15.
眠れなかった。布団の中で、小林とのやり取りばかり思い出し、いかに小林が嫌な女であるかとか、僕の行動は妥当だったとか、そんなことばかり繰り返し考えていた。
力を入れて枕を押しつぶしていることに気が付くと、寝返りを打つ。何度力を抜こうとも、向きを変えようとも、みぞおち辺りに凝った嫌な塊は消えない。
朝になり、出勤の身支度は整えたものの、鏡に映る自分の顔は憔悴していた。いっそ休んでしまおうかとも思ったが、西村先生に小林とのことを報告しなければならないと思い直す。何より、この程度の事で仕事を休んでしまっては、自分がこれからも社会人としてやって行く自信を失いそうな気がした。
午前中の空き時間に、西村先生と婦長に時間をもらい、空いているカウンセリングルームで顔を合わせる。
「酷い顔ですね」
西村先生に指摘されて、苦笑いするしかなかった。
「お時間頂いてすいません。実は、昨日の帰り道で、小林さんに待ち伏せされまして。婦長さんや西村先生にも関係のあることですから、ご報告しておこうと」
「えっ?」
「あらまぁ」
婦長も西村先生も、口を大きく開けたまま固まっている。
「どうやら僕に文句を言いに来たようなのですが、ポケットに刃物を忍ばせていました。言い合いのようなことをした後、小林さんにお父様を呼び出すように言って、連れて帰ってもらいましたが」
婦長が僕の両手を取って、口を開いた。
「そんなことが……怪我はありませんか?」
温かい手を感じて、母親に心配されている様な気分になった。嬉しさと恥ずかしさが入り混じった感じだ。
「いえ、刃物は向けられなかったので、大丈夫です」
「……怪我が無くて何よりですが、事は丸く収まったのですか?」
西村先生の言葉に、俯いて足元を見つめる。
「解りません。お父様に、大事にするつもりはないから、二度とこのような事は無いようにと申し上げました」
「そうですか」
それから西村先生と婦長は、一人で帰らないようにとか、警備に話を通してとか、色々と対策を練っていたような気がする。僕はただ、呆けたように壁を見つめていた。
使い慣れたカウンセリングルーム。僕が座っているのは、いつもは患者さんがいる場所だ。向かいの壁に、茶色いシミが見えた。
あぁ、患者さんは黙っている時、あのシミを見つめているのかもしれない。こちら側に座ったことの無い僕は、あのシミの存在を知らなかったのだ。
「神田先生」
西村先生の声で我に返ると、婦長の姿は消えていた。
「あぁ、すいません。呆けていました」
「さぁ、詳しく聞かせて下さい」
口を開くのが億劫だったが、全て話してしまいたいと思った。そうすれば、この胸の嫌な塊も消えるのではないかと。
小林に会ったところから、父親が引き取るまで、会話も詳しく再現して説明する。勿論、僕の無様なセリフも隠さずに伝えた。
「なるほど。不器用なりに、父親を呼んで引き取らせたのは良かったです」
「はぁ……」
不器用と表現してもらえたことに、少し安心する。しかし、西村先生に軽蔑されたのではないかという思いで、僕は体を硬くして机の上で両手を組んだ。
「何に苦しんでいるのです?」
西村先生の目が、やけに優しく見えた。
この人は僕を軽蔑したりしない。そう確信する。
「……小林さんをやり込めたことです。怒りに任せて、隠し持った刃物の存在を大声で暴露したこと。自分の有能さを思い知らせるような行為だったと、恥ずかしく思っています」
「うん」
「後は、小林さんが病院を辞めたことについて、同情や罪悪感があったのに、ちょっと罵倒されたぐらいでそれが消えてしまったこと。深く考える程に、個人としても臨床心理士としても、自分が未熟で卑怯に思えてしまって」
「うん、なるほど」
頷いた西村先生は、思案するように天井を仰いだ。
僕のことを考えてくれている。しかし、僕が簡単に楽になれるような、魔法の言葉など無いだろう。精神科医だって臨床心理士だって、時間を掛けて患者さんを治療するのだ。その点では、心の傷も体の傷も変わらない。劇的に人間に影響を与える物があるとすれば、それは毒と言われるものだろう。副作用は計り知れない。
「そうですね。神田さんの師として、少し私の考えを述べてもいいですか?」
「それは勿論、聞かせて下さい」
西村先生の言葉は、少し意外なものに感じられた。癒すとか、諭すとか、そういうことをしてくれるのではないかと想像していたからだ。
西村先生が机に頬杖を付いて、足を組んだ。友達と会話するような気軽な雰囲気だ。
「神田先生はね、良い人とか優しい人とか、そういった概念に縛られているのだと思います。人に感謝されたり、優しいと言われる人間であらねばならないと思い込んでいる。人に良く思われる、傷つけたりしない者が、臨床心理士に向いていると。
しかし、そういった評価を生きがいとするならば、ボランティアやもっと現場に近い職業についた方がよろしい」
僕は、驚いて顔を上げた。臨床心理士に向いていないと言われているのだろうか。酷く情けない顔を晒していると思うが、気にしてはいられなかった。
西村先生が軽く手を挙げる。ちょっと待ちなさいと制止しているようだ。話が途中なのだと気付いて、前のめりになった体を戻した。
「臨床心理士は、大学院で修士論文を書き上げなければ卒業できませんね?」
「……はい、それは、そうですけど」
突然話題が変わって拍子抜けする。
「実験的なものでも、臨床的なものでも、調査・分析・考察して一冊の論文を作らされるわけです。それは、学問に対する姿勢を学ぶ為だけではありません。臨床心理士とはこういうものだと示しているのです。
論文を書き上げたように、患者さんを学問の対象として分析することが求められている。その行為は、外の人から見れば、良い人間のすることではありません」
それは、そうかもしれない。いくら治療の為だからと言っても、人の言葉や行動、過去などを掘り返して理由を分析するのだから、人に好かれるような行為とは言い難い。
まだ続きがありそうなので、黙って西村先生の言葉を待った。
「患者さんの為に、精一杯心を割いて優しくするのが臨床心理士ではありませんよ。治療する為に、人に好かれないようなことを進んでするのが臨床心理士です。患者さんを見て、自己愛が強いだの、自尊心が高いだの、そういう分析をすることが求められている」
「はい……それは、僕も行っていることです。深く考えたことはありませんでしたが」
それが当然だと思っていた。だから、そのことについて悩んだことはなかったのだ。
由香や弘樹たちと、あの人はボーダーっぽいとか神経症だとか、そんな軽口を叩いたこともあった。確かに、人に好かれる行為ではないだろう。少々罪悪感はあったが、臨床心理士として普通のことだろうと自分を納得させてしまって、その罪悪感の意味を深く考えることはしなかった。
「あなたは良い人だとか、優しいと評価されることから、臨床心理士としての自信を得るべきではありません。それは励みにするには良いでしょうが、自信にするには危ういものです。誰かを傷つける度に、簡単に揺らいでしまうことになる。
だからね、己が論文を仕上げたこと、患者さんを分析して治療をやり遂げたことからこそ、自信を得ればよろしい」
西村先生は、言い切ったとばかりに、持参したお茶を飲んでひと息ついている。
今言われたことは、僕の欠点なのではないだろうか。
僕は、自分に自信が無い。だからこそ、自分が臨床心理士に向いているか、間違ったことをしていないか不安になるのだ。自信を得る為に、良い人間でいようとか、人を傷つけてはいけないとか悩むことになる。でもそれは、自信を得る術としては間違っているのだろう。自分の自信を、人からの評価頼りにしている。己で成したことからこそ、自信は得られるものなのだろう。
今までだって、そう出来たことはあった。患者さんのカウンセリングが上手くいけば、嬉しい気持ちを少しの自信へ変えてきたではないか。
「人からの評価で自信を得ようとするのは間違っている。自分で積み重ねたものから自信を得ろということですか?」
「そうです。だから、人に優しく出来なかった、傷つけたからといって、臨床心理士としての自信まで手放してしまうことは無いのです。勿論、倫理的に優れた人間である為に、悩んで真剣に生きることは大切です。でもそれは、自信を得る為の手段ではありません。臨床心理士として仕事をする為の、スキルとなるものです」
「良い人間、人を傷つけない人間であることは大切だけれど、そういった評価を得られても、臨床心理士としての自信は得られない?」
僕は、思い違いをしていたのかもしれない。人格者であると評価されれば、自然と臨床心理士としての自信が持てるのではないかと考えていた。
「得られませんよ。良い人間だからといって、カウンセリングが出来る訳ではありません。神田先生は自分に自信が無いから、人格を磨けば臨床心理士としての自信が持てるのではないかと勘違いしている。だから、人格を否定されるようなことがあると、臨床心理士に向いていないと悩むのです。難しい資格を取ったこと、病院での経験、それをもう少し自信にしても良いでしょう」
西村先生の言う通りだった。言い当てられたことに恥ずかしさは感じるが、それでも、と思う。最後の言葉――『もう少し自信にしても良いでしょう』は、褒め言葉なのではあるまいか。少しはあなたを、臨床心理士として評価しています、と。
何か、希望を見い出せた気がして、おずおずと口を開いた。
「小林さんとのことを悩むのはいいけれど、臨床心理士としての自信と結びつけるのは間違っている?」
「そうです。人格など、一生かけて磨くものです。 しかも、人間なら当然、感情的な行いをする時もある。今回の小林さんの件もそうでしょう。そんなものから自信を得ようと思ったり、失ったりするのは意味の無いことですよ」
西村先生が持参したお茶に手を伸ばす。講演会のようにしゃべっているのだから、喉が渇いたことだろう。僕の為に、語ってくれているのだ。
「己で得た知識や経験から自信を積み重ね、真剣に悩んで生きることで人格を磨く?」
「はい。前に私は、大いに悩んで、真剣に生きることで、心に厚みが出来る。そうしてようやく、少しは他人の心に寄り添う余地も生まれて来ると言いましたね?」
「はい」
そうだった。僕はあの言葉を胸に刻んで、悩んでいることは簡単に結論をださずに、大いに悩みぬこうと決心したのだ。
「それは――少し嫌な言い方になりますが、そういう人間であれば、患者さんから沢山の情報を得られるようになるということです。この人にだったら話を聞いてもらいたいと思ってもらえたならば、重要な話を聞きだせますし、正しい分析に近づけることが出来る。それを忘れてはなりません。我々は、良い人では終われないのです。共感してあげて終わりでは無いでしょう? 分析するという作業が待っているのだから」
そうだ、僕らは話を聞いてあげて終わりではない。内容や態度を分析して、時には精神疾患を疑う。過去のこの出来事のせいで自己愛が強くなって、などという話は、患者さんからしたら気持ちの良いものでは無いだろう。
頷いて見せると、西村先生は再び口を開いた。
「であれば、人を分析するようなことをしていても、それは恥じることではないと言い切れる自信と、説得力のある生きざまが必要になります。我々が他人の心に寄り添うというのは、そういうことです。優し気に話をした裏で、冷静にそれを分析すること。それも含めてのことなのですよ。ただ優しく有りたい人には、務まらないでしょう。
だからこそ、優しい人を目指すのではなく、心に厚みを持たせる為に清濁併せ持った己と向き合って下さい。己は未熟で卑怯だ、優しくないと嘆くよりも、なぜそんなことをしたか、これからはどうすべきなのかを悩んで下さい。あなたはまだ若いし、未熟で卑怯なことなど、これからいくらでもしでかしますよ」
「はい……、はい」
僕は少し驕っていたのかもしれない。臨床心理士としてある程度仕事をこなせるようになって、自分が少しはマシな人間になったような気になっていた。しかし、西村先生が言った通り、僕はこれからも未熟で卑怯なことをいくらでもしでかすのだろう。
「もう駄目です。これ以上はしゃべれません! 一週間分はしゃべりました」
そう言ってお茶を飲んだ西村先生は、背もたれに体を預けて、両手をだらんと垂れ下げた。映画で見たアンドロイドは、充電が切れた時にこんな風になっていたような気がする。
まだ午前中なのに、西村先生の電力を僕の為に消費させてしまったようだ。これ程語ってくれたのは、僕の事を心配している証拠なのだろう。
「僕はもう一度始めから聞きたい気分です。メモを取れば良かった」
軽口を叩いて見せると、西村先生はげんなりしたような顔を返して来る。
そこに、深々と頭を下げた。
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