14.

 美穂のカウンセリングから二日程経ったが、僕と西村先生は方向性を決めきれずにいた。

「取りあえず、近々美穂さんのご両親に現状を知らせる機会を持ちますので、その時にそれとなく探ってみましょうか」

終業時間を五分過ぎたところで、西村先生が言った。

「美穂さん抜きで、外側から情報を得るんですね?」

「そういうことです。しかし幼少時に何かあったのだとしても、ご両親が関係している可能性が高いです。聞き方には注意しないといけません」

「はい」

同意した僕を見て、西村先生は慌ただしく帰り支度を始めた。


 用事の無い時はさっさと帰るのが信条のようだが、テキパキしているようでそそっかしいので、忘れ物をして行くことも多い。

 今も、老眼鏡が机の端に置かれたままになっている。これはバッグに入れてもらえないパターンだ。案の定、そのまま机を離れようとしたので、慌てて声を掛ける。

「先生、机の上! 老眼鏡を忘れていますよ」

動きを止めた西村先生は、くるりと振り返って僕に顔を近付けた。

「……わざわざ老眼鏡と宣伝しなくても、眼鏡と言えばいいでしょうに」

「そうですね」

「そうです」

堪えきれずに吹き出すと、おでこを軽く叩かれた。


 西村先生が医局を出る後姿を眺めながら、良い師を得られたことに感謝する。

 駆け出しの心理士・臨床心理士は、自分で師を見つけることになる。資格を得たからと言って、好き勝手にカウンセリングをしているわけではない。自分のカウンセリング方法に問題はないか、きちんと行えているか、相談して指導してくれる人が必要なのだ。大抵は、院生時代の教授や、職場の上司に頼み込むことになる。傾倒している心理療法家などがいれば、直談判に行く者もいるだろう。

 僕の場合は、院生時代に大学病院での実習に来て、西村先生に惚れこんでしまった。勿論、見た目に惚れたわけではなく、診療中の患者さんへの対応を見て感動したのだ。優しい口調で、聞くべきことを無理無く自然に尋ねる姿を見て、僕もこうなりたいと思った。それからは、実習中は西村先生にくっついて回って、大学院を卒業したら僕の師になって下さいと口説き倒した。

 運よく大学病院に臨床心理士の空きが出て、同じ職場になれたけれども、例え他の場所に就職したとしても、西村先生のもとへ通うつもりであった。


 薄暗い帰り道を、一人でのんびりと歩く。ひたすら前を見て、せかせかと歩くのは苦手だ。幅の広い歩道と、背の高い街路樹。点在する路面店が、薄暗い夕刻の中で存在を主張している。もう半分も歩けば、駅に到着するだろう。

 ふと、前方に違和感を感じて目を凝らす。何だ、立ち止まっている人がいるだけかと目を逸らし掛けたが、その顔に見覚えがあった。向こうも僕を見ているようなので、立ち止まらないわけにはいかないだろう。

「小林さん……」

何週間前になるか……トラブルがあって病院を辞めた看護師、小林が立っていた。

「お話があります」

挨拶を交わす間も無く発せられた言葉は、下手な役者のセリフを聞かされている様な不快感があった。僕と話す場面を、散々イメージしてから望んでいるのだろう。言いたいことが、たっぷり用意されているわけだ。落ち込んで引きこもっていた様子は見られないので、それは良かったように思うが、なぜ僕に話をしに来たのか解らない。


 多少警戒して小林を眺めると、右手だけをトレンチコートのポケットに入れているのが気になった。手を隠しているのか。冷えるせいか。中で何か握っているのか……。

 敵意から話をしに来た者が隠し持っている物……それは刃物なのではないだろうか。

 思い過ごしならそれでいい。ただ、警戒して損はない。


「立ち話も何ですから、すぐそこの店へ入りませんか?」

都合よく、コーヒーのチェーン店がある。人通りが途切れる暗い道より、常に人がいる店内の方が安全だ。

 返事を聞かずに歩き出すと、大人しく後ろを付いて来る。先に席に付いているよう言い、コーヒーを買って姿を探すと、壁際の隅に腰を下ろしていた。

 コーヒーを机に置いて向かいに腰掛ける。明るい所で顔を見ると、しっかりと化粧をしていた。服装も凝っているし、精神的に参っている様子は無い。ただ、目を細めてこちらを睨み付けている様子には、やはり敵意が感じられた。右手はまだ、ポケットに差し入れられている。


「温かい内に飲みましょう」

試しにコーヒーを勧めて自分も飲んで見せると、小林もカップに手を伸ばした。

 左手である。

 記憶をたどると、病院では右手で文字を書いていたはずだから、やはり何かありそうだ。

 僕は、どう接したものか決められずにいた。元同僚として接するか、いっそ患者さんだと思って話を聞くか……病院でのことを考えれば、容易に話は通じないと思ったほうがいいだろう。


「お話があります」

先程と同じ言葉が、同じ調子で聞こえて来た。兎に角、聞いてみるしかないだろう。

「なんでしょうか」

「神田さんが私に意見するのは、おかしいと思います」

「えーと、詳しく聞かせてもらえますか?」

病院では神田先生と呼ばれている僕を、わざわざさん付けで呼んだ辺りに、文句を言いに来たであろうことは明白だ。

「神田さんは精神科医じゃなくて、臨床心理士ですよね? 看護師と同じレベルじゃないですか。なのに、看護師に偉そうに意見するのはおかしいですよね。ベテランでもあるまいし」

なるほど、と思う。


 小林の怒りは、全て僕に向いたようだ。僕に意見されたことで、プライドが傷付いたのだろう。看護婦長や西村先生は偉い人だから良いが、僕がそこに交じっていたことが気に入らないというわけか。

「そうです、臨床心理士です。しかし、患者さんのことに関しては、医師も臨床心理士も看護師も、等しく意見し合うものだと思っています。僕が小林さんに意見しても、おかしいとは思いませんが」

「でも、何も知らないですよね? 普段、患者さんを看ているのは私達だし。神田さんはちょっと会ってるだけじゃないですか。何が解るんですか?」

「そう言われると、臨床心理士の仕事内容を長々と話すことになりますが……聞く気はありませんよね?」

小林は、僕の話を聞く気など無いのだ。自分のプライドを保つために、僕を打ち負かしたいだけなのだろう。


 そう解ってはいても、やはり腹は立つものだ。「ちょっと会ってる」と形容された時間の為に、僕がどれほど苦労していることか。患者さんの治療状況の把握、診療計画、カウンセリング中の観察と頭を働かせながらの会話、分析による見立て。数え上げれば切りが無い。

 腹を立ててしまった以上、患者さんに接するように穏やかには出来ないかもしれない。


「神田さんが先生と呼ばれて、偉そうにしているのはおかしいですよね。皆もそう言ってました」

正直、言い返してしまいそうになった。先生と呼ばれるのは、患者さんと深く関わる都合上、距離を保つ術として有効であるし、偉そうにしているつもりは無いと。


 しかし、抑えなければならない。僕が言い返してしまっては、噛みあわない言葉の応酬になって、小林の感情が高ぶるばかりだ。

「僕は偉そうにしているつもりはありません。小林さんが不快な思いをしたならば、それは申し訳なかったと思います」

「自覚した方がいいですよ。皆も不快ですから。西村先生に媚びて、気に入られて、自分が偉いって勘違いしてるんでしょ?」

小林が馬鹿にするように鼻を鳴らした。


 僕はどれくらい耐えられるだろうか。下手に出て、謂れの無い非難を受ける。小林と向かい合っている以上、それが繰り返されるのか。


 それでも……小林の右手の先に目をやる。刃物を握っている確証は無い。だが、刃傷沙汰にでもなったら堪らない。


「それは、明日にでも皆さんと直接お話をしてみますよ」

「皆、本当のことなんて言いませんよ。神田さんとは壁がありますから」

「それでも直接本人達と話し合いますので、小林さんに代弁して頂かなくても結構ですよ。小林さん個人が僕にお話が無いようでしたら、もう帰らせて頂きます」

いっそここで、走って逃げた方が良いのかもしれない。だが、明日も同じ場所に立っていたらどうするのだ。


「臨床心理士のくせに、私の言っていることが理解出来ないんですか?」

「言っていることは理解出来ますよ。僕は確かに臨床心理士をしていますが、全ての人間を無条件に受け入れるわけではありません。同意出来ないことがあれば、主張もします」

「言い訳しないで下さい。人を理解できないくせに、臨床心理士をやっているんでしょ?」


瞬間、僕は自分が立ち上がっていることに気付いた。

怒りに、体が反応してしまった。


 頭のどこかで、酷く自分が無様であると感じている。しかし、最早抑えようも無い怒気が、僕の口を開かせた。


「小林さん、あなたが余裕を持って僕を罵るのは、ポケットに入った刃物のおかげでしょう!」

大声を出していた。


 動きを止めた店員の姿が目の端に移る。身の震えそうな怒りと、後悔から来る不安。どちらの感情が強いのかさえ認識出来なかった。


 小林は黙ったまま動かなかった。立ち上がった僕を見上げるでもなく、座って話をしていた時と同じ姿勢で、呼吸さえしていないように見える。

「あの、大丈夫ですか?」

少し離れた位置まで歩み寄って来た店員が、声を掛けてくる。

「……はい、大丈夫です。うるさくしてすいませんでした」

僕が頭を下げて座ると、不審そうな表情で頷きながら下がって行く。


 小林が見せた反応と他人の介入で、ある程度は怒りが収まってくる。

 やはり、小林のコートの右ポケットには、刃物が入っているのだ。突然、心の支えにしていた秘密を言い当てられて、身動き出来なくなってしまったのだろう。しかも、蔑んでいる最中だった僕に指摘されたものだから、心の中では怒りや羞恥心が猛威を振るっているのかもしれない。


「小林さん、お父さんに電話して、迎えに来てもらって下さい。僕の言葉で、ここの店員さんもあなたが刃物を持っていると解ってしまった。ここで僕があなたを一人にしたら、警察を呼ばれるかもしれません。かと言って、刃物を持っているあなたを一人で帰す訳にはいかない。お父さんを呼ばないのであれば、僕が警察に電話します」


 小林の左手がゆっくり動き、机の端にあった携帯電話を掴んだ。

「迎えに来て。迎えに来て!」

抑えた声量で、店の場所を説明している。

 小林は、自失してパニックになっているわけではなさそうだ。ここでこういう行動が取れるということは、自分の状況を把握する冷静さは持ち合わせているのだろう。


 四十分程、身動きしない小林の前で本を広げていた。未だ燻っている怒りのせいで、内容など入って来なかった。頭の中に、小林に言われた言葉が次々と浮かんできて、それに反論している内に、時間は過ぎて行った。じっと銅像のようになっている小林も、心の中では僕とおなじようなことをしていたのかもしれない。


 机の横に人が立つ気配がして顔を上げると、スーツを着た小林氏の姿があった。先程の電話の様子からすると、詳しい説明など受けてはいないだろう。揉めるのは御免なので、立ち上がって耳元に口を寄せた。

「娘さんは、刃物をポケットに忍ばせて、僕に文句を言いに来たようです。大事にするつもりはありませんので、連れて帰って下さい。そして、二度とこのようなことが無いようにお願いします」

小林氏は言葉を発しなかった。


 眉間に皺を寄せ、口を引き結んだまま、娘の腕を掴んで立たせている。素直に従った娘と寄り添うようにして、一度も口を開くことなく店を出て行った。

 とんでもないことをしでかした娘でも、愛情は揺らがないのだろう。僕と目を合わせず、頭一つ下げなかった姿から想像出来る。娘が刃物を持参したという事実は、父親の心に大きな衝撃を与えたはずだが、全身で、それでも娘の味方である、お前に謝罪などしないと表現していた。


 娘の方は父親をどう思っているのだろう。自分の為に病院に乗り込んで行った父親は、成果を上げずに家に帰って来た。そして、婦長にもらった資料のことを、あれこれ尋ねられたことだろう。どんなやり取りがあったのかは解らないが、業を煮やした娘は、自分で行動することを選んだ。

 父親を、役立たずと責めたのだろうか。


 ホッとすると同時に、酷く嫌な気分になった。

 自分が取り返しの付かないことをしてしまったのではないかと、焦る気持ちが頭をもたげる。まずい対応はどれだっただろうかと、自分の行動を思い出しては思案する。


『小林さん、あなたが余裕を持って僕を罵るのは、ポケットに入った刃物のおかげでしょう?』

自分の言った言葉が、頭の中で響いていた。


 僕は、怒りに任せて小林をやり込めた。それは間違いない。彼女がそっと忍ばせて来た、心の拠り所だったのであろう刃物の存在を暴露して、己の有能さを誇示したのだ。

 恐らく、使う気は無かったのだと思う。


『言い訳しないで下さい。人を理解できないくせに、臨床心理士をやっているんでしょ』

彼女にそう言われて、僕は激怒した。そして、攻撃をした。


 小林は僕の話を聞く気が無かったとか、刃物で傷付けられる恐れがあったとか、そういう正論が浮かんでくる。「僕は悪く無い!」そう叫んでいる自分もいる。

 しかし少し前まで、僕は小林に同情ていたし罪悪感を持っていた。そんな相手に、少し罵倒されたぐらいで怒りが抑えられなくなったことは事実だ。

 なんと安っぽい同情と罪悪感なのだろう。

 僕は、自分に失望している。

 一個人としても、臨床心理士としても、未熟で卑劣な人間なのだ。

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