第26回 磨り硝子の向こう

 私が小さい頃に住んでいた大規模社宅がある街は、下町と言えば下町だった。

 空港が近いからか、ひっきりなしに飛行機の轟音が響き、巨大な貨物を牽引するトラックが往来する幹線道路に面していて、子育てに向きそうにない環境だった。


 一本路地を入れば、トタン屋根に土壁の長屋めいた作りの家が多く建ち並んでいた。多くの家の玄関扉は全面磨り硝子に金属製の格子で補強されただけの引き戸だけだった。

 その多くは半開きになっていたり、割れた部分を段ボールを貼ったままで放置していたりと、今思えばセキュリティもへったくれもない有様だった。


 そんな磨り硝子製の引き戸にも良い点があった。

 私が住んでいた社宅の子供達はこの通りのお陰で、日が完全に落ちるまで遊んでいた。

 どの路地も、磨り硝子から漏れる光で明るかったのだ。

 住人の話し声は筒抜けで寂しくなかったし、時間によってはあらゆる方向からルパン三世のオープニングテーマや、お笑い漫画道場のテーマ曲が聞こえてくることもあった。デジタル放送になった今ではもう聞くことは出来ないステレオサラウンドだ。

 

 その長屋の一つに、不思議な老夫婦が住んでいた。

 最初は道路上に置いたプランターで赤いピーマンを育てているのが気になる程度だったが、夏になると白髪の夫婦が、玄関の段差にぴったりくっつくように座って冷たいお茶を飲んでいたのだ。

 玄関扉の半分は網戸になっていたから、中がはっきり見えていた。

 それだけなら、日本の原風景とも銘打てる素敵な光景だっただろう。


 だが、私の友人の疑問で、印象が一変した。


「ばあちゃん電話してない?」


 眼球が奥に引っ込んだような気がするほどの衝撃だった。

 少し離れた所から会話を聞いていると、ばあさんもじいさんも聞こえない言葉に相づちを打っている気がしたのだ。

 おじいさんが優しい声で、「この音はプロペラがついている飛行機の音だ」と何かに教えていたのは覚えている。

 老夫婦の家の前を通る度、ほぼ毎回繰り返される光景だった。

 怖くなってしまった私は、毎回足早にその家を通り過ぎていたからか、磨り硝子の向こう側をよく見ようとしたことはなかった。


 その後も老夫婦はずっと楽しそうに何かと話していた。

 好奇心が服を着て歩いているような幼稚園児だった私や友人達も、道端で大きな声で話すおばさま達も、その老夫婦の存在など気にも留めていなかった。


 どちらかが認知症を患い、どちらかがそれに合わせていた可能性は十分あるが、私の神経だけは、この家に近寄るなと警鐘を発していた。


 だが、あの夫婦は良くない何かの虜ではなかったと、私は思っている。

 今こうして思い出してみても、老夫婦は幸せそうだった。

 そして、老夫婦と一緒に玄関で談笑していたのが何が存在していたとしたら、その何かも、老夫婦と幸せに暮らしていたのだと思う。私はそう信じている。

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れーかんにっき アイオイ アクト @jfresh

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