17.

 美穂の両親との面談日、カウンセリングルームへは母親しか来ていなかった。

「お母様だけですか?」

西村先生が尋ねると、母親は頷いて見せる。

「えぇ……主人は仕事で」

「そうですか」

父親がどんな人物か確認できないのは残念だったが、無理強いするわけには行かないので仕方が無い。


 西村先生が、現在の美穂の状態を説明する。安定しているし、特に問題は起こしていない。症状が良くなったという報告は、美穂の母親にとっても喜ばしいことだろう。しかし、美穂の母親に嬉しそうな様子は見られない。折れた骨がすっかり元通りになるように、娘さんは治りましたよ、という話ではないからだろう。

 それにしても、美穂の母親はリアクションが薄い。特に質問するでも無く、気の抜けたような相槌を打っている様は、話がきちんと伝わっているのかすら怪しく思える。四十歳半ばの女性で、化粧は派手なほうである。年よりは若く見えるし、服装も高校生が着ている様なラフなものを身に付けている。黙って西村先生の口元を見つめている姿からは、何を考えているのか想像出来なかった。


 美穂の人格では、社会に溶け込むには難がある。本人は普通にしているつもりでも、トラブルを起こしてしまう可能性が高い。そして、自分に都合が悪いことが起これば、不安定になってしまうのだ。それでは人格を治せばいいとは言っても、経験から積み重なって形成された人格を、大掛かりに組み直すことは不可能に近い。時間と労力を割いても、「嘘は吐かないようにいたしましょう」といった、ごく一部を和らげることしか出来ないだろう。

 それでも、回復したならば病院は出た方が良い。たとえ入退院を繰り返そうとも、社会と少しずつ繋がっているのが自然な在り方だろう。いずれ面倒を見てくれる人がいなくなった時、保護を受けながらでも何とか社会で生きて行けるようになって欲しい。


「来月の中旬あたり、退院しても良いかと思いますが」

西村先生の言葉に、それまで虚ろだった母親がいきなり顔を上げた。西村先生の目を見て、笑みを浮かべている。

「退院? 家に帰って来るんですね? 良かったわ、本当に!」

はしゃぐような声を聞いて、いささかホッとした。それは西村先生も同じだったようで、満足げに頷いている。

「そうです。退院して、通院してもらうことになります。症状を見てお薬も出しながら、カウンセリングも継続したほうが良いでしょう」

「えぇ、家に戻って来るなら、何でも!」

先程までの、無気力な様子は何だったのだろう。娘が家に戻って来ることが嬉しいのであろうが、ここまで急激な変化を見せられると少々不安を感じる。

 西村先生に目配せすると、僕に頷いて見せてから口を開いた。


「娘さんが帰って来るのは嬉しいですよね」

「えぇ、本当に良かった。主人に毎日のように言われてたんですよ。美穂はまだ退院出来ないのかって」

「お父様も退院を楽しみにしていらっしゃる?」

「主人は何と言うか、真面目なので。娘が精神科に入院してるのが困るというか。ほら、世間体もあるし。さっさと退院させて、予備校にでも通わせろって」

かなり不安な話が飛び出して来る。

 美穂のことについて、父親はあまり理解を示していないようだ。美穂から聞かされた予備校の話は、父親の発案だったのか。

「お父様は、美穂さんの事に関して、お母さまに一任されているのですか? 一人で何もかもするのでは、負担に感じたりしませんか?」

西村先生の言葉を聞いて、母親は眉間に皺を寄せた。

「主人はね、昔は美穂にべったりで甘やかしてたんです。でも、仕事が忙しくなってからは私に任せきりだったから……美穂がこうなったのはお前のせいだって責められちゃって」

そう言って溜め息を吐いて見せるが、どこか芝居がかっていた。あまり深刻さを感じさせない語り口だったので、内容のわりに悲痛な感じは受けない。

「ねぇ、先生、私のせいなんでしょうか。私が育て間違ったんですか? 私のせいで、美穂はあんな風になっちゃったんですか?」

僕達は、親からこのセリフを聞く機会が多い。


 自分が育てた子が、突然前後不覚になったり、自傷行為をする姿を見てしまえば、親も冷静ではいられないだろう。更に精神科に入院ということになれば、我が子が狂ってしまった、育て方を間違えたのだろうか、どこがいけなかったのかと、自分を責めるようになる。

 統合失調症の場合は、育て方に関係無く発症するので、「ご両親のせいではありませんよ」と言えるのだが。美穂のような人格障害の場合、やはり家庭に問題があった場合も多い。しかし、愛する子供の異様な姿を見せつけられた人に、あなたに問題がありましたよ、とは言えないだろう。治療の為に親の自覚が必要な場合でも、タイミングというものがあるのだ。

 現在はインターネットが普及しているので、自分で詳しく調べた親が、自分には思い当たることがあると、涙ながらに申告することもある。


「美穂さんはまだ子供ですから、両親共に育てている途中なのではないでしょうか。子育てを間違ったと言うには、早いでしょう。我々も力になりますから、ご自分をあまり責めずにやっていきませんか?」

西村先生の言葉に、母親は渋々と言った体で頷いている。

 恐らく、あなたのせいではありませんよ、と否定して欲しかったのだろう。そうすれば母親の気持ちは楽になるのだろうが、短絡的な嘘を吐く訳にはいかない。嘘吐きだと認識されてしまうと、信頼を得るのは難しいからだ。相手が望む言葉を与えないことよりも、嘘を吐いてその場をやり過ごすことの方がリスクが高い。


「お父様の仕事が忙しくなったのは、いつ頃です? 美穂さんは何歳ぐらいでした?」

西村先生の質問は、美穂の幼児退行を探る為のものだろう。事前に情報を得ようと決めていたのだ。

「歳は、はっきりとは……あぁ、そうだわ、小学校四年生の後だと思います。昔は美穂がしょっちゅう言っていたから。四年生の時はパパと遊んで楽しかったって。突然忙しくなったから、遊んでもらった最後の年が印象に残っていたのね。パパとの楽しい思い出は、全部小学校四年生ってことになってるみたい」

母親はそう言って笑って見せたが、穏やかに笑みを返すには不自然すぎる話だ。


 小学校四年生以降、美穂には父親との楽しい思い出が無いということか。確か先程、父親は美穂が小さい頃は溺愛していたと言っていた。そんな父親が、仕事が忙しいからと言って、娘と遊ばなくなるものだろうか。


「お父様は忙しいのですね。出張が多かったりするのですか?」

西村先生の言葉を聞いて、そういう可能性もあるかもしれないと思い直す。確かに、いきなり長期の海外出張に行ってしまったなんてこともあるだろう。

「出張は、ごく偶にですけど。ほら、仕事の付き合いってあるでしょ? 普段の仕事も忙しいのに、夜の飲みとか、休日のゴルフとか。そういうので休む暇が無いから、娘に構っていられなくなっちゃったのよ」

そうだろうか……。

 腑に落ちない思いで、手元のメモを見つめる。父親について母親が語ったことを、僕の汚い字で書き留めたものだ。

 

『真面目。娘が精神科に入院しているのが困る。世間体もある。さっさと退院させ て、予備校にでも通わせろ』

『昔は美穂にべったりで甘やかす。仕事が忙しくなってからは母親に任せきり』

『美穂がこうなったのはお前のせいだと母親を責める』

『夜の飲み、休日ゴルフ。休む暇が無いから、娘に構っていられない』


 これを見る限り、娘と正常な関係を築いているとは思えなかった。しかし、親の愛情を外から測るのは難しいだろう。本当に忙しくて娘を構えなくなったのかもしれない。非情に見える言葉も、娘の姿を見て冷静になれず、母親に当たっただけかもしれない。もしかしたら、退院させて予備校に通わせるという平凡で日常的な目標を作ることで、己の平常心を保とうとしている可能性もある。


「お父様にも、会ってお話しできるといいのですが」

「忙しいので無理だと思います」

西村先生に即答したところを見ると、会うことは難しいのかもしれない。父親本人が、病院には行かないとはっきり拒否しているのか。

「大丈夫です。退院しても、美穂ちゃんの面倒を見るのは私ですから。専業主婦だから、一日中付いていてあげられるし。すぐに予備校に行けるようになると思います。あの子は賢いから、すぐなじめるわ」

母親の浮かれた声に、不安が募るばかりだ。

 美穂とのカウンセリングで聞いた話によると、母親との関係は悪く無さそうである。娘として甘やかしながら、仲の良い友達のように接している感じだ。いずれは美穂が反発するかもしれないが、退院後の面倒を見てもらうには悪くないだろう。


「主人がね、美穂の鬱は、甘えているからだって言うんです。私が厳しくしなかったから、ちょっとしたことで辛いだの悲しいだの、大騒ぎするんだろうって」

声のトーンを下げて話した母親を見て、西村先生が口を開いた。

「それは違います。鬱は病気ですから、甘えて大げさに辛がっているわけではありません。気分が塞ぎ込んだ時には、もう自分では感情をどうにかすることは出来ませんから」

「そうですよね、前に先生にそう聞きましたもの。私は理解しています」

説明にもっともらしく頷いているが、深刻さは感じられない。この家庭では、父親の理解は必要ないということなのだろうか。


 鬱に関しては、世の中に広く知られた病名であろう。しかし、広く受け入れられているかと言えば、そうではない。常人には理解し難い症状であるからだ。

 美穂の父親のように、「鬱は甘えだ」と言う人も少なくない。それは、ちょっとしたことでくよくよする人間が鬱になるという誤解からくるものだ。誰しも、辛いことを乗り越えた経験がある。自分は歯を食いしばって乗り越えた物を、それが出来ずに鬱だと言うのは、甘えた人間のすることだと考えてしまうのだろう。

 しかし、体の傷に例えるとどうだろう。痛みに耐えて消毒して、やがて治るというのが自然なプロセスだ。それは、心が癒える通常の過程と大差ない。だが、それが通常に働かなくなるのが鬱なのだ。

 体質そのものが変わってしまって、痛みに耐えて消毒しても、傷が治りにくくなってしまう。ようやく塞がったと思われた傷も、少しぶつけたくらいで全開になる。何度も何度も、同じ痛みに襲われることになる。

 なぜ傷が治らなくなるのか、それは詳しく解ってはいない。脳内物質の分泌や抑制といった側面からも研究は進んでいるが、容易では無い。


「お父様にもご理解頂けると、美穂さんにも良い影響があると思うのですが。是非お会いして説明させて頂きたいですね」

「主人は来られません。忙しいので無理です、来ません」

西村先生の言葉に被せるように、母親がきっぱりと否定する。

 やはり、父親と会うのは無理そうだ。僕達には何の権限も無い。美穂の治療に父親との話し合いが必要であると感じても、拒否されてしまえばそれまでなのだ。どうにか説得は続けるにしても、できる範囲で別の方法を考えるほうが建設的なこともある。兎に角、母親に理解を深めてもらうしかないだろう。


 小林の父親のような人もいれば、美穂の父親のような人もいる。人の考え方は様々だ。僕達は、愛情がどうのと判定して糾弾する立場ではない。現実の中で、出来得る限りの手を尽くすしかない。


「それで、美穂ちゃんはもう切らないようになりましたか?」

心配そうに眉間に皺を寄せた母親が、気軽な口調で尋ねて来る。

「自傷行為をしないでいられるように、カウンセリングを行っています。効果は出ていると思いますが、絶対に切らないとは申し上げられません。ご家庭でのことは、ある程度の監視など、お母様の協力が必要です」

「……そうですか。私は何でもやりますけど」

母親は、拍子抜けだと示すように、肩を上下させて見せた。

 首周りの広いカットソーが振動でずれて、右肩を露出させる。黒いブラジャーの紐も顔を出している。見えてしまったのか見せているのか、ファッションに疎い僕には解らないが、年齢相応の姿には見えない。


「お父様が忙しいのでは、大変ですね。帰りが遅いならお食事も別々で、お母様も手間が掛かるでしょう」

西村先生が質問する。これは、家族関係を上手く聞きだせそうである。

「いいえ、主人は手がかからないっていうか、自分で食べて来ることも多いですから」

「それは助かりますね。でも、お寂しくはないですか?」

「新婚じゃあるまいし、寂しいなんて思いませんよ。主人は無口だから、いてもいなくても変わらないわ」

「そうですか」

そう言って笑う母親に、西村先生も笑んで見せている。亭主の愚痴をこぼし合う主婦同士のようだった。

「美穂さんは年頃だから、お父様を避けたりしていませんか?」

「美穂は良い子だから、父親を嫌ったりはしていないみたい。家にあまりいないし、大した会話は無いけれど」


 話から察するに、父親は家庭に無関心なのだろう。母親とも美穂とも、ろくに会話が無いようだ。美穂が小さい頃は、甘やかしてコミュニケーションを取っていたようだが、小学校四年生以降、突然それが無くなった。仕事が忙しくなったと説明しているが、それが本当の理由なのかは解らない。


「それじゃあ、小学校の頃、突然お父様が忙しくなって、美穂さんは寂しがったでしょう?」

「初めは寂しがったけど、説明したらちゃんと良い子に出来ましたよ」

母親は、少し誇らしげな顔を見せた。「良い子」に出来る美穂は、母親にとって自慢だったようだ。

 

 美穂の「良い子」というセリフは、母親に言い含められたものなのかもしれない。良い子にしていれば、ご褒美がもらえるわよ。お父さんが遊んでくれるわよ。そんな風に説明していたのではないだろうか。

 何にせよ、両親が退院させたがっていて、美穂の症状が落ち着いているのだから、無理に留める理由は無いようにも思えるのだが。

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