第13回 カードキーセンサーをいじくり回して開かないと訴え続けるウーマンを招き入れてはならない
これは私があるアジア系の外資系企業で働いてた時の事である。
季節は真冬。2004年末頃だったと思う。
都内は乾燥して恐ろしい寒さに見舞われていた日だ。
その日、私を含めた残業組を不憫に思ったのか、誰よりも馬車馬のごとく働き過ぎて頭のネジが数本飛んだ取締役がご飯をおごると言ってくれたので、少々納期が厳しい仕事を放り投げてタダ飯にありつくという僥倖に浴した後だった。
ちょっと高級な飲み屋で呑めや食えやし、仕事場へ戻ると、全員そこで電池が切れて眠りこけた。
会社が入っていたビルは急行も止まらないベッドタウンの6階建てという低いものの、当時築十年ほどの新しい建物で、「いわく」などというものが生じるとも思えない物件だった。
しかし、私を含め数名はよく、「ここ、なんかいるよね?」という気分に囚われていた。
なので、私はトイレに行きたくて行きたくて仕方が無かったにも関わらず、行く勇気が湧かず、誰かがその行動を起こすまで待ち続けていた。
その瞬間はすぐに訪れた。
前述の取締役がインリン・オブ・ジョイトイをテーマにした謎の自作ソングを歌いながらオフィスの玄関口へと歩いて行ったので、それに付いていったのだ。
共有部分は照明が落とされ、非常口のランプだけが点灯していた。
トイレは窓の外から明かりが漏れていてなんとか使える状態だったが、個室は真っ暗だった。
「アイオイちゃーん! 俺ねー座ってどーーんとどーーんとする方だからさー、外で待ってて!」
取締役が何故か江頭2:50のような動きをしつつ、怖いから待っててアピールをするので、
「いやです」
と断ってオフィスへと戻ろうとした時。
そこに、存在して欲しくない何かがいた。
髪の毛が長く、スカートを穿いているから女性ではあるだろう。
何かをぶつぶつ言いながら、隣のオフィスのカードキーセンサーをいじくっていた。
薄暗い空間なので、肌の血色などはよく分からなかったが、敢えて表現してしまえば、スーツを着てまっすぐ立つ貞子だった。
時間は分からないが、とにかく終電などあるわけもなく、隣の会社が何の会社かは知らなかったが、土曜日だから早朝出社なんてことも考えにくい。
「ひっ」
思わず声が出るほど震えが走った。
「あかない、はいれない」
こんな声が聞こえたのだ。
恐らくそこにいる人物が発した声だ。
抑揚はなく、とても事務的だった。
緑っぽい非常口を示す灯りの下、女がゆっくり左右を見回しているのが分かった。
これはまずい。
小野不由美先生の屍鬼か他の作品の影響かは分からないが、とにかく私がその時に思ったのは、このまま会社のオフィスのドアを開けて入ったら、この女が後ろから付いてくるのではないかという事だった。
「あかない、あかない」
声が大きくなった。まるでアピールしているかのようだった。
自分がここにいる事を認識されたのかもしれないと感じた。
ここから逃げなくてはと、すぐに直感した。
コートも無ければ携帯電話もないが、財布だけはポケットに入っていたので、駅前のホテルに泊まろうと思い、とにかくトイレの入り口のすぐ横にある非常口、つまり階段室の扉に手をかけ、急いで体を滑り込ませた。
非常口の中はセンサーで蛍光灯が点灯するようになっていた。明るさに少し安心しつつ、5階から一気に下まで降りて、空っぽの守衛室の前を通り抜け、外へ出た。
その間ずっと、「あかない、あかない」という声が階段室に響いていた気がして、もう何かを気にしている場合ではなかったのだ。
結局私は寒さと現金不足に負け、すぐ横にあったコンビニに入って時間を潰す事にした。
とりあえずヒモのかかっていない雑誌を数冊読みふけり、夜が白んできたところで、恐る恐る裏口からオフィスへと戻った。
階段を上がり、共有部をちらりと覗くと、「あかない」とつぶやき続けていた何かはいなくなっていた。
しかし、安堵したのもつかの間、自分の会社の出入り口の前に黒い塊が見えた。
奴がオフィスに入ろうとしていると直感した。
私が再び逃げようとすると、その塊がもぞもぞと動いた。
「ここ開けてー」
カードキーを忘れて入れなくなった取締役だった。
ここからは考察である。
さて、私はいつも通り無様に逃げ惑ったわけだが、この自分の行動を正しいと思っている。
あのカードキーをいじくり回している女性らしき存在が、存在するしないに関わらず、私は恐怖心に従って逃げた。
理由は簡単である。
本能的恐怖に従う事で、後からの恐怖を防げるのだ。
もし私がこの存在から逃げずにそのまま自分のオフィスを開けて入り、その存在を自分のオフィスに招き入れるような状態になってしまったら、と想像してみれば分かる事だ。
きっとその日からずっと、何も起きなかったとしても、その誰かを恐れ続ける毎日が始まってしまった事だろう。
残業の多い職場で、一人きりで残る事も多かった。
あの謎の存在がいるかもしれない空間に一人取り残されるなど悪夢でしかない。
そして、あの存在は希有だったと、今にしてみれば思う。
今まで自分が述べていた精神疾患かもしれないという考えを捨てきらないにしても、確かにあれはしっかりと存在していて、恐ろしく危険極まりない存在だったと、今思い出しても私の心が逃げるべき存在だったと警鐘を鳴らす。
招き入れてはならない存在は、確かにあのビルにいたのだ。
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