十七曲目 オレンジ②
「ただいま、太一……!」
「えっ、マナカお前、急に太一って……」
突然の出来事に、目を丸くしている。わたしですら何が起こったのか分かっていないが、それ以上に混乱しているという様子だ。
「記憶がね、戻ったんだよ!」
「ほ、本当か……!?」
未だに信じられないといった様子で、あたふたと落ち着きがない。
そんな太一を見ていたら、わたしの方は何だか可笑しさが勝ってしまって、冷静な気持ちを取り戻していた。
「そんなに驚かなくてもー」
「いやっ、驚くだろ!」
まあ、そりゃそうだ。太一はからかうと面白いから、すぐにからかいたくなる。この前の故郷巡りの帰りも、暗いわたしがついからかいたくなるほどだ。
「まだ何が起きたのか分からない……」
「えーそんなに?」
「だって、治らないと思ってたのがいきなり……」
「分かった分かった。じゃあさ、ちょっと座って話そうよ」
わたしたちは、夕暮れのオレンジ色に染まる中、バス停のベンチに二人きりで座った。
「もう一度確認するけど、本当に記憶が戻ったのか?」
「うん、戻ったよ」
「完全に?」
「多分完全に、全部」
さっきよりは落ち着きを取り戻したようで、多少呼吸が整っている。
それからわたしたちは、誰もが何気なくするであろう他愛もない昔話を、感慨深く、丁寧に、心の底から楽しんだ。
この山をよく走り回って遊んだこと。
川で泳いで、水切りして遊んだこと。
喫茶ハーモニーでオムライスを食べたこと。
けんかをしても、気が付くともう普通に話してたこと。
こんな何でもない思い出話を、これでもかってほどした。
だけど、この日常が当たり前だったのは昔のわたしだけで。数十分前までは、当たり前のように持ち合わせていなかった過去で。
『当たり前の日常が一番大事』みたいな言葉が、よく歌詞に出てきたりもするけど、それをこれほどまでに心の底から感じたのは初めてのことだった。
「あはは、そんなこともあったなぁ」
「あとあれもあったじゃん! ほら太一が……」
ただの昔話がこんなに楽しいなんて。もう自称なんかじゃない。太一は正真正銘の、唯一で最高の幼馴染みだ!
「はあ……ほとんど話し終わったかな。こう考えると俺たち、ほんとにずっと一緒にいたよな」
「ほんとにね。今まで忘れてたのが、ウソみたい」
「だから、マナカに忘れられてた時の俺の気持ち、少し分かっただろ?」
「それはホントにごめん。そりゃあ傷つくよね」
「ま、こうして元通りになったから、良かったんだけどな……」
怒濤の如く続いた話がふと途切れ、空を見上げる。あの日と同じ、鮮やかなオレンジ色だった。
「なあ……マナカ」
「ん、なに?」
徐に呼びかけた太一の横顔は、思いの外真剣で、なんでかすこしドキッとした。
「あのさ、記憶を取り戻したってことは――六年前のこの場所で、俺が言った言葉も思い出した、ってことだよな」
「……うん。さっきの太一の必死な声がさ、その時と重なって。フラッシュバックって言うのかな。それで、記憶が戻ったんだ」
「そっか。そう、だったんだな」
あの時の返事は、太一には届いていなかった。いや、わたしが返事をしたのかすらも、今ではよく覚えていない。記憶が戻っていないわけではなくて、純粋に記憶が曖昧なだけだ。
話が途切れ、少しの間が空く。言葉を大事に紡ごうとしている雰囲気が、何となく伝わってくる。同時に、緊張しているようにも。
次に続く言葉にわたしは、覚悟が出来ていた。
「じゃあさ、マナカ。今更だけど、あの時の答え、訊いてもいいか?」
予想通りのその言葉。この言葉を、待っていた。
もう、バスの音にも、夏の風にも、オレンジの空にも溶かさずに、自分の想いを届けよう。
「じゃあ、結論から言うね」
大きく息を吸いながら、言いたいことを頭の中に並べた。
「――わたしは、太一のことが、好き」
全身を
「だけどね、ちょっとだけ、わがまま言わせて」
わたしは、ありのままの気持ちを伝えようと思った。
「わたしにとって太一は、それ以上に特別なの。『好き』とか、『恋人』とか、『付き合う』とか、そんな陳腐でありふれた言葉で結ばれたくないの。上手くは言えないけど――とにかく、特別で、大切な人だってこと」
わたしは、自分の中に溜まった思いの丈を、包み隠さずありのままに伝えた。
「こんなはっきりしない答えだけど――それでもいい?」
正直、自分でもよく分からない。好きではあるけど、それだけじゃない。上手く言葉にしたいけど、どうしてもできない。そんな、気持ち。
だけど、今度こそ、想いは届いていた。
顔を逸らして、目をゴシゴシとこすった掌からは、光るものがキラキラと零れた。
「……当たり前だ! ダメなはずないだろ! 俺にとって、これ以上ない答えだ!」
赤い目で、無理しちゃって。微笑ましくなって、思わずふふっと笑みがこぼれる。
でも本当は、わたしも油断すると想いが溢れそうだった。
幸せな気持ちに包まれる。今度こそ、この時間が永遠に続けばいいのにと思った。
「――ね、今だけ、ちょっとだけ、手握っても、いい?」
「べ、別にいいけど……」
「ん、ありがと」
太一の左手が、わたしの右手を包み込む。優しくて、温かい。
わたしはこれまで、この温もりのために生きてきたのかもしれない。
わたしも優しく、温かい気持ちに包まれる。
目から涙が溢れそう。だけど、ぐっとこらえる。視界に映る全ての景色を、この眼に、脳裏に、焼き付ける。
二人の間に流れるのは、夏の青い、爽やかな
オレンジに染まった田園風景に、ゆったりとした時間が流れる。
その中を、一台のバスが走ってきた。
「お、バスが来たみたいだな」
とうとうバスは到着し、目の前に停車した。
「よしっ、じゃあそろそろ帰るか」
「まだ、帰りたくない……」
「え、まだ嫌なのか?」
「うん……」
「だから、本音で話さないと解決しないことだって……」
「そういうことじゃ、なくってさ……」
「どういうことだ?」
「……わかってよ、バカっ!」
「な、なんだよ急に……」
「だからっ、まだここで太一と話してたくて……」
「あ、そういうことか」
「もうっ、わざわざ言わせないでよ……」
「お客さん、乗るの、乗らないの!?」
「あ、すみません、乗りません」
少しイライラした運転手さんは、「これだから若いのはっ」などとブツブツ言いながらバスを発進させた。
もう、恥ずかしくて顔が熱い。さっきの告白を超えた告白で、わたしのキャパは一杯いっぱいだというのに、まだこんな恥ずかしいこと言わせるなんて。全く、鈍感もいいところだ。
結局バスを見送り、次の最終バスまで三十分は時間がある。
二人の間には、再び静寂が流れていた。
「……ねえ、覚えてる? わたしが発作起こしたこと」
「この前の、故郷巡りした時のことか?」
「うん、あの秘密基地でのこと」
今度は昔話じゃなく、比較的最近の話題を選んだ。それも大事な、わたしの記憶だから。
「そりゃあ覚えてるよ。あの時はびっくりしたし、大変だったもんなあ」
「うん。それでね、わたしがあの時ああなった
「……そっか。あの場所も、ちゃんと思い出したんだな」
「うん、思い出せて良かったよ。あそこはわたしの、『原点』だからね」
そう、あそこはわたしにとって、真の原点だった。
わたしは昔、あの場所で、太一と一緒に歌の練習をしていたのだ。
昔はスクールなんかには入っていなかったし、練習する場所なんてなかった。だけど、あの秘密基地は洞穴になっているわけだし、声がよく響くあの場所は絶好の練習場だった。
そこでイスや机を手作りして、ステージのようにしたこともあった。
歌手になりたいって漠然と思ってはいたけど、あの時はただ、歌うことを純粋に楽しんでたんだっけ。
そう考えると、やっぱり真の原点はあの秘密基地だったのだ。
「なんか、記憶があってもなくても歌手を目指しちゃうなんて、不思議だね」
「運命みたいなもんなのかもなぁ。それか天命とか」
「でも、神様なんかじゃなくて、自分でこの道を選んでる気がする。何度人生をやり直しても、結局わたしは歌が好き。そんな気がするの」
今考えてみればあの時の事故は、自分にとって思ったよりもいいものとなっているのかもしれない。あれだけの経験をして、より歌の持つパワーを痛感できたのだから。
周りの人には、たくさん迷惑も心配も掛けた。だけど今となっては、結果オーライと考える方がいいのかもしれない、そう思うことにした。
もう空は暗くなり始めている。永遠とも思われたこの時間も、もうすぐ終わりだ。わたしは二度とこの瞬間を忘れないように、しっかりと脳裏に焼き付けた。
「おっ、今日の最終バスが来たみたいだな」
「……まだ、帰りたくない」
「もうダメだ。いくらなんでも、みんなが心配するからな」
「ちぇっ、仕方ないなー」
本当は最終バスも見送って、ずっと側にいたかったけど、そういうわけにもいかない。せめて手は握ったままで、乗客のいないバスへと乗り込んだ。
揺れるバス、寄り添う身体。静かな車内で、最後の時を噛みしめた。
「……よし、ここがマナカん
最寄りのバス停を降りて、自宅の門の前まで帰ってきた。太一は家まで送ってくれた。
「そっか、来たことなかったんだよね」
「ああ、引っ越してからはそれきりだったからな」
「じゃあお母さんにも久々に会ってきなよ、きっと喜ぶから」
「いや、今日は帰るよ。二人の時間を邪魔しちゃ悪いしな」
「そんなことないのに」
「お母さんも親子水入らずの方がいいって。安心しろ、また今度来るから、その時でいいよ」
「……ん、分かった。それじゃ今日は、色々とありがと」
「ああ。それじゃあまたな、マナカ」
「うん、またね、太一」
こんなに改まって名前を呼び合うと、何だか照れくさい。だけど、悪い気はしない。この時間が終わるのは寂しいけど、今日の思い出で何年も生きていける気がした。
『どうかこれからは、ずっと一緒にいられますように……』
そう願いを込めて、一度強く握り返してから手を離した。
「マナカ……! もうっ、どこにいたの……!」
「あっお母さん! ただいま!」
太一の背中を見送って見えなくなった頃、外のわたしに気が付いたお母さんが飛び出してきた。
「……なんかやたら元気じゃない。聞いてた話と違うんだけど」
「へっへー、実はね、記憶が戻ったの!」
まあいつも冷静なお母さんのことだから、クールに対応するに違いない。
と思ったら――突然脱力したように見えたと思ったら、わたしを強く抱きしめた。
「……お母さん?」
「もうっ、心配したんだから……! 元気になって、ほんとによかった……!」
いつも冷静で気丈に振る舞うお母さんの目からは、次から次へと涙が溢れていた。あのお母さんが泣くなんて、そんなに心配掛けてたんだ――
「うぅっお母さん、心配掛けてごめんね……!」
込み上げるものを、抑えることは出来なかった。
「これまでずっと支えてきてくれて――お母さん、ありがとう」
部屋の窓から見える空には、無数の星が輝いている。今日のわたしが、こぼした涙の粒みたいに。悲しくて泣いて、悔しくて泣いて、嬉しくて泣いて――いろんな涙を流したけれど、今日の想い出はきっと、これからのわたしを明るく照らしてくれるはずだ。そして、歩むべき道へと、わたしを導いてくれるだろうと、そう思わずにはいられなかった。
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