③最善の間違い
「香苗がああなったのは事故。不幸な事故なの。殺したなんて言ったら、あの子が怒るよ」
香苗の母親は優しく言い聞かせ、赤ん坊を寝かし付けるように半平の背中を叩く。途端に半平は崩れ落ち、テーブルにしがみついた。
老人のように曲がった背筋には、もう僅かな力すら入らない。
頭は怪獣よりずっと重く、化け物にも持ち上げられなかった。
「俺がもっと早く本当のことを言ってたら、芦尾は死ななかった」
みっともなく割れた絶叫が響き、悲しげに風鈴を鳴らす。
自分への怒りと後悔でぐしゃぐしゃになった頭は、見境なく拳を振り下ろそうとする。
確かにテーブルや椅子に当たれば、幾らか心が静まるかも知れない。でも感情のままに拳を叩き付けたら、確実に
抑えろ……! 落ち着け……! これ以上、迷惑を掛けるな……!
半平は右手で左手を、左手で右手を拘束し、唇を強く噛む。
だが、そうやって閉じ込めようとするほど、口の中に響く
「本当に頑固な子だね。これから損ばっかりしちゃうよ、それじゃ」
香苗の母親は呆れたように笑い、一転、半平を叱咤する。
「ほら、顔上げて! 男の子でしょ!」
半平は反射的に飛び跳ね、テーブルから顔を上げる。母親や姉にさんざん虐待……ゴホン、調教された身体は、女性の怒声にとことん弱い。
湯飲みに映った顔は、涙と鼻水でテカテカ。
粘っこく糸を引く
「聞いてるよ。色々、街の人の手助けをしてるんだって?」
香苗の母親は優しく確かめ、半平の肩に手を置く。
「香苗のことを悪いと思うなら、これからもたくさんの人を助けてあげて。香苗の分まで笑わせてあげて。そしてこれからは、未来の沼津くんも笑わせてあげるんだ」
それは今までの人生の中で、一番理解出来ない言葉だった。
自分が将来に目を向ける? 自分が皆と同じように笑う?
そんなことをすれば、香苗の母親が怒りと苦しみに打ち震える。
間違いない。
間違うはずがない。
家族を殺した相手が自由を満喫しているのを見て、笑顔になれる人などいるはずもない。
半平は自分の未来を捨て、お節介を焼くことに腐心してきた。
保身だらけの行動を見て、素直に笑うことは難しいかも知れない。
ただ冷笑や嘲笑と言う形なら、顔を
なのに、過去を悔やみ、無様に
そう、この人は笑っていない。
この人は、泣いている。
「沼津くんがそんな顔してたら、こうして笑ってる香苗が泣いてしまうよ」
香苗の母親は仏壇に歩み寄り、娘の遺影を抱き締めた。
懐に強く押し付けられた香苗は、笑顔をしわくちゃに歪ませていく。
「沼津くんの笑顔を見ると力が湧いて来るって、いっつも言ってたんだから」
無理矢理笑った拍子に、香苗の母親の瞳から涙が垂れる。
透明な一滴は懐へ落ち、香苗の頬を伝った。
ようやく判った。
香苗の母親が、笑みを見せてくれない理由が。
今、香苗の母親の中で、香苗は泣いている。
最愛の人が泣いている時に、笑みを浮かべられるはずがない。
自分の行動は、間違いだったのだろうか?
なら、正解はどこにあるのだろう?
涙する親子を見つめながら、半平は思いを巡らせる。
香苗の母親は、自分が過去に囚われることに苦しんでいる。
では最初から、香苗のことを忘れてしまえばよかったのだろうか?
いいや、そんなわけがない。
死んだ人間は生き返らない――。
今を生きる人間が最優先だと宣言し、未来に突き進む――。
一見すると前向きだが、本質は責任を取るのが嫌なだけだ。
仮に半平が香苗のことを忘れていたら、こうして芦尾家を尋ねることもなかった。香苗の母親は真実を知ることが出来ずに、一生思い悩んだはずだ。自分のせいで、他人の財布に手を付けさせたのではないかと。
かと言って、今のように自分の未来を捨てていても、二人は笑ってくれない。
誰より香苗を知る母親は、娘が泣くと言って涙ぐむ。
第一、自分を二の次にし、他人の世話を焼いていると言っても、真摯に過去と向き合っているわけではない。背負いたくもない重荷を押し付け、痛め付けることで、自分を安心させているだけだ。俺は後悔しているぞ、償っているぞ、と。
考えれば考えるほど近くなるはずの答えは、考えれば考えるほど遠くなっていく。
過去を見続けることも、未来に目を向けることも、表面上は正しいように思える。しかし、どちらも根底には、利己的な思惑が潜んでいる。正解を選ぶどころか、両方とも明らかに間違っている。
どちらを選んでも、間違い……?
その言葉だけが繰り返し頭に響き渡り、半平に何かを
そう、半平はあの闇の中で、ハイネに教えてもらった。
どんなに正しくても、誰かの涙を止められないなら意味がない。
例え間違いでも、誰かを笑顔に出来るほうがずっといい。
超低確率で
〈
香苗の笑顔を、母親に返す方法はない。
なら、せめて遺されたこの人が笑えるように、この人の中の香苗を笑わせる。
そのためには、間違いでも前を向くしかない。
下を向き、メソメソしている限り、正しさに反することはないだろう。
だが同時に、いつまで
どうしても楽をするのが許せないなら、精一杯探せばいい。
香苗のことを忘れずに、未来の自分も笑顔に出来る方法を。
「自分の未来を捨てた」などと大言壮語しても、していることはお節介に過ぎない。本気で自分を苦しめたいなら、考え続け、迷い続けるほうがずっと
半平は視界を曇らせる涙を拭い、選択すべき答えを見定める。
同時に背筋を伸ばし、正面の遺影を見つめた。
死を断言する写真とまともに向き合うのは、まだ辛い。
香苗の胸、首、顎……。
被写体を物語る顔に視線を近付けるほど、克明に見えて来る。
真実を知りながら、口を
遺影を直視する恐怖に、自分への怒りに乱れた鼓動が、やけに図々しく聞こえる。まるで世界の不協和音で、元凶の遺影から目を
でも、今度は妥協させない。
怪獣を釣り上げた時のように歯を食いしばり、逃げようとする視線を押さえ付ける。正面から香苗と向き合い、くしゃくしゃの顔を伝う涙を目に焼き付ける。
そして、半平は誓う。
この顔を二度と見ないように生きる。
「やっと、いい顔になったね」
香苗の母親は目元を拭い、鼻水を
ただ、確実に泣き顔ではない。
半平が
「これからも香苗を笑わせてあげてね」
「はい」
半平は即答し、可能な限り顎を沈める。
「うん、頼もしい返事だ! 男の子はそうでなきゃ!」
香苗の母親は声を弾ませ、豪快に歯をさらけ出す。
嬉しそうな顔を見ていると、半平の顔も自然と
先ほど上げた線香が、和室から漏れてきたのだろうか。
ふと細い煙が顔を横切り、窓辺の風鈴を撫でる。
風もないのに鳴った音は、控え目な笑みのようだった。
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