七曲目 君のようになりたい

「マナちゃんなんて大嫌い! もう私、歌えないから」

「そんなこと言わないでよ。セリちゃんの歌声、わたしすごい好きなんだよ」

「やめてよ、マナちゃんは私のことなんにも分かってない! とにかくもう私、歌手目指すのも、歌歌うのも、辞めるから。それじゃあね」

 遠ざかる彼女の背中。そんな背中を、夜空の星に手を伸ばすように追いかけた。


「待って、待ってよセリちゃん!」

「どうしたのマナカ」

「あ、あれ……?」

「おはよう、すごいうなされてたわよ」

 ベッドの横にお母さんが立っている。ってあれ、ベッド……? なんだ、夢を見てたのか。

 気が付くと、全身が汗でびっしょり濡れている。そりゃあ、あんな悪夢を見たらこうなるのも無理はない。

 だけど、今一番怖いのは――これが本当に夢で終わってくれるのだろうか、ということでもある。昨日起こったことを考えれば、これが正夢にならないとは言い切れない。そんな最悪の事態だけは絶対に避けたいところだ。が、そのために自分には何が出来るんだろうか。何か力になれることはあるのだろうか――。

「何があったのか詳しくは分からないけど、あんまり思い詰め過ぎないように、気を付けなさいね」

 お母さんはカーテンを開けながらそう微笑むとリビングへと戻っていった。

 とは言え、わたしが蒔いた種なのだからわたしがなんとかしなければいけない。そう考える度に昨日の光景がありありと目に浮かんで、胸がきりきりと痛むのだった。


「行ってきます」

 だれもいない家に挨拶をして、学校へと向かう。おっと、家の鍵を閉め忘れるところだった。きちんと玄関が施錠されたことを確認してから、気を取り直して歩き出す。

 いつもと変わらない通学路を、今日も一人で進む。


人が通る度に元気に吠える近所の犬、毎朝すれ違うランニング中のおじさん、高校生たちの会話がよく響くトンネルに、お馴染みの川沿いの桜並木。


全ていつもと同じはずなのに、なぜかいつもと違って見える。まるで根こそぎ色が奪われてしまったモノクロ写真のように。何もかも私にとっては興味の湧かない、味気ないものに変わってしまった。

 いや、本当は分かっている。周りが変わってしまったわけじゃなくて、わたしの心が渇ききってしまっているだけだって。だけど、そう思いたくない。目を逸らしたい。そうでもしないと、不安と後悔に押しつぶされてしまいそうだった。


 はあ、一つ静かにため息をつくのとほぼ同時に、後ろからわたしを呼ぶ声が聞こえた。

「あ、いたいた。おはようマナカ」

「あ、佐々木くん」

 学校で先日できた初めての友達、自称幼なじみの佐々木太一だった。軽薄でバカという最悪の第一印象から、思ったよりも素直で良いやつという印象へと変わりつつある。

「ってどうしたんだ? ひどい顔してるぞ」

「質問がストレート過ぎるでしょ。もうちょっとオブラートに包むとかできなかったの」

 やっぱり前言撤回。素直すぎるバカへと、わたしの彼への印象は更新された。

「あ、ごめんごめん。でもその様子じゃ昨日はダメだったのか……」

「いや、わたしは合格したよ」

「え、じゃあなんでそんな落ち込んだ顔してるんだ? 電話にも全く出ないし」

「それは……」

 わたしは少し躊躇ったけど、結局昨日のことを話すことにした。話している間、彼は真剣にわたしの話を聞いてくれたけど、話し終えると「そうだったのか」と呟いたまま、何か考え込むように黙ってしまった。


「ごめんね、朝からこんな暗い話しちゃって」

「いや、話してくれてありがとな」

 始業時刻間際に学校に到着したから、そう言い残すと彼は自分の教室へと行ってしまった。やっぱり迷惑だっただろうか。

 でも、人に話したら少し気持ちが軽くなったような気がした。セリちゃんが抱えている想いとか、それに対するわたしの気持ちとか、自分の中でぐるぐると回ってなかなか答えにたどり着かないものを少し整理できたのかもしれない。相変わらず闇はわたしの心を覆ったままだけど、話してよかった、友達がいるって大事なことなんだと、そう思えた。



「お疲れ様です」

 学校を終えたわたしはいつものようにスクールへと到着した。相変わらず抜け殻のようになったままだったが、メンバーに選ばれておいてレッスンを休むことなど出来るはずもなかった。レッスン場には既にたくさんのスクール生たちが集まっている。わたしは、部屋の片隅から部屋中を隈無く見渡した。

「やっぱり、いないか……」

 しかし、お目当ての相手の姿はやはりどこにもなかった。あそこまで取り乱すほどの想いがあったのだから、昨日の今日ですぐに立ち直れるはずがない。当然と言えば当然なのだが、どうしても気になってしまう。彼女がいないと独りぼっちのわたしは、気を紛らわす意味も込めてストレッチをすることにした。


 今ごろセリちゃん、どうしてるのかな。まさか本当に辞めちゃうなんてこと、ないよね――。


 ああダメだダメだ、彼女のことがどうしても頭から離れない。わたしがどうしようもないモヤモヤと格闘していると、周りの話し声が聞こえてきた。

「あれが岡本さんだよね、存在感ないから今まであんまり気が付かなかった」

「あれ、でも今日はセリナちゃんと一緒じゃないんだね」

「今日は来てないみたいだよー。やっぱりどっちかが落ちちゃうと気まずいよね」

 よく聞いてみるとどうやらわたしたちの噂話のようだ。今まで見向きもされなかったわたしが、メンバーに選ばれた途端噂までされるようになったのか。こんな無名の人間が合格したことはそれだけのビッグニュースだったということだ。なんだかそれだけでプレッシャーを感じてしまう。伏し目がちに周りを窺っていると、その中の一人と目が合ってしまった。向こうもそれに気が付いたらしく、こちらに向かっておそるおそる歩いてくる。


「お、岡本さんだよね。昨日はおめでとう」

 わたしへの接し方を探るように、こちらの顔色に気を配りながら話しているようだ。みんなから見たわたしってそこまで取扱注意に映っているのだろうか。

「あ、ありがとう。みんなびっくりしてるみたいだけど、一番驚いたのはわたしだろうね」

「あはは、そうだね……じゃ、じゃあがんばって」

 他人との会話に慣れていないわたしと、わたしとの会話にしり込みする他人との会話は、まあこのくらいのぎこちなさがあってもおかしくはないだろう。それにしても、わたしの返しに違和感がありすぎる気もするけれど。


 いまいち噛み合わない会話のせいでやや静まった教室に、タイミング良く先生が入ってきた。

「はーいレッスン始めるから集まってー」

 バラバラだったスクール生たちが、先生を囲むように集まってくる。

「昨日はお疲れ様でした。結果は人それぞれだっただろうけど、それぞれ努力を怠らないように。それだけは言っておくわ」

 先生の一言に、みんなの雰囲気が一転して場の空気が引き締まる。

「よし、じゃあ今日からも今まで通りレッスンしていくわけだけど、メンバーに選ばれた人たちはまとまってレッスンするから二階の教室に集まるように。以上、メンバーの人たちは移動して」

 先生はそう言うとすぐにレッスンの準備へと取りかかった。


 そうか、ミニライブに出演する生徒は同じ場所で練習するのか。考えてみれば当たり前か、そのための選抜発表だったんだから。同じ教室からはわたしともう二人、全部で三人か。話しながら歩く二人の後について、わたしも二階へと向かう。


 この先の教室に、このスクールの精鋭たちが集結している。そう考えるだけで背筋が伸びる気がした。期待や楽しみもないわけではなかったけれど、それ以上に不安やプレッシャーがわたしの心を覆い尽くしている。

 それに、ここにはセリちゃんがいない――。

 そのことがわたしを窮地へと追いやる最大の原因だったのかもしれない。


 いろんな感情を乗せて暴れる鼓動を抑えながら扉を開くと、部屋の中にはもう既に他のメンバーは集まっていた。

 部屋を見渡すと、いろいろな人たちがいた。性別や年齢はバラバラで、やっぱり年上と思しき人たちが多いようだ。精々胸を借りるつもりで挑もう。そう考えていると、生徒の中に一人、一際鋭い視線をわたしに向けている子がいることに気が付いた。

「なんだろう、あの子?」

 長い髪に鋭い目つき、手首にはワンポイントアクセントなのであろうヒョウ柄のリストバンド。その第一印象は『一匹おおかみ』。どこをとっても怖いという印象しか持ち得ない。わたしとは全くの対極といったところで、ギラギラとした雰囲気は一際周囲の目を惹いていた。だけど見られているのはたまたまだろうし、自分には関わることのないタイプだろう。とは言え、他にもまだまだ怖い人たちもいるかもしれない。こんな中でしばらく練習しなければいけないなんて、憧れとは言え夢への道のりはなかなか厳しいのだと思った。


「よし、全員集まってるみたいだな」

 自分の今後について憂えんでいると、担当であろう先生が入ってきた。どんな先生なんだろう……と振り向くと、見覚えのある顔だった。

「全員集合ー、じゃあ自己紹介から始めるか。俺は一応インストラクター長をやってる本間ほんまだ。これからミニライブまでの間このクラスを担当することになった、よろしくな。堅苦しいのはあんまり好きじゃないから、まあボンバーとでもよんでくれたらいい」

 なるほど、あの日見学に来た『結構偉い先生』は先生たちのトップだったということか。あの人の推しでわたしが選ばれたのかもしれない、感謝しなければ。

 とまあそれはいいのだが、さすがに軽すぎないだろうか。いきなり先生を『ボンバー』などと呼ぶ方がかえってハードルが高い。本当にこんな環境でわたしはやっていけるのだろうか。さっきまでより明らかに不安が増している。


 でもまあ実力は確かだろうし、歌の練習は一人でもできるし、大丈夫か。

 そう自分に言い聞かせ、セリちゃんと約束した通りなるべく前向きに、ポジティブな気持ちでいようと心がけた。

「それじゃあ早速始めていくとするか」

 先生――もといボンバーがそう言うと、このクラス初のレッスンが始まった。準備体操にストレッチ、声出し、発声練習といつも通りのメニューで進んでいく。いつもならなんとも思わないこの練習だけど、さすがは選抜クラス、みんな個々のレベルが数段高い。この空間に自分がいるというだけで上手くなった気もした。なるほど、切磋琢磨というのはこういうことを言うのかと、つい感心してしまう。

 なんだ、これなら十分わたしでもやっていける。むしろ周りに感化されてレベルアップ間違いなしだ。さっきまでの不安が少し和らぎ、希望の光が差し込みかけた。


 しかし、それも束の間。レッスンが中盤にさしかかると、ボンバーは衝撃の練習メニューを提示してきた。

「それじゃあせっかく初の選抜クラスだし、お互いのことも少しくらい知っておかないとな。まず四人組を組め」

 四人組、いきなりのことにあたふたとしてしまう。このクラスには二十人いるから、余りが出ることは絶対にない。だけど、全く知り合いのいないわたしは組む相手など一人もいなかった。どうしよう……そう思っているうちに素早くグループは出来上がっていく。そしてついに他のグループは完成してしまったようだった。

 今余っているのは、友達同士であろう二人組とわたし、そしてあの『一匹おおかみ』のみ。よって、必然的にこの四人でグループを組むことになった。

 絶対に関わることはないと思っていた相手と、こんなに早く対峙することになるなんて――わたしは気が遠くなった。


「よーしみんな組んだな。それじゃあ今からやってもらう練習を説明する」

 わたしは息を飲んだ。するとボンバーが何やらプリントを配り始める。

「それぞれ簡単に自己紹介したあと、一曲歌ってもらう。教室も広いし他の班が邪魔になることもないだろう。それを他の班員が分析して、そのプリントに記入していくっていうシンプルな練習だ。もちろんお互いを知るって意図もあるが、それだけじゃない。この練習で大事なのは、のことを理解するということだ。ミニライブには客もいれば、スカウトだっている。まずは他人の歌を分析して、自分もこうして評価されていることを感じてほしい。そしていずれは自分を客観的に分析出来る目を、耳を養っていけるのが目標だな」

 なるほど……今までになかった視点に、またもや思わず感心してしまう。だけど、問題はメンバーだ。

 こっちの二人はまだいいとして、この『一匹おおかみ』。やっぱり何度見ても怖い。怒られたら怖いから、少し甘めに評価を――

「あと当然だが、初対面の相手だからといって遠慮しないように」

 心を見透かしたようなボンバーの注意に、不意を突かれドキッとしてしまう。やっぱり手を抜いたらお互いのためにならないし、遠慮はなしでやろう。


 まずは友達同士の二人から。さすがに選抜に選ばれただけあって、上手い。だけど、何かが足りない気がする。いまいちリズム感が悪く聴く側がノレないのだろうか。わたしは思ったことをつらつらと書き留めていく。そして、意見交換の時間が約五分間。よし、なかなか鋭く分析できたと自分では思う。


 そしていよいよ三番目は、わたしの番。やや緊張した面持ちで立ち上がると、すぐに音楽は流れ始めた。

 今日の曲はややアップテンポなJ-POP。苦手ではないが、バラードよりは自信がない。だけど、そんなことは言っていられない。何事もはじめが肝心、上手いという印象を相手に植え付けなくては。

 メロディーの正確性、抑揚はもちろんのこと、息継ぎの仕方に至るまで細かく注意を払う。サビへと向かうに連れ、気持ちも昂ぶり脈打つ鼓動も速くなるのを全身で感じた。よし、今日はなかなか調子が良い。


 歌い終えると、再び意見交換。まずは二人組、まあまあの高評価だ。よし、上手くいった。心の中でガッツポーズをしながら視線をずらすと、あの鋭い視線がわたしを突き刺した。

「どう、だった?」

 恐る恐る訊いてみると、より冷たい瞳で彼女は答えた。


「あなた、全然大したことないのね」


 わたしの口から思わず「えっ」という声が零れてしまう。

「無名の生徒が選ばれたって言うから少し気になってたんだけど、全くの期待外れね。本当に選抜かどうか疑うレベルだわ。高音はお粗末だし、全体的に薄っぺらいし、何より歌が響いて来ない。歌手として致命傷ね」

「そこまで言わなくても……」

 お嬢様口調でひたすらわたしのパフォーマンスにダメ出しをする彼女。そこまで酷かっただろうか。


 でも、不思議と落ち込むという感情は弱かった。それよりも対抗心がわたしの中で燃え上がる。そっちがその気なら、わたしも散々痛いところを突いてやろう。普段は見せないギラリと光らせた、真剣な眼差しでヒョウ柄の彼女を見つめる。

「私の名前は梨田なしだマユ。未来のトップアーティストよ」

 薄らと笑みを浮かべてそう告げると、梨田マユは歌い始めた。さて、どんな短所を指摘してやろうか……そう意気込んだ瞬間、その歌声はわたしの脳に、心に、全身に鳴り響いた。

「なに、これ……」

 歌い出しからいきなり度肝を抜かれ、目の前が真っ白に染まる感覚に襲われる。彼女の歌はサビへと差し掛かろうとしているというのに、乱れる鼓動は一向に収まる気配がない。


 気が付くと、一番が終わっていた。ようやく脳が機能し始め、なんとか分析できるようになってきたようだ。抑揚、リズム感、世界観、どれも文句の付けようがない。さらに、特筆すべきはファルセット。恐ろしく美しく透明で、凍てつくような、はたまた澄み切った青空のような、思いのまま操る様子は圧巻だった。


 圧倒的――まさか彼女の実力がこれほどとは。


 歌い終わった梨田マユは小さく一息つくと、澄ました顔で顔を上げた。

「さて、意見交換に入りましょうか」

 わたしたち三人は、それぞれ良かった箇所を挙げていく。

「じゃあ次は改善点ね……あら、一つもないのかしら。それじゃあ私の練習にならないのだけど」

 何も言えず押し黙る三人に向かって、彼女は不敵な笑みを浮かべている。完全に舐められているのが分かった。が、わたしの今の実力では、あの歌声に指摘する点を見出すことはできなかった。歯ぎしりするほど悔しいが、レベルが違いすぎる――すぐには埋まらない実力差を目の当たりにして、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。


「はーいこれで全員終わったなー。じゃあ今日のところはこれで終わりにするから、各自プリントを提出してから帰るように。お疲れ様でしたー」

 ボンバーが挨拶を終えると、ぞろぞろと帰り支度を始める生徒たち。だけど、わたしはまだ心が落ち着かず、その場から動くことができずにいた。放心したまま独り立ち尽くしていると、目の前にヒョウ柄のリストバンドが現れた。

「精々足を引っ張らないよう、がんばることね」

「ま、負けないからっ……!」

 なんとか絞り出した声に反応もせず、さっさと彼女は教室から消えていってしまった。

 本当にあんなのと張り合えるのだろうか――わたしの心を支配した感情は、不安よりも恐怖や絶望に近いように感じたのだった。



 いつもの帰り道。とぼとぼと一人で歩く。

「今日は、疲れたな」

 見上げると、わたしの疲れ切った心を嘲笑あざわらうかのような、雲ひとつない夜空が広がっていた。瞬く星々は、手の届かない遙か遠くで輝いている。広大な宇宙に思いを馳せうんざりしていると、ポケットの中が激しく振動した。

「もしもし」

「あ、おつかれマナカ。もう練習終わったのか?」

 気だるげに電話に応答すると、佐々木くんの声が聞こえてきた。

「うん、今日はもう終わったよ。すごい疲れたけど」

「あはは、確かに疲れた声してるもんな」

「笑い事じゃないよ、本当に大変だったんだから」

「ごめんごめん。それはそうとさ、明後日の土曜日空いてる?」

「え、明後日? 確か……うん、空いてるよ」

「そうか、なら良かった。じゃあさ、ちょっと出かけようよ」

「え、どこに?」

 唐突な提案に、こういった経験がないわたしは思わず立ち止まる。一体どこへ行くんだろう。

「ほら、前にも言ったろ。昔俺たちが遊んだ所を回ろうって。そしたら記憶が戻るかもしれないしさ。嫌かな?」

「ううん、行くよ」

 なんでもいいから、今はとりあえず歌から離れたい。どこかで緊張の糸を緩めなければ、そろそろ本当に切れてしまう。そう感じていたわたしは、彼の誘いを受け入れることにした。

「おお本当か! じゃあ明後日の朝九時に高校の正門前集合ってことでよろしくな!」

「うん、それじゃ」

 そう言って電話を切ると、再びの静寂が広がる。五月の夜。さっきまでより疲れが和らいだ気がした。

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