十四曲目 だから、ひとりじゃない①

 遠くから小鳥のさえずりが聞こえる。東側の窓から射す朝日の中、わたしは今日自分が着るであろう衣装を手に取って眺めていた。

 白いワイシャツに黒のカーディガン、赤いネクタイにグレーのスカートと、制服チックに仕上がったそれは全て自前。高校生らしく、かといって地味になりすぎないよう、考え抜いた結果ここに落ち着いた。


 いよいよか――そう改めて思うと、胸がキュッと縮んだ気がした。壁にぶら下がったカレンダーに目を遣る。今日を意味する『7月9日』のマスには、大きな赤いペンで『ミニライブ レッツグルーブ!』と書かれていた。

 選抜メンバーに選ばれてから、約二月ふたつき半。今までにないほど濃厚な日々を過ごしてきたが、全ては今日のためだったと言っても過言ではない。いよいよ、一世一代の勝負の日がやって来た。


 佐々木くんとの故郷巡りは、わたしに笑う楽しさと、過去と向き合うきっかけをくれた。LGMのライブは、感動と楽しむことの大切さを教えてくれた。セリちゃんは、歌手を目指す厳しさと素晴らしさを教えてくれた。それからマユちゃんは、気が付かなかった欠点を指摘してくれた。

 それが全部、今の自分の力になっている。この三ヶ月を思い返すと、朝から込み上げてくるものがあった。


 一度大きく天井を仰いでから、「よしっ」と気合いを入れて立ち上がる。今までで最も清々しい朝を迎えたわたしは、心も身体も準備万端だった。



「マナカ、忘れ物はない?」

「うん、完璧だよ」

「そう、心強いわね。それじゃあそろそろ行こっか」

 全ての支度を終え、いよいよ家を出て会場へと向かう。今日はお母さんも見に来てくれるから、一緒に向かうことになった。


 お母さんはわたしが合格を伝えた時、とても喜んでくれた。記憶を失って抜け殻と化していたわたしが歌を習い始めてから、母はずっと支えてくれている。それが元気でいられるだけでなく、実力も上げていると分かれば、嬉しくないはずもないだろう。そうとは分かっていても、喜んでくれた時には嬉しくなったし、安心もした。

 友達や仲間がわたしを支えてくれていることも間違いないけど、陰で一番尽くしてくれているのはお母さんであるということも感じていた。だから、母への感謝は忘れてはならない。もちろん今日は来られないお父さんにも同じだ。今日は感謝の念を込めて歌おう。誰のためでもない、その気持ちが最高のパフォーマンスになると信じているから。

「マナカ最近変わってきてるみたい。もしかして、好きな男の子でもできた〜?」

「そ、そんなのいないよ!」

 前にお母さんはわたしのことをお見通しだって言ったけど、たまには外れることもあるみたい。



「約一ヶ月半ぶり、かぁ……」

 先日も訪れた建物を、ドキドキしながら見上げる。年季の入った市民会館が心なしか輝いて見えるのは、単に梅雨明けの青空のおかげか、それとも今日の調子がいいからか。そんなことはどうでもいいことだけど、今日のステージが楽しみで仕方ないのは間違いない。

 ――初めてのお客さんを前にしたパフォーマンス、さらにはLGMと同じ舞台。会場を超満員にした彼女たちには遠く及ばないだろうけど、それでも、今日だけは同じ景色を見ることが出来るんだ。


 だけど、それと同時に、オーディションも兼ねた負けられないでもある。そのプレッシャーと不安ももちろんあったけど、それは今の自分にとって言い方向に作用している気がした。

 ワクワクとドキドキだけだと、心が浮ついて本番で失敗をするかもしれないし、いいパフォーマンスにならないかもしれない。だけど、いい緊張感を保てていることで地に足をつけていると思う。これは今までの努力が自信になって現れているのかもしれない。


「それじゃあわたしは準備があるから、控え室に向かうね」

「じゃあしっかり楽しむのよ〜。ほらっ、肩の力抜いて!」

 お母さんはわたしの肩を、両手でポンポンと二回叩いた。

「よしっ、今日はがんばってね。お母さんしっかり見てるから」

「ありがとう、行ってきます」

 お母さんに一旦の別れを告げて、集合場所へと向かう。控え室へと続く道は初めて通るもので、なんだか背中がそわそわとした。誰もいない廊下はひんやりとしていて、緊張感に溢れた聖域といった雰囲気を醸し出している。その聖域を、チャレンジャーとして堂々と進んだ。

 カツン、カツン、とわたしの足音だけが響き渡り、自分がこの場を支配している気分さえした。


 練習では自分が一番下手、試合では自分が一番上手いと思ってやれ――前に誰かが言っていた言葉だ。その言葉を思い出し、背筋をグッと伸ばした。

「おはようございます!」

 控え室の扉を開けると、まだ早かったのか、部屋の中には一人しかいなかった。

「おー岡本。気合い入ってるみたいだな」

「ボンバー先生も早いですね」

「だから先生はいらないってー。そりゃあこう見えて責任者だから、色々と準備もあるからな」

 いつも通り軽いノリで楽しそうだ。だけどやっぱり、そんな軽々しく呼べないって。

「調子の方はどうだ、岡本」

「はい、バッチリです」

「そうか、最近なかなか上達してきてるみたいだし、今日は期待してるぞ」

 ポンポンと肩を叩き、「それじゃまた後でな」と言い残して部屋を出て行ってしまった。

 本音か社交辞令かは分からないけど、『期待』という言葉を聞いて、より身が引き締まる思いがした。


 部屋には再びわたしだけの空間が広がる。何もしていないのも落ち着かないので、とりあえず外で発声練習をすることにした。



 建物の裏側、眠った身体を起こすように声を出す。わたしはこの時間が割と好きだ。朝のウォーミングアップが一番、自分の身体と向き合えている気がするからだ。

 二ヶ月前とは比にならないほど上達したと、つくづく思う。単に今日の調子が良いというのもあるだろうけど、それだけじゃない。単なるウォーミングアップひとつとっても、周りをよく観察して、他人の優れた所を自分のモノにしてきた。

 選抜クラスの環境はわたしにとって最高の環境だったということだ。


 思えば、わたし史上最高にキツい二ヶ月間だったに違いない。

 周りのレベルは想像以上に高くて、着いていくだけで精一杯だった。毎回の練習だけでも必死なのに、グループワークではマユちゃんに罵倒される日々。

 だけど、不思議と辞めたいと思ったことはなかった。もしかしたら、わたし史上最高に充実した二ヶ月間だったのかもしれない。

 セリちゃんが励ましてくれたからというのもあるけど、LGMの影響も大きい。ライブに行ってからというもの、彼女らの熱に浮かされっぱなしだった。


 辛くなると、頭の中に響き渡る彼女たちの歌声。それは脈打つ鼓動となって、落ちたモチベーションをあっという間に高めた。

 彼女たちの熱い背中を追って、ここまで来られたんだ。


 今日までの日々を振り返りながら発声していると、いつの間にか時間が過ぎていた。

「――よし、アップ完了っと」

 怖いものなどないと言わんばかりに、元の控え室に戻る。


 扉を開けると、もうメンバーは揃っていたようだった。

「あら岡本さん、遅かったわね」

「おはようマユちゃん。もう準備万端だよ、今日はお互いがんばろ」

「付け焼き刃の技術を身に付けたくらいで大口叩いてると、足をすくわれて痛い目見るわよ」

「そんなこと言ってて、マユちゃんこそ気を付けてね」

「ふっ、そうね。今日は手加減なんてしないから」

 目の前の瞳は、いつも以上にメラメラと燃え上がっている。相当気合いが入っているようだ。


 周りを見渡すと、どのメンバーからもただならぬ熱気が感じられた。まだリハーサル前だというのに、大した心構えだ。かく言うわたしも、闘志むき出しでこの場にいるひとりなわけだが。


「よーし全員集まってるな。これから軽くリハーサルをして、昼休憩を挟んだらいよいよ本番だ。じゃあ各自速やかにステージに移動するように」

 ボンバーの指示により、全員がステージへと移動し始めた。まずはリハーサル。たかがリハーサルだけど、ライブ本番がすぐそこまで迫っていると思うと、妙に緊張した。

 昨日発表された順番で、舞台袖から中央へと歩く。そこで立ち位置、動き、諸々のタイミングを確認した後は、実際に本番で歌う曲を半分ほど歌うことになっている。


 抽選で選んだという順番でわたしは十九番目と、最後から二番目になってしまった。幸か不幸かはいまいち分からない。準トリなのは緊張するけど、中盤だと印象が薄くなる可能性もある。ということで、ここは良かったと考えておこう。

 ちなみに最後、ライブのトリに当たったのは天才少女、マユちゃんだ。これはぴったりの役だと思った。


 最後から二番目のわたしは、リハの出番が近くなるまで客席で様子を見る。ここから眺めるステージは特段変わった所もなく、LGMのパフォーマンスと一体になったことで輝いて見えたのだと感じた。


 次々とテンポ良く確認を終えていき、いよいよわたしの出番がやって来た。

 舞台袖から、ステージ中央に向かって歩く。本番ではここで、パフォーマーの簡単な紹介がアナウンスされるらしい。ちなみにそれを考えたのはボンバー。どんな内容なのか少し気になる。

「この床のテープの前まで来たら、ステージに向かってお辞儀な」

「こうですか?」

「よし、バッチリだ。それじゃあ音楽流してー」

 ボンバーの指示通りに諸確認を済ませると、わたしが今日歌う予定の音楽が流れた。

 曲は自分で選んでよいことになっている。そこでわたしは、一番お気に入りの『逢いたくて』に決めた。バラード調の曲、アップテンポがいまいち苦手なわたしは、しっかりと歌い上げられるこの曲を選んだ。

 LGMの曲を歌いたい所ではあったが、彼女たちの曲はハーモニーが多く、ソロで歌うにはあまり向いていないと判断した。


 練習通りに声を出す。朝感じたように調子は良く、淀みない歌声を披露することができた。そして手順通り、反対側の舞台袖へと退場していく。空っぽの客席だったとは言え、初めてのステージにしては落ち着いて振る舞えたので満足だ、以前のわたしならこう上手くはいかなかっただろう。

 客席に戻る途中、マユちゃんの歌声が少しだけ聞こえたが、相変わらず凍り付くほど美しく調子も良さそうだった。一層負けられない。




 それからの時間は、発声の確認をしたり、お昼を食べてリラックスしたりして過ごした。

 そしていよいよ本番の時間――着替えを済ませて楽屋で待機をする。既に開幕している『レッツグルーブ!』のホールからは、拍手と歌声が微かに聞こえてくる。それらが繰り返し耳に届く度に、身体の芯が熱く燃え上がった。


「いよいよね、岡本さん。もしかして緊張してるの?」

 いかにも余裕だという笑みを浮かべながら、マユちゃんは話しかけてきた。

「そんなの、するに決まってるじゃん」

「だらしないわね。そんなにか弱い心臓じゃあ、一生ホンモノのステージには立てないわよ」

「今日だってホンモノのステージだよ」

「今日はただのオーディション。どこかにいる誰かじゃない、スカウトの目に止まらなきゃ意味がないわ。だから、ホンモノじゃない」

「それは、そうだけど……」

「まあいいわ。そうは言ってもベストを尽くすという所は変わらない、お互い頑張りましょう」

 珍しく励ましの言葉を掛けたことに少々驚いたが、すぐに素直に受け取った。

「うん、誰にも負けないよ」


「岡本ー、梨田ー、そろそろ袖で待機だ」

 ボンバーの声が掛かった。もう楽屋に残っているのは二人だけ。大きく深呼吸をして、心の準備を整えてから立ち上がった。


 袖では既に三人ほどが待機している。ということは、約十分後には自分の出番だ。

 眩しい舞台が見える。額を冷や汗が伝った。いよいよ、大勢の観客とスカウトの前に立つ。負けられない戦いが始まる。大丈夫、大丈夫と、心の中で呪文のように繰り返した。これだけやって来たんだから、絶対に大丈夫だと。


 必死に心をなだめていると、何やら慌てた様子でボンバーが走ってきて、響かないように小さな声で叫んだ。

「おい岡本、ちょっと着いてきてくれ……!」

「えっ、なんですか?」

こんな間際に、どうしたと言うのだろう。

「いいから早く、大変なんだ……!」

 困った顔で慌てる先生の後を追う。なんだか嫌な予感がした。

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