⑭NIN間を拒む深海

「このままじゃ……取り込まれる……!」

〈マスタード〉は反射的に全身の口を開き、圧縮空気を噴き出す。瞬間、ジェット機ばりの風音が轟き、白煙が〈マスタード〉を包み込んだ。


 たちまち身体が跳び上がり、背後の〈YUワイユー〉を吹っ飛ばす。同時に〈マスタード〉は上空へ飛び出し、背中から道路に落ちた。


「あいてて……」

 乱暴に跳んだせいで、むち打ちのように首が痛む。

 それでも、肉団子に吸収されるよりはマシだ。


〈マスタード〉は速やかに立ち上がり、左腕に絡み付いていた血管を引きちぎる。続いて激しく身体を揺すると、全身から黄緑の液体が飛び散った。

 少しだけ装甲に残った液体は、綺麗な水玉を形作っている。何でもハスの葉を参考にした撥水はっすい加工かこうで、水を弾いているらしい。


「そうだ、あいつは……!」

〈マスタード〉は慌てて振り返り、背後に目を向ける。

 数分ぶりに外から見る肉団子は、マンション以上に肥大化していた。


 だがまだまだ、増築は止まらない。


YUワイユー〉たちは互いを押しのけ、群がり、食い付き、際限なく肉団子と結合していく。

「……んだよ、アレ。まるでアンコウもくの『矮雄わいゆう』じゃねぇか」


 地球の約七割は海だ。

 その表面積は、およそ三億六一〇〇万平方㌔にも及ぶ。


 平均深度は約三八〇〇㍍と、一般に考えられているより遥かに深い。

 この事実からも判る通り、全海洋の八〇㌫以上が、俗に「深海」とされる水深二〇〇㍍以深いしんの海域に占められている。


 その広大さとは裏腹、生物の数は少ない。

 最大の理由は、およそ一〇㍍ごとに一気圧ずつ上昇する水圧だ。


 言うまでもなく、水圧とは水中の物体に掛かる水の重さを指す。

 海水の重さは、一立方㌢辺り一.〇三㌘だ。

 たかが一㌘と侮ってはいけない。

 潜れば潜るだけ、上にある海水の量は多くなる。

 必然的に、水中の物体に掛かる重さも増えていく。

 結果、水深六五〇〇㍍の世界では、一平方㌢辺りに六七〇㌔もの重さが掛かることになる。


 日本が誇る深海潜水艇「しんかい6500」は、実際に水深六五〇〇㍍まで潜ることが出来る。この時、「耐圧たいあつこく」と呼ばれる球体状のコックピットには、実に九万㌧もの重さが掛かっていると言う。


 並大抵の素材では、凄まじい重さに耐えられない。そこで「しんかい6500」の耐圧たいあつこくには、厚さ七三.五㍉のチタン合金が使われている。


 表向き「しんかい6500」が潜れる深さは、水深六五〇〇㍍までとされている。その実、搭乗員の命を守る耐圧たいあつこくは、水深一万五〇〇〇㍍相当の水圧にさらされるまで壊れないと言う。

 反面、直径は二㍍と、並の風呂場より狭い。

 最大でも三人しか乗ることが出来ず、トイレや暖房もない。


 二一世紀の科学力をもってすれば、宇宙に無人探査機を派遣することも出来る。あまつさえ、三億㌔も離れた小惑星から、微粒子を持って帰ってくることさえ可能だ。


 だがそこまで科学の発達した現在においても、人間を深海に届けるのは難しい。現に水深四〇〇〇㍍以上まで潜れる有人潜水艇は、全世界に七隻しか存在しない。

 調査船として最も深く潜れるのは、中国の蛟龍ジャオロン号だ。二〇一二年六月には、水深七〇〇〇㍍にまで達している。


 凄まじい水圧の掛かる深海では、カップヌードルがおちょこのサイズまで潰れてしまう。

 一〇〇度を超えた熱湯も、水深二〇〇〇㍍を超えた辺りから沸騰しなくなる。正確には液体でも気体でもない、「ちょう臨界りんかい」と言う状態になるそうだ。


 気圧の――空気のす力が弱い高地では、一〇〇度以下で水が沸騰する。例えば標高三七七六㍍の富士山頂では、九〇度以下で水が沸いてしまう。

 深海は、これの逆パターンだ。

 何でも高い圧力のせいで、水の沸点が上昇するらしい。


 強い水圧にさらされた生物は、簡単に押し潰されてしまう。

 ではなぜ、深海の住人たちは平気なのか?

 魚安うおやすの大将はこう言っていた。


 水を張った風呂に、ペットボトルを沈めたとする。

 中に何も入っていない場合、ペットボトルは少し潰れてしまう。

 ところが、中が水で満たされていた場合、ペットボトルが潰れることはない。


 これは一体、どういうことなのか?

 原理が判れば、簡単な話だ。


 風呂に沈めたペットボトルは、水の重さ――水圧に潰される。

 パンパンに膨らませた風船を押すと、中の空気が手を押し返そうとする。

 同様に風呂へ沈めたペットボトルも、水を押し返そうと力を働かせる。


 中身が水で満たされている場合、この力は潰そうとする力と釣り合う。

 押し返そうとする力と、潰そうとする力。

 正反対の力は、互いを打ち消してしまう。

 そのため、ペットボトルが潰れることはない。


 実のところ、空っぽに見えるペットボトルも、内部は空気で満たされている。

 この状態で水圧が掛かると、空気もまた押し返す力を働かせる。

 ところが空気の押し返す力は、潰そうとする力に比べて遥かに弱い。結果、水圧を支えきれずに、ペットボトルを潰してしまう。


 深海魚が潰れないのも、水で満たしたペットボトルと同じ理屈だ。

 彼等の多くは、身体を体液で満たしている。

 これが押し返す力を働かせ、水圧を打ち消しているそうだ。


 同様の手法は、潜水艇にも使われている。

 具体的には電池やモーターを保護する容器で、内部は電気を通さない油で満たされている。この油が押し返す力を働かせ、水圧を支えているらしい。


 また深海魚が潰れずに済むのは、浮き袋を捨てたことも大きい。

 魚は水よりも重く、そのままでは浮くことが出来ない。

 そこで彼等は気体の詰まった浮き袋を浮き輪にし、沈むのを防いでいる。信じられないなら、切り身を風呂に入れてみればいい。絶対に浮かないだろう。


 高い水圧の掛かる深海において、気体の入った浮き袋は空っぽのペットボトルに等しい。貧弱な気体は水圧を押し返せずに、本体の魚ごと潰れてしまう。


 こういった事態を防ぐため、深海魚の多くは浮き袋を持たない。

 それでも海底にへばり付かないのは、第一に泳げるから。

 仮に重石おもしを背負っていても、上に泳ぎ続ければ沈むことはない。


 第二に、軽さがある。

 浅い場所に住む魚は、肉や骨と言った重い素材で出来ている。

 対して深海魚の身体は、油脂ゆしや水分と言った軽い素材で構成されている。そのため、比重が水に近く、浅い場所に住む魚に比べて沈みにくい。深海魚が妙にブヨブヨしているのも、普通の魚とは身体の素材が違うためだ。


 この特性は、お魚大好きな人間に重大な問題を引き起こす。

 深海魚の油脂ゆしには、人間の消化出来ない種類が少なくない。

 こういったものを大量に食べると、簡単にお腹を壊してしまう。


 特に油脂ゆしの多いバラムツともなれば、もう下痢では済まない。一度ひとたび口にしたなら、身体中の穴と言う穴から油が染み出てきてしまう。

 反面、味はよく、リスクを承知で口にする人も多いそうだ。

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