第一六章『告白と答えと彼女の笑顔』
①遅すぎた訪問
「……どうぞ」
怪訝そうに許可を出し、香苗の母親は半平を部屋に招き入れた。
不審に思うのも、無理はないだろう。
香苗と半平はクラスが同じだっただけで、特に親しかったわけでもない。
普通に考えれば、一年以上
「おじゃまします」
半平は頭を下げ、一年ぶりに履いたローファーを脱ぐ。
らしくもなくかしこまっているのは、足下だけではない。
ボタンダウンのシャツに、ベージュのチノパン。
春夏秋冬、パーカーにカーゴの半平にしてみれば、正装と言ってもいい。普段はモヒカンのように立たせている髪も、今日は寝かせてある。
本当は制服を着てくるべきなのだろうが、中学の制服は近所の子供にあげてしまった。
高校のそれは、行方が知れない。
母親に
だが同時に、自分の母親をぬか喜びさせることも出来なかった。
タイガーアイの
ハイネは「世界のバグ」にパッチを当て、力を抑える効果があると説明していた。ただし、五〇㌫以上の力には対処しきれないので、注意しなければならないと言う。
余談だが、
しかも、どこかに和訳した文章を表示すると言った、中途半端な代物ではない。
ドイツ人のハイネが日本語ペラペラなのも、無論、
――と思いきや、彼女は一切、翻訳機能を使っていないらしい。
と言うか、地球上に存在する言語なら、グロンギ語まで喋れるそうだ。
「……ケガ、したのかい?」
香苗の母親は呟くように問い掛け、半平の顔を
「ええ、まあ。ちょっと張り切り過ぎちゃって」
半平は素直に頷き、頬をさする。さすがに本当のことは言えないが、これ以上、香苗の母親に嘘は
死闘の爪痕は、もうほとんど残っていない。
頬と鼻の
〈
誰かを甦らせる際、ハイネは
とは言え、完全に元通りになるわけではない。
同様に〈
ディゲルの言った通り、〈
およそ人間は、声が大きい人ほど元気だと判断する。〈
カミサマに健康だと認められた人間は、それだけ怪我や病気の治りが早くなる。
特に並外れた〈
そこにはまた、「死人は怪我をしない」と言う常識も影響しているらしい。
あり得ない事態を前にした〈
「沼津君と会うのは、香苗の葬式以来かね」
「……ですね」
香苗の母親は最後に見た時より、白髪が増えていた。
まだ四〇代前半のはずなのに、手は老婆のようにかさついている。
割とふくよかだった身体も、一回り以上小さくなっていた。
「狭いところでごめんね」
申し訳なさそうに言い、香苗の母親は苦笑する。
実際、始めて入る芦尾家は、想像以上に狭かった。
玄関に入るとすぐ台所で、各部屋も四畳前後。
作りこそ2DKだが、中学生の娘と住むには少し窮屈だっただろう。
だが独りで暮らしている今は、少し持て余しているよう見える。事実、壁際には割と多くの家具が並んでいるが、スペースを埋めることは出来ていない。
ふと窓からそよ風が忍び込み、季節外れの風鈴が鳴る。
すぐ掻き消えるはずの音は、予想に反し、長く部屋中に響き渡った。
今、目で見ている天井の高さは、本当に正しいのだろうか?
疑問に駆られ、室内を見回すと、二本の歯ブラシが目に入る。
玄関には母親のサンダルと一緒に、ローファーが並んでいた。冷蔵庫には連絡網が貼られたままで、食器棚にも赤と緑の茶碗が置かれている。
本当に香苗の母親は、独りで暮らしているのだろうか?
室内を見れば見るほど疑わしくなって、何度となく玄関のドアを
今頃の時間帯なら、彼女が中学校から帰ってきてもおかしくない。
引き戸で仕切られた洋間にも、彼女の痕跡が色濃く残っている。
飾り気のない机に貼ってあるのは、中学の時間割だろうか。
事務的なデスクライトの下には、読みかけの文庫本が置かれている。
室内の様子から見て、そこは彼女の部屋なのだろう。
天井に肉薄した本棚は、ハードカバーの書籍で埋め尽くされている。ペン立ての中身は万年筆や鉛筆で、カラフルなボールペンは一本もない。
イメージ通りなのは間違いないが、正直、女の子の部屋にしては堅苦しい。彼女を知らない人が見たら、文学青年の部屋にしか思わないだろう。タンスの上に一匹だけ座ったテディベアが、何とも寂しげだ。
「こっちよ」
抑えた声で呼び掛け、香苗の母親は半平を和室に案内する。
仏壇の前に飾られた写真は、天真爛漫に顔を
眉一つ動かさず文庫本に没入していた少女は、なかなか見当たらない。強要されたのが見え見えのピースだけに、辛うじて半平の知る芦尾香苗が見え隠れしている。
……遅すぎだよな。
半平は畳に腰を下ろし、仏壇に線香を上げる。
途端に煙が
本当に詫びたいなら、しっかり彼女を見なければならない。
なのに、正面から写真と向き合おうとすると、独りでに頭が下がっていく。
彼女と合わさなければいけない瞳は、畳の目を数えるばかりだ。
申し訳なくて、顔向け出来ない?
間違った答えではない。
だがそれ以上に、沼津半平は恐れている。
遺影と言う決定的な証拠に、こう断言されることを。
どれほど玄関を確認しようが、「ただいま」の声が聞こえてくることはない。
この
半平は卑怯な自分を罵り、同時に
だが正座した足を
……ごめん。ごめんな。
半平は心の中で繰り返し、逃げるように目を閉じる。
一心に手を合わせる姿は、誠心誠意、彼女を
自分への
その瞬間、線香の香りに柑橘系の匂いが混じり、半平の鼻を通り抜けた。
教室や廊下で香苗とすれ違った時、自然と漂ってきた香りだ。
情けない自分に怒りを覚えた彼女が、仏壇から飛び出して来たのではないか!?
半平は期待に
視界に入ったのは、お供え物のグレープフルーツだった。
「……最悪だ」
無意識に漏らした溜息は、落胆の
いや、幻想に逃避する自分に、心の底から失望してしまったのかも知れない。
「よかったら」
香苗の母親はテーブルにお茶ときんつばを置き、椅子に腰掛ける。
半平はそそくさと仏壇の前を離れ、彼女の正面に腰を下ろした。
いよいよ、真実を語る時が来たらしい。
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