第9回 おばあちゃんがまだいる家……れーかんと病気の関係

『統合失調症』という病気がある。私自身が疑った病気の一つだ。

 先日、ちょうどテレビ番組でお笑い芸人のハウス加賀谷氏が統合失調症に悩み、スナイパーに狙われて苦しんでいるという話を見たので、予定を変更して今回の回を書いておこうと思った次第である。


『霊感』を病気ではないか? と考えるのは大切な事だ。

 そもそもメンタルクリニックの受診は全く恥ずかしい行為ではない。

 日本はいざ知らず、欧米のトップを走るスポーツ選手もハリウッドで活躍する俳優も、皆精神科医のカウンセリングを受けているのだ。正常を保っているかを確認する意味でも、何か自分がおかしいと感じたらメンタルクリニックの受診をお勧めしておきたい。

 私がかかった事のある精神科医のうち一人も、『見える』人だった。前回の「押さえる子さん」の後、休養を余儀なくされた私が偶然行き着いたメンタルクリニックの医師の一人だった。

 見てきた物の話をする前に、その医師はこう言った。


「あなたに背負ってもらいたいと願う何かがたくさん一緒に付いてきている」


 そして私の話を聞いてから、大丈夫だと請け合ってくれた。


「あなたのそれは病気ではない可能性が高いから投薬は不要」


 という診断を下してくれたのだ。

 この出会いには本当に感謝している。ただし、その方は『見える』事を一部の患者にしか公表していないため、紹介は出来ない。悪しからずご了承いただきたい。

 もしかしたら、私を安心させるためのリップサービスだったのかもしれない。それはそれで名医だ。



 掲題のおばあちゃんがまだいる家とは大学時代の友人宅の事である。

 その友人の祖母らしき人物(故人)は、まだその家にいたのだ。

 友人宅は今でこそ土地を大手不動産業者に売却されてマンションに建て替えられてしまったが、都内の一等地にある三世帯住宅という、珍しい大邸宅だった。

 その友人は自分の金持ちなところをまるでちびまる子ちゃんの花輪君の如く鼻にかける節があり、友達といえるのは私以外に少なかった。皆は鼻についたようだが、私にとって彼の態度は面白くて仕方がなかった。

 その家にはしょっちゅう泊まりに行ったのだが、毎回おかしな物音がする度、友人の家族全員がこういうのだ。


「まだばあちゃんいるんだよ」


 確かに昼夜問わず、するはずの無い音が響くのだ。周囲は都心のオフィス街で、色々な音がする場所ではあったが、大きな中華鍋を落とすような音に始まり、誰もスリッパを履いていないのに、家中スリッパで歩く音が響き続けるのだ。


 その「ばあちゃん」が、私と友人家族の前に現れたのだ。

 前途の通り、友人宅はかなり大きく、亡くなった「ばあちゃん」が住んでいた世帯部分に友人が一人暮らしのように住んでおり、ダイエットと称して自分で料理をして食べていた。

「ばあちゃん」が現れたのは、大学二年の時。私が遊びに行くようになってから一年が経過した時だった。

 前日は友人宅に泊まり、昼食を作っていざ食べようとした時の事だった。

 とんとんという足音が近付いてきた。その音の隙間にペタペタというスリッパの音も含まれていた気がしたが、友人は特にアクションを起こさず、何の味付けもしていないゆでただけのささみを口に運んでいたので気にはしなかった。

 足音の主は友人の母親だった。


「今ばあちゃんそっち行ったわよ」


 と言うので、私はびっくりして椅子に座ったまま体を跳ねさせてしまった。


「ビビリ過ぎ」


 と友人に半笑いしながら言われてしまう程だった。

 しかし、その次の瞬間だった。

 バタンバタンとスリッパを履いて乱暴に歩くような音がしたかと思うと、テレビの前に何かが立っていた。


 かなりはっきりと覚えているが、90歳くらい歳を取っていそうな顔のおばあさんだった。

 腰はしっかりまっすぐで、その目は誰を見ているという訳でもなかった。二度ほどあんちらちぃ?」と、疑問系のしゃべり方をしてから、すっと消えてしまった。

 友人とその母は、驚くどころかうんざりした顔をしていた。


「初めてお客さんの前に出た」


 と、友人は鬱陶しそうに呟いた。

 帰宅の際は家族総出で、無害だから嫌がらないでまた来て欲しいと懇願されてしまった。

 その家では「ばあちゃん」の存在が日常の一部だったのだ。

 私は全く嫌な感じもしなかったので、その後も足繁くその家には行った。その後は一度だけそれらしき人影を見ただけだった。


 私が他人と一緒に存在し得ない物をはっきりと見てしまったというのは、この時が初めての経験だったと思う。

 しかし、私はまだ性懲りも無く、「集団ヒステリー」という可能性を捨てていない。あれだけ謎の生活音が響く家にあって、全員が「ばあちゃんがいる」という認識で一致している状態が引き起こしたのではないかと。そして、「ばあちゃん」の写真は仏間に飾ってあったので、私は顔を知っているのだ。


 だが、「ばあちゃん」が本当に存在したのかといえば、私は存在したと答えざるを得ない。自分にとっても友人にとっても、その母にも見えていたからである。

 複数人が見て、聞いた。それは自分が見た物、友人が見た物、その母が見た物を完全に否定する行為に繋がってしまう。


 その後十年程して、友人家族は家を売り払い、近くに別の土地を買って、テナントや賃貸の部屋を含むビルを建てた。

 そこに泊まりに行った事はないが、「ばあちゃん」が現れる事はないらしい。


 見えてしまう人は、まず精神的な病気を疑ってみるのも大切だが、否定しようのない事態に陥った時に混乱しないよう、備えておくべきである。


 私は家族に見える人間がたくさんいたので、なんとなく、やはり自分が見た物は存在するのではないかという覚悟が出来ていた。

 だが、どうしても病気と思い込みたい、何も見たくないという人は、是非とも精神科を受診していただきたい。

 心を安定させる事で、見えなくなる物も必ずあるからだ。


 見えてしまうのは仕方が無いのだ。自分は他とは違うんだという優越感を覚えたって良いではないか。

 あなたは見えてしまうからといって、他人に馬鹿にされるかもしれないが、他人より劣ってなどないのだ。

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