②理解不能な日本語
「最近、どう?」
「ええ、まあ」
抽象的な質問に具体性のない答えを返し、半平は袖を揉む。
香苗の母親に、本当のことを告げる――。
半平は覚悟に覚悟を重ねて、この家を訪ねた。
なのに、いざ実行しようとすると、絞首台を前にしたように身体が固まる。
口を開くどころか、香苗の母親の目も見られない。
押し黙る半平に、香苗の母親は世間話一つ切り出さなかった。
まばたき一つせず、下を見つめる姿に、何かを感じ取ったのかも知れない。
今さら線香を上げに来た不自然さ。顔を上げられない理由。
どちらも追求してもらえずに、沈黙の時間だけが流れていく。
気が付けば、半平の口には
付いて来てもらえばよかった……。
深い後悔と共に、ハイネの顔が脳裏を
芦尾家に行くと聞いた彼女は、独りで大丈夫かと心配してくれた。
半平が「辛い」と口にすれば、今頃、横に座ってくれていただろう。
ハイネが背中を押してくれたなら――いいや、横にいてくれるだけでいい。
あの息遣いが、香りが、体温がそこにあるだけで、あらゆる不安や恐怖は声を潜める。例え絞首台を前にしても、すらすらと真実を語れたはずだ。彼女さえいてくれれば、遺影から目を
一度出直し、彼女に付いて来てもらおうか?
……いいや、駄目だ。
第三者のハイネを同席させれば、香苗の母親に分別を
最愛の娘を失い、胸が張り裂けそうになっている人に、新たな苦しみを植え付ける? それならまだ、何もしないほうが誠実だ。
何のために、図々しく生き返った?
真実を告げる恐怖に背を向け、死に逃げ込んだ卑怯者に、審判を下してもらうためではないか。この上まだ、無罪と言う終身刑でお茶を濁すつもりなのか。
「冷めちゃうわよ」
湯気の希薄になったお茶を、すっと出されたのが合図。
「俺が香苗さんを殺したんです」
半平は香苗の母親を見つめ、事実を端的に告げる。
そうして弁明を、撤回を封じ、自らに真実を告白させた。
「沼津くんが、香苗を殺した……」
呆然と呟き、香苗の母親は口を閉じた。
風鈴の音だけが
半平には断言出来る。
目の前の人は今、ありったけの叱責を
「少し他人の顔色を見過ぎるけど、誰かが嫌な思いをしないように気を
香苗の母親は仏壇に目を遣り、感嘆の息を漏らす。
「あの子、人を見る目があったんだねえ」
言葉なのは、半平にも判った。
だが、意味が判らない。
香苗の母親の口から出たのが、糾弾ではなかった――。
その瞬間から、慣れ親しんだ日本語が理解不能になってしまった。
半平は
だが、一向に状況は変わらない。
「あの子、いつも言ってたよ。私が空気読めないことして、雰囲気を悪くすると、沼津くんがみんなを笑わせてくれる。私のせいで苦労してるのに、一回も文句言われたことがないんだよって」
「芦尾のためじゃない。俺は揉め事が起きて、俺が嫌な思いをするのが怖かっただけだ」
「香苗は幼稚園の頃からああでね。周りと上手くいかなくて、小学校の時は休みがちだったの」
「あの芦尾が!?」
思わず叫んでしまった半平は、慌てて口を押さえる。
文化祭でクラス中が盛り上がっている時も、香苗は堂々と読書に励んでいた。
皆が机を下げているのに、独りだけいつもの位置に座る姿は、清々しかったくらいだ。周囲の目や評判を気にしていたとは、とても思えない。
「……あの、すみません」
「あの子をよく見てくれていたのね」
嬉しそうに言い、香苗の母親は目を細める。
「中学に入る時も、全然期待してなかった。どうせ何も変わらないって。私もいよいよ登校拒否かなって思ってたのよ。けど、いざ学校が始まると、毎朝七時に起きて
「そう、きちんと通ったの。三年間、沼津くんと同じクラスだった中学にはね。学校に行かなくなった後も、プリントとかノートとか毎日届けてくれたよね。あの子、すっごく感謝してた。中学の話なんかすると、一気に不機嫌になるのに、沼津くんの話をする時だけは歯を見せてたっけ」
突如、香苗の母親は口を覆い、イタズラっぽく笑う。
「あの子、沼津くんのことが気になってたのかもね。ああ、いけないいけない。こんなこと言ったら、あの子が仏壇から飛び出てきちゃうわ。『変なこと言わないで!』って」
「芦尾が、俺を……?」
口に出すと、即座に一つの言葉が脳裏を
あり得ない。
隣の席になった時も、背の順で横に並んだ時も、香苗は目を合わせてくれなかった。
そう言えば、一度、廊下に落ちていた文庫本を拾ったことがある。
あの時も本を渡すや
「うちは父親を早くに亡くして、お世辞にも裕福とは言えない」
香苗の母親は部屋を見回し、楽しげだった表情を曇らせていく。
「信じるって口では言ってたけど、ほんの少し、もしかしたらって思ってた。自分を責めたよ。私の頑張りが足りないせいで、
香苗の母親は重い荷物を下ろしたように息を吐き、
半平の目に映ったのは、晴れ晴れとした笑顔だった。
なぜ澄んだ表情を浮かべられるのか。
なぜ仇を前にしているのに、顔を歪めないのか。
なぜ待てど暮らせど罵声を浴びせてもらえないのか。
半平には何一つ理解出来ない。
考えるだけ頭の中がこんがらがって、無性に髪を掻き
「本当のことを教えてもらえてよかったよ。やっぱり、
「お礼なんて……言わないで下さい」
噛み締めていた唇を開いてしまったのは、一生の不覚だった。途端に目尻から力が抜け、涙が、絶対に逃がさないと誓っていた涙がこぼれ落ちる。
一滴でも逃してしまったら、もう収拾は付かない。
ただお礼を言われただけなのに、なぜこうも感情が溢れるのだろう。
香苗の家を訪れるまでは、殴られることさえ覚悟していたはずだ。
人殺し。
香苗を返せ。
出て行け。
どんな言葉を想定しても、視界は滲まなかった。
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