。両方かもしれません。私は神田先生より経験がありますから、感覚はすり減って鈍くなっているのでしょうね」
「西村先生も昔、今の僕のように悩みましたか?」
「えぇ、悩みました。けれど、耐え方も乗り越え方も人それぞれですからね、教えてあげることは出来ません」
教えてもらえないのか……。
それならば僕は、今の混乱した心と、これから襲って来るであろう後悔に、自分なりに立ち向かわなければならない。いつでも、西村先生が助言をくれるわけでは無いのだろう。
「さぁ、兎に角今は、さっさとお昼を食べて、午後の仕事に掛かりますよ」
「……はい」
悲しい事件に動揺しようとも、仕事は待ってはくれないのだ。ロールシャッハテストの報告書を仕上げなければならないし、新しい患者さんへのバウムテストも入っている。
僕が辛くて気が乗らないとしても、周りがそれに合わせてくれることは無い。それが当然だし、責任と言うものなのだろう。
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