第5回 「ん゙ーーん゙ん゙ーー」と私の本性

 先に断っておくが、これは夢の話である。ただ、あまりにも現実的で酷く私の記憶に焦げ付いている夢である。


 高校時代、私は寮生活を送っていた。

 何故コミュ障の私が全寮制学校を選んだのかは割愛するが、一種の「引っ張られ現象」だったのかもしれない。

 この寮の生徒達は、私他数名を除く誰しもが大金持ちの子ばかりで、第0話で言及した『お坊ちゃま』達の生態の多くについてはここで学んだ事である。


 寮は一人部屋から四人部屋で、私は二人部屋に収容されていた。

 建物は何棟かあり、学年が変わるたびに引っ越しとなるのだが、私はその全ての棟であまりよろしくない経験をし、おかしな夢を何度も見た。

 それらも後々紹介したい。


 その中でも特に気持ちの悪い夢が、「ん゙ーーん゙ん゙ーー」と、含み笑いのような鳴き声を上げる、訳の分からない化け物の夢であった。


 始めて「ん゙ーーん゙ん゙ーー」が夢に出て来たのは、寮の中である事件が発生し、誰しも意気消沈していた時の事だった。

 その事件は大変に大きな事でニュースにもなったため、これについての言及は避けたい。とにかく、『事故』ではなく、『事件』の多い場所だったのだ。


 私が入居していたのは、一番大きな八階建ての寮だった。

 地下一階にある浴場以外は全て生徒が住まう部屋だった。

 生徒用のエレベーターは無く、八階に住む生徒は毎日風呂へ行く度、汗だくになりながら九階分を階段で登らねばならないという可哀想な状況の中、私は五階の住民だった。

 廊下は全て北向きで窓があり、部屋は全戸南向きという、日当り良好ではあったが、風がよく通る土地に立っていたので、夏は暑く冬は寒い建物だった。


「ん゙ーーん゙ん゙ーー」が初めて夢に出てきたのは冬の寒い夜だった。

 私は夢の中で、寮の廊下に立っていた。手に風呂道具を持っているということは、風呂からの帰りという場面だったのだろう。

 洗濯物やゴミで足の踏み場もない、いつもの汚い廊下に私は立っていた。

 自分の部屋のドアまでは、後数十歩で着くのだが、私の足は動かなかった。

 廊下の奥に、それが居たからだ。


 北向きの廊下の窓に、何故か強い西日のような光が差し込む中、黒く艶のある、人間の髪のような黒い毛がびっしり生えた、丸い大きな毛玉に、二本の人間のものと思われる、これまた真っ黒い足が生えていた。毛は艶々と光っていたが、足は一切光を反射していなかった。

 びっしりと毛が生えた化け物は、眼など無いのに私を見ていた。確かに、見ていたのだ。

 そいつはぺたぺたという、裸足で床を歩く音を立てて私の方へ歩き始め、私は後ずさったが、化け物はある部屋のドアの前で止まった。そして、その足はドアの方へ向け、ドンッと体当たりをした。


『やめて!』


 私はそう叫びたかったが、口は動かなかった。

 化け物が体当たりしている部屋は一人部屋で、その部屋の主は毎度私や他の弱そうな生徒にありえないような暴力を働く「暴行者」の部屋だったからだ。

 きっとこの時間は昼寝をしていると思った私は、とにかくやめてくれと叫ぼうとした。しかし、黒い毛玉はひたすら強い力で体当たりを繰り返した。

 このままでは「暴行者」が怒りに震えて出てきてしまう。

 逃げようと思った瞬間、私は自分の部屋の布団の上で目を覚ました。

 ああ、きっとこれはストレスだ。奴に対しての怒りがコントロール出来なくなっている。

 その時の私はそう思った。


 悪夢はこれで終わらなかった。

 二度目、私は一度目と同じ状況で廊下に立っていた。

「ん゙ーーん゙ん゙ーー」はペタペタと歩みを進め、再びそのドアへ体当たりを始めた。夢と認識できなかった私は、恐れをなして自分の部屋へと逃げ込み、部屋の鍵を締めた。

 しかし、ドアの下の隙間から漏れている光が、、何かに遮断された。

 私は直感的に、「ん゙ーーん゙ん゙ーー」が目もないのに下から覗いているんだと直感した。

 二度、ドアがドンという音を立てた。

 そこで初めて、化け物が声を上げた。


「ん゙ーーん゙ん゙ーーん゙っん゙っん゙っん゙っん゙」


 今も鮮明に覚えている。

 嗤っていた。「ん゙ん゙ーーん゙ん゙ーー」は、加虐心を剥き出しにした含み笑いをしていたのだ。

 ドアの下から僅かに髪の毛が見えたかと思った瞬間、私は恐怖のあまり目眩を覚え、そして、再び目が覚めた。

 窓の外は雪が降っていた。怪談にしては、随分季節外れに感じたのを覚えている。

 起きてしまえば、隣のベッドにはクラスメイト兼ルームメイトが寝ているので、恐怖がすぐに薄れてしまう。それは寮の数少ない長所だった。


 それから、多くの日数は経過していないが、また校内で事件が起きた。

 何故地元紙にすら取り上げられないのかと思うような規模の事ばかりが起こる学校だったのだ。

 いずれ私もその被害者になるのではないかと、ここ数日の間に面白半分で割られたり壊されたりした物を、クラスメイトと一緒に処分しつつ思っていた。

 やたらと物を破壊されたり盗まれたのは、例の暴行男が両親の海外移住で退寮するらしく、最後のひと暴れでもしたかったのか、毎日悪事を楽しむ仲間たちと徒党を組み、物を壊して回ったり、弱い奴に酷い怪我を負わせたりと、やりたい放題をしていたのだ。

 その暴動ごっこが起きた数日間、私は恐怖に震えていた。当時愛用していたスポーツ用品をベッドの中で抱いて寝なくてはならない程。

 そして、その暴行者がいなくなる最終日より一日前、再び「ん゙ーーん゙ん゙ーー」が、私の夢の中に戻ってきたのだ。


「ん゙ーーん゙ん゙ーー」


 その声に驚いて目を開けると、眼前に、「ん゙ーーん゙ん゙ーー」がいた。

「ん゙ーーん゙ん゙ーー」は私にのしかかり、真っ黒い手で私の両腕を押さえつけつつ、何か別の手のようなもので私の両脇の下を弄り始めた。

 くすぐったいという感触では済まされないおぞましさに襲われ、私は何度も「やめろ!」と叫んだ。

 声は出ていた気がする。

 なんとか武器を探そうとするも、置いていたはずのスポーツ用品はおろか、掛け布団すら見当たらない。

 私は何度も、ルームメイトに助けを求めたが、それも届かなかった。夢というものは残酷で、隣にあるはずのルームメイトのベッドがそもそも無かったのだ。

 その時の絶望感を思い出すと、今でも震えてしまう。


「ん゙ーん゙ー」


 私は叫ぶ事を止めた。

 浴びせられた「ん゙ーん゙ー」は、明らかに怒気を含んでいたからだ。しかし、遅かった。

 私は多分、「痛い!」と叫んだはずだった。多分、叫べなかった。

「ん゙ーーん゙ん゙ーー」の何本もある手だとはっきり認識出来る物が、私の両目の辺りに何回も打ち据えられたのだ。明らかに拳の感触がした。

 私はその時、きっと薄々意識の中ではこれは夢だという思いに縋り付いていたと思う。しかし、打ち据えられる拳は全てが、頭蓋を割られてしまうという恐怖を抱く程、痛かった。

 心無い人間に、力いっぱい殴られた痛みそのものだったのだ。

 何度も何度も両目の辺りを殴り、鼻の頭も殴られて、酷い痛みが走った。

 私は小さい子供のように泣き叫んでいたと思う。顔ばかり何度も何度も殴られ続け、ついには殺されるという恐怖を抱いた。


「ん゙ーーん゙ん゙ーーん゙ーーん゙ん゙ーー」


「ん゙ーーん゙ん゙ーー」は嗤いながら、私の口の中に深く手を差し込んできて、私は更に混乱した。

 舌を引っこ抜かれるのではないかと危惧したのだ。舌の上に爪が立てられ、また酷い痛みが走る。そして、もう一つの手が差し込まれ、口を上下にぐいぐいとこじ開け始めたのだ。

 私は必死に抵抗したが、舌に突き刺さる酷い痛みでまるで力が入らなかった。


「ん゙ーーん゙ん゙ーー」は突然、自分の体と思われる丸い毛玉のような体を、私の口に押し付け始めた。

 顔につく大量の硬い毛の感触が気持ち悪く、私は何度もえづきながらも、せめてもの抵抗で、「ん゙ーーん゙ん゙ーー」の手を思い切り噛んだ。しかし、状況は好転しなかった。


 強く噛み締められているにも関わらず、「ん゙ーーん゙ん゙ーー」は私の口をこじ開け、自分の巨体を私の口の中に無理やり入れようとでもしているかのようだった。

 それでも私は噛みしめる力を強め、他人の指を食いちぎる勢いで噛み付くような感触を味わいつつも、死にたくないという一心で噛み続けた。

 しかし、また顔に拳を叩き込まれ、私の口から「ん゙ーーん゙ん゙ーー」の手は逃れてしまった。

 しかし、「ん゙ーーん゙ん゙ーー」はまた両手を私の口に差し込み、こじ開け始めた。

 その時の私は疲れ切っていて、眠気も酷かった私はもうそれ以上、何の抵抗出来なかった。

 もう駄目だと思ったが、「ん゙ーーん゙ん゙ーー」に私は乗っ取られるのではないかと思い、反射的に抵抗した。

「ん゙ーーん゙ん゙ーー」の毛を掴んで何度も、ひたすら引っ張りぬいたのだ。


「ん゙ーーん゙ん゙ーー」


 また、嘲笑された。

 しかしその声が聞こえた瞬間、私はいつもの部屋で朝を迎えていた。

 口の中が痛むので、洗面台で口を開けると、恐ろしいほど血まみれだった。噛み締めすぎて、歯茎から出血したらしい。大した痛みはなかったが、口の中は血まみれだった。

「ん゙ーーん゙ん゙ーー」による爪痕は舌に残っていなかったのが、不幸中の幸いだった。

 これで、夢であったと納得出来た。

 そもそも、あれだけ強く拳を打ち据えられた顔も何ともなっていなかった。

 ただしばらくの間、頭が重たい感覚が残っただけだった。


 しかし、いくら体は平気でも、私の神経は限界だった。

 しかも偶然か必然か、同室のクラスメイトも突然気分が悪いと言い出し、呼び出された親と共に帰宅、自宅療養となってしまったのだ。

 周りから常に生徒の声がする寮ではあるが、誰もいない寮の部屋で一人夜を明かすなど、私には無理だった。学校から一人になってしまった部屋に戻った瞬間、酷い胃の痛みに襲われ、その日は病院で一泊し、一週間程自宅で療養する事となった。

 果たして「ん゙ーーん゙ん゙ーー」は私の寮生活のストレスが生み出した物なのか、または別の何かなのか、それは分からない。



 その後、私は「ん゙ーーん゙ん゙ーー」の夢は数回見たものの、それは廊下でただ、私に興味を示さず、とにかくドアに体当たりを続けているだけだった。その体当りするドアはいつも、「暴行者」の部屋だった。


 恐らく「ん゙ーーん゙ん゙ーー」は、私の日頃の恨み辛みやストレスが、夢の中で形になったものであると考えるのが妥当だろう。「ん゙ーーん゙ん゙ーー」が「暴行者」のドアに体当たりを繰り返していた事も、私のやりたい事を代わりにやっていたのかもしれない。

 そして、「ん゙ーーん゙ん゙ーー」が私を襲ったのは、ここにいてはならないという私自身への警告だったのかもしれないと思うようになった。

 療養する事となった私はなるべく多くの物を持ち帰り、「暴行者」の最後のひと暴れから、なんとか身を守ることが出来た。


 しかし、事はそれだけでは終わらなかった。

 私が高校を卒業した後、別の元クラスメイトから、「暴行者」と表現した私の元クラスメイトは東南アジアのある国へ渡航してすぐに、少年ギャングのような集団に殺害されてしまっていた事を知ったのだ。

 どうやら自ら喧嘩を売り、殺害されてしまったらしい。私は気づかなかったが、当時大手全国紙の小さな新聞記事として掲載されていたそうだ。


 それを知った時、私は自分自身の本性に触れてしまった。

 あの黒い毛玉「ん゙ーーん゙ん゙ーー」は、私や他のいじめられっ子の怨嗟が産んだ化け物だという妄想に行き当たった時、あらゆる溜飲が下がった気分になったのだ。

 彼は少年ギャングに殺されたのではない。「ん゙ーーん゙ん゙ーー」が彼の部屋のドアをついに破り、襲いかかったのだ。

 そんな、黒い喜びに打ち震えた醜い己の本性はずっと付きまとうだろう。

 私がこの感覚を肯定する限り変わらない。


 ただ、今になって人生半ばで終わってしまった彼の無念に心を焦がすようにもなった。願わくは、彼には安らかな世界へ居てもらいたい。私はもちろん彼に素手だけではなく本当に危険な物で殴られ、怪我をした事もあったが、それも勿論既に水に流している。

 他の被害者はどうかは知らないが。


 霊感持ちは妄想家であるという考えを私は捨てきってはいない。私は同じような夢を何度も見る。

 そして、色や感触まである夢もこの時だけではない。顔をぶつけて鼻の奥に鉄の味がするなんて言う夢も見るのだ。

 素人の考えだが、ストレス耐性があまりにも低い故に、脳が酷い誤動作起こしているのではないかとも考えられるからだ。


 いずれにしても、「ん゙ーーん゙ん゙ーー」は何者かは分からない。

 その後見てもいない。ただ、この化け物が、夢の中の住民に過ぎない事を願うだけである。

 ただ、一つ分かる事は、このような夢または現象に遭遇した場合、何かを変えなければならないという事だ。

 このような夢は大変に異常な夢であるといえる。

 私は何人かにこのような夢を話した事はあるが、感触や痛みまで感じた事があるという人に出会った事は皆無だ。いずれ書くかもしれないが、何かに首を絞められた事もある。

 だが、それは強いストレスが引き起こした幻視の類である可能性は十分ある。

 このような状況に陥った場合、是非とも私のように限界までそこで耐えるという事をせず、自分の状況を整理し、変える努力をして貰いたい。

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