②恐怖発熱細菌

 てらぁ!


〈アンテラ〉は獰猛に吠え、宙吊りのワゴン車を振り下ろす。

 きねのように地面をくバンパー、バンパー、バンパー。地を打つ度にひしゃげ、無惨に縮んでいくワゴン車が、執拗に〈シュネヴィ〉を追う。


〈シュネヴィ〉は右、左、右と小刻みに跳び、特大の鈍器と化した車体をかわしていく。乱造される残像はすぐに潰され、アスファルトにクモの巣大のクレーターを残した。

 強打される度に地面が震え、砕け散ったライトがすさぶ。ぱらぱらとガラス片が降り注ぎ、〈シュネヴィ〉の仮面の中に雨音そっくりの音を反響させる。


「フッ!」

〈シュネヴィ〉は右から左へ腕を払い、剥落はくらくしたバンパーを弾き飛ばす。

 左腕がかすかに痺れた途端、正面を塞ぐ影。

 車体から外れたタイヤだ。


〈シュネヴィ〉はかがみながら前に跳び、高々とバウンドするそれを潜り抜ける。続いて両手で地面をね飛ばし、逆立ち状態のワゴン車に突っ込んだ。

 鋭くコートをひるがえし、ワゴンの側面にボレーキックを叩き込む。人工筋肉の助力を得た一打は、重々しい車体を大空の中央にかっ飛ばした。


 パールホワイトの軌跡が夜空を切り裂き、家々の屋根を越えていく。

 一〇〇㍍ほど空中を疾駆したそれは、程なくビルの六階部分に突っ込んだ。

 車体の前半分がビルに沈み込み、激烈な轟きが鼓膜を殴打する。

 ビルの外壁に大穴が空くと、バレーボール大のコンクリ片が宙を舞った。


「……フッ!」

〈シュネヴィ〉は足下に目をり、つい先ほどまでタイヤに絡み付いていた触碗しょくわんを掴み取る。加えて乱暴に息を吐き、〈アンテラ〉に続くそれを思い切り手繰たぐり寄せた。


 て、てらぁ!?


 一本釣りに似た手応てごたえが走り、電柱の根元から〈アンテラ〉が飛び出す。〈シュネヴィ〉は一気に触碗しょくわんを引っ張り、釣果ちょうかを懐に引きずり込んだ。


 無防備に空を掻く〈アンテラ〉を、突き出した肘で迎え撃つ。顎に直撃を受けた〈アンテラ〉は、真っ逆さまに〈シュネヴィ〉の足下へ落ちた。

〈シュネヴィ〉は触碗しょくわんを吊り上げ、ダウン中の〈アンテラ〉を引き起こす。〈アンテラ〉の足が地面を離れると、サンドバッグのように巨体が揺れた。


「フッ! ハッ! セイッ!」

〈シュネヴィ〉は小刻みに拳を発射し、〈アンテラ〉の顔面にジャブを、がら空きの腹にボディブローを叩き込んでいく。

 返り血のように黒い火花がほとばしり、〈シュネヴィ〉の全身に吹き付ける。葬式の際に掛ける鯨幕くじらまく――白黒の幕を模したコートは、次第に黒い面積を増やしていった。


 すぅぅぅ……。


〈アンテラ〉の顔面から鉄拳を引き抜き、〈シュネヴィ〉は深く息を吸う。同時に左腕を大きく引き、トドメになるはずの拳を固めた。


「シッ!」

 矢のように息を吹き、引き絞った左拳さけんを撃ち出す。

 瞬間、〈アンテラ〉の頭部が苛烈にまたたき、顔面の中央に縦線が走った。


 てらあ!


〈アンテラ〉の顔面が二つに――そう、ハエトリグサのように割れ、粘っこい唾が吹き荒れる。たちまちアイスピック似の牙があらわになり、〈シュネヴィ〉の顔面に食い掛かった。


 凶悪に輝く歯列しれつを前にし、〈シュネヴィ〉は反射的に横を向く。

 避けきれない。

〈アンテラ〉の顔面が鼻先を横切り、鋭利な牙が頬をかすめる。

 すぐさま小さく火花が散り、〈シュネヴィ〉の視界を生白く照らした。

 あと一瞬反応が遅かったら、顔面を食いちぎられていただろう。


 獲物を捕らえたハエトリグサは、〇.一秒で葉っぱを閉じると聞いたことがある。噂にたがわぬ素早さには、今後も注意を払うべきだろう。


 渾身の一噛ひとかみをかわされた〈アンテラ〉は、勢い余って膝を着く。

 勿論もちろん、一度しくじった程度では諦めない。すかさず不格好なクラウチングスタートを切り、今度は〈シュネヴィ〉の脇腹に飛び掛かる。


 四つん這いの〈アンテラ〉を見下ろし、〈シュネヴィ〉は軽く足を振る。途端、鋭く伸びたつま先が〈アンテラ〉の腹にめり込み、マウスピースのように唾が飛んだ。


 てらぁぁ!


 足蹴あしげにされた〈アンテラ〉が、背泳ぎするように転がっていく。

 硬い後頭部は鋪装を削り、道路に浅いわだちを刻み込んだ。


 程なくガードレールが〈アンテラ〉を受け止め、銅鑼どらに似た轟音が耳を貫く。テニスボールのように弾き返された〈アンテラ〉は、したたか地面に腹を打ち付けた。


 てらぁ……! てらぁ……!


 腹這いになった〈アンテラ〉が、右肘で這い、左肘で這い、〈シュネヴィ〉から遠ざかっていく。

 一旦、体勢を立て直そうとしている? いや脇目も振らずに這いつくばる姿には、「逃走」と言う形容詞以外使うことが出来ない。


〈シュネヴィ〉は淡々と歩を進め、〈アンテラ〉との距離を詰めていく。そうして獲物の背後に立つと、力任せに〈アンテラ〉の膝の裏を踏み付けた。

 ごりっと〈アンテラ〉の骨が鳴き、鈍い感触が〈シュネヴィ〉の靴底を震う。悲痛な絶叫を聞き流し、〈シュネヴィ〉は〈アンテラ〉の頭頂部を掴んだ。


 膝を踏み、下半身を固定した状態から、〈アンテラ〉の頭部を引っ張り上げていく。ベニヤ板を曲げるような感覚と共に、〈アンテラ〉の背中が反り返る。透明な身体から透けた背骨は、キャメルクラッチを受けたようにたわんでいた。


 てらぁ! てらぁ!


 放せ! 放せ! とがむしゃらに明滅し、〈アンテラ〉は手足を振り回す。次の瞬間、触碗しょくわんの先端にあるカンテラ状の器官から、蛍光色の水玉が飛び散った。


 毒々しい輝きが瞳の奥に突き刺さり、〈シュネヴィ〉の記憶を呼び覚ます。


 ミステリーサークル状に焼き払われた空き地。


 炭の積み木と成り果てた一軒家。


 黒こげになった自転車は、真っ赤に融けたアルミをしたたらせている。


 見る見る頭の中にススの臭いが立ちこめ、〈シュネヴィ〉に要求する。

 今すぐ退け!


「チッ!」

 一も二もなく〈シュネヴィ〉は両腕を交差させ、顔面を覆う。

 同時にしたたか地面を蹴り、大きく後方に跳んだ。


 間髪入れず目の前の水玉が砕け散り、閃光が〈シュネヴィ〉を包み込む。〈シュネヴィ〉の視界はまたたく間に――いや、のろまなまぶたが開閉するより早く、真っ白に染まった。


 昼間のように空が照らされ、一斉に星々が消える。オリオン座の一等星ベテルギウスでさえ、闇夜のカラスのように見えなくなってしまった。


 一気に時間の流れが遅くなり、世界中の動きがスローモーションに変わる。

 命の危機に瀕した時は、いつもこうだ。

 目敏めざとく本能が働き、一つでも多く情報を集めようとする。

 たぐまれなる生への執着心には、〈シュネヴィ〉自身呆れるばかりだ。


 世界を塗る光の中から、膨れ、膨らみ、膨れ上がっていく爆炎。

 強烈な衝撃波が地面をえぐり、アスファルトの破片が乱舞する。

 駐車場の車は一台残らず燃え上がり、黒煙の絡まる火球と化した。


 辺り一帯にガソリンの臭いが立ちこめ、〈シュネヴィ〉の鼻腔びくう雪崩なだむ。猛烈な熱気は頬をあぶり、かすかに肉の焼ける音を立てた。


 爆炎がほとばしる直前まで、周囲に火の気はなかった。

〈アンテラ〉の放った水玉自体も、爆発を起こす液体ではない。


 では一体何が、世界を紅蓮に染めたのか?


〈シュネヴィ〉はその答えを知っている。


 業火を生み出したのは、水玉に含まれる細菌だ。


 深海魚のチョウチンアンコウは、特徴的な提灯ちょうちんの中に細菌を棲まわせている。この細菌には発光する性質があり、暗い深海で獲物をおびき寄せるのに役立っている。


 同様に〈アンテラ〉が体内で繁殖させている細菌は、高温を発する能力を持つ。


 冬の必需品である使い捨てカイロには、袋詰めされた鉄粉てっぷんが使われている。鉄粉てっぷんには空気中の酸素と反応する性質があり、これによって熱を発している。


〈アンテラ〉の細菌が高温を発する原理は、この理屈によく似ている。

 空気中に放たれたそれは、体内の発熱物質を酸素と反応させる。

 酸化した発熱物質は爆発的に温度を上げ、一瞬にして沸点を超えてしまう。


 水が水蒸気に変わる際、その体積は一五〇〇倍以上に膨張する。

 同様に気化した発熱物質は、二〇〇〇倍近く膨張。

 同時に自然発火する温度を超え、広範囲を焼き払う。

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