亡霊葬稿マスタード 卒塔婆と読経と謎の骨/Ⅱ型超新星爆発とチョウチンアンコウとトロッコ問題/最悪の正しさと最善の間違いと口ばっかりのマスタード

烏田かあ

第一話『卒塔婆と読経と謎の骨』

序章『髑髏とアンコウと破滅の雪』

①怪奇アンコウ男

 黒雲だらけの空には、青白い月が浮かんでいた。

 春先にしては生温かい風が運んでくるのは、吐瀉物としゃぶつと糞尿、安酒がごった煮になった悪臭。

 地平線にはけばけばしくネオンがともり、電気の消えたビル群を照らしている。整然と長方形の影が並ぶ様子は、墓場以外の何ものでもない。


「ハッ……!」

〈シュネヴィ〉は力一杯踏み込み、靴底で鋪装をぶち抜いた。

 視線を眼前の発光体に向け、渾身の左フックを振り抜く。

 分厚いゴムを殴ったような感触と共に、顔面へ吹き付ける火花。

 どす黒く視界を塗り潰すそれは、相変わらず消しゴムのカスにそっくりだ。


 てらぁぁ!?

 強打を受けた顔面を一瞬、半月状にたわませ、〈発光はっこう筆鬼ヒッキーアンテラ〉が吹っ飛ぶ。

 ライナー性の残像が駐車場を突っ切り、一台、二台と乗用車の鼻先を擦っていく。二㍍近い打球が金網に突っ込むと、けたたましい金属音が鼓膜を貫いた。


 ずる……ずるずる……。


 ぐったりと四肢を垂らした〈アンテラ〉が、深くくぼんだ金網を滑り落ちていく。そのまま尻が地面に着くと、力の抜けた頭部が肩の間に沈んだ。強烈なフックを受けた上、金網に激突したことで、意識が飛んだのかも知れない。


 トドメの一撃を加えるべく、〈シュネヴィ〉は〈アンテラ〉との距離を詰めていく。こつ……こつ……と不気味な足音を聞いた〈アンテラ〉は、慌てて手近な車に手を着いた。


 力士ばりの体重を掛けられたボンネットが、ぎぃぎぃときしみながらひしゃげていく。たちまち運転席のエアバッグがぜ、前輪が跳ねた。事故としか考えられない負荷が、装置を誤作動させてしまったのだろう。


 てらあ……!


 白く染まったフロントガラスを背に、〈アンテラ〉は〈シュネヴィ〉をめ付ける。

 改めて怪物と正対した〈シュネヴィ〉は、眉をひそめずにはいられなかった。

 今夜が初対面と言うわけではないのだが、このちぐはぐさには慣れることが出来ない。上半身と下半身の別物感と言ったら、マーライオンが可愛く思えるほどだ。


 紡錘形ぼうすいけいの上半身は、水晶のように透き通っている。

 妊婦さながらふっくらとした腹は、淡く橙の光を放っていた。

 対して股間が尾ビレのように癒着した下半身は、濁った茶褐色。

 しかも、かき混ぜたコーヒーゼリーのように、ドロドロとぬめっている。


 異なる生物を縫合したような造形を、一言で言い表すのは非常に難しい。

 人魚と呼ぶには上半身が人間離れしすぎているし、何より不細工過ぎる。仮に透明な部分がもう少し白っぽかったら、急激に水揚みずあげされ、内臓を嘔吐した深海魚に見えるかも知れない。


 てらあっ!


〈アンテラ〉は凶暴にいななき、より一層車に体重を掛けた。

 めきめきと車体前部が沈み込み、バンパーが地面に着く。

 途端にフロントガラスが外れ、下り坂になったボンネットを滑り落ちた。


 すかさず〈アンテラ〉は反物たんものじょうの腕を伸ばし、フロントガラスを巻き取る。同時にちっちっちっ! とベーゴマのように振りかぶり、高速回転する残像を〈シュネヴィ〉に投げ付けた。


 黒々と土煙を巻き上げ、鋭い風音が〈シュネヴィ〉に迫る。

 ヘリのローターのように円を描く残像は、ふちの部分を凶悪に輝かせている。直撃を受けた瞬間、身体が輪切りになるのは疑いようもない。


 自動車のフロントには、複数のガラスを貼り合わせた「合わせガラス」が使われている。


 運転手の命を預かる以上、その強度は住宅用の窓ガラスとは比較にならない。

 軽い事故では亀裂が走る程度。バールやドライバーを使って一点に力を加えても、そう簡単には貫けない。ガラスの間に挟み込まれたフィルムに防がれてしまう。


 樹脂製のフィルムとガラスは、加熱しながら圧力を掛ける手法で、ぴったりと貼り付けられている。

 端的に表現するなら、ガムテープにくっつけたモナカとでも言ったところか。

万が一、ガラスが砕けても、限りなく破片が飛び散りにくいようになっている。


 そんな強固な代物を、〈シュネヴィ〉は顔が映る距離まで引き付ける。

 顎の内側まで引き付け、引き付け、高々と膝を振り上げる。

 胴体が輪切りになる寸前、無造作に足を振り下ろす。

 五本指に分かれたブーツが降り、頭ごなしにガラスを踏み付ける。

 轟々とくうを裂いていたガラスは、一気に地面へめり込んだ。


 地響きが空を揺さ振り、頑丈なガラスがたかが花瓶のように砕け散る。同時におびただしい数のガラス片が乱れ飛び、あられさながら〈シュネヴィ〉に吹き付けた。


 てらぁ!


 視界が閉ざされた隙を突き、正面に飛び出す影。

 肩を突き出した〈アンテラ〉だ。

〈シュネヴィ〉は咄嗟とっさに右足を引き、身体をはすにし、〈アンテラ〉のタックルをやり過ごす。加えてすれ違いざまに膝を突き出し、〈アンテラ〉の鳩尾みぞおちに叩き込んだ。


 て……らぁ……。


 猛然と硬い膝に突っ込んでしまった〈アンテラ〉は、弱々しく腹を抱え込む。

 内股になった怪物はよろよろと後ずさり、ブロック塀にもたれ掛かった。


〈シュネヴィ〉は淡々と歩を進め、〈アンテラ〉ににじり寄る。続けて〈アンテラ〉の頭を鷲掴みにし、か弱く発光するそれをブロック塀に押し付けた。


 てらぁ……! てらぁ……!


 力なく抵抗する〈アンテラ〉を余所よそに、〈シュネヴィ〉は駿馬しゅんめのごとく地面を蹴る。ブロック塀に沿って駆け出すと、猛烈な振動が肘を襲った。


〈アンテラ〉の頭が塀を削り、車を擦ったように白いあとを引いていく。

 途端に黒い火花がほとばしり、焦げ臭い煙が〈シュネヴィ〉を包み込んだ。猛スピードの生んだ摩擦熱が、〈アンテラ〉を焼いているのだろう。


「セイッ!」

 塀が途切れると同時に足を止め、〈シュネヴィ〉は円盤投げのように振りかぶる。それから俊敏に腕をしならせ、息も絶え絶えに点滅する〈アンテラ〉を放り投げた。


〈アンテラ〉と言う豪速球が風を切り、脳天から電柱に突っ込む。

 激突の生んだ衝撃によって、二重にも三重にもブレる視界。

 瞬間、直撃を受けた根元が砕け散り、電柱が派手に傾く。隣接するビルがそれを受け止めると、たわんでいた電線が大きく波打った。


 突風が街路樹を揉み、高速の土煙が地表を走る。

 細やかなコンクリ片は路上を跳ね回り、繰り返し家々の窓に打ち付けた。

 あらかじめ移送していなかったら、確実に住民が飛び出して来ただろう。


 ずず……ずずず……。


 風音に混じって聞こえて来たのは、じりじりとタイヤが滑る音。

 音の発生源は〈シュネヴィ〉の背後。

 今の今まで静止していたワゴン車が、緩慢かんまんに前進している。


 運転席に座っているのは闇。

 エンジンも静まり返っている。

 車を動かしているのは、タイヤに絡み付いた触碗しょくわんだ。

 電柱の根元から、〈アンテラ〉が腕を伸ばしている。

 反物たんものじょうのそれが長々と地を這う姿は、一見すると消防隊のホースのようだ。


 ぐぐっ……ぐぅ……!


 伏せていた触碗しょくわんが鎌首をもたげ、ワゴン車を空中に吊り上げていく。たちまち月の真下に巨大な影が浮き上がり、〈シュネヴィ〉の仮面を黒く塗った。

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