九曲目 春夏秋冬②

「よし、ここが次の思い出の地だ」

「ただの山、だね」

 次の聖地に到着した。が、そこにあったのは単なる山でしかなかった。


「この山は一番思い出深いな」

「こんな所が?」

「ああ、虫を採ったり、かくれんぼとか追いかけっこをしたりしたよ」

 さっきから言っているように、幼き頃のわたしは相当のアウトドア派だったようだ。きっと毎日泥だらけになって野山を駆けずり回っていたことだろう。

「ちょっと徘徊していこうぜ」

 一応は整備されているらしい山道は、揺れる木漏れ日で彩られていた。小鳥のさえずりや、虫の鳴き声がそこかしこから聞こえてくる。隣を歩く影も楽しそうに揺れていた。ハープの聞こえてきそうな森の、生きる姿を肌で感じながら歩いた。



「あの白いのがナズナで、あっちの小さいのはカタバミだな」

「へえ、植物詳しいんだね」

「この辺りは庭みたいなものだからな。二人で図鑑持って歩き回った時期もあったくらいだし」

「じゃあ、わたしも植物詳しかったのかも」

 時間も忘れて、夢中で森を観察した。ありとあらゆる草木が生い茂るこの山は、見ていて飽きないのだ。そこまで植物に関心がないわたしでも心躍る、自然の宝庫といったところだろう。

「おっと、いつの間にか結構奥まで来ちゃったな。そろそろ戻るか」

 そう言って来た道を戻ろうとしたその時、額に冷たい感覚が走った。

「雨、降ってきちゃったよ」

「困ったな、酷くならないうちに急いで戻ろう」


 どうやら植物観察に没頭していたおかげで、真っ黒な雲が空を覆っていることに気が付かなかったようだ。わたしたちは足早に山を下ったが、雨はあっという間に本降りになった。

「今日雨降るなんて言ってたか?」

「天気予報は終日快晴って言ってたはずだよ」

「じゃあ、傘なんて持ってないよな……」

 いよいよ何か凌ぐものがなくては苦しい強さにまで、激しく降る雨。雨の森もそれはそれで美しかったが、そんなことを言っている場合ではなさそうだ。

「このままじゃあ麓まで行くのは大変そうだな」

 一度木陰で立ち止まり、考え込む。何か手はないかと考えを巡らせていると、何かを思い出したように彼は顔を上げた。

「そうだ、ちょうど良い所があるぞ! どうして今まで忘れていたんだ。よし、行こう」

「えっ、ちょっと待って――」


 いまいち状況を飲み込めないわたしの手を掴んで、突然走り出した彼。しかも麓とは違う方向に。訳の分からないまま五分ほど行くと、洞穴のようになっている所に出た。


「まだちゃんと残ってたか。ここに入ってしばらく様子を見よう」

 暗いながらも、高さ、広さ共に十分なスペースがある。ここなら雨風を凌げそうだ。幸い、地面も濡れていない。服に付いた水滴を払いながら、二人はその場に座り込んだ。

「よくこんな所知ってたね」

「ここはな、昔俺たちが秘密基地にしてた場所だ」

「秘密基地?」

「ああ、別荘みたいなもんだな。もちろん寝泊まりまではしなかったけど、森にあるものでイスとか机とか、がんばって作ったこともあったなあ」


 秘密基地、そんなものまであったのか――ふと感心したその時、何かが脳裏で光るように、衝撃が走った。

「うっ……!」

「ど、どうしたマナカ!」

 思わず頭を押さえながら、身体を丸めた。

「何か、何か昔にも、こんなことが……」

「何か思い出したのか?」

 慌てて近寄って来る佐々木くんを横目に、異変の原因を探り出す。何か、昔にもこんなことが、あったんだっけ――だけど、あと一歩の所で実態が掴めない。真相に近づきそうになると、激しいノイズが邪魔をする。記憶とのせめぎ合いを繰り返していると、徐々に気分が落ち着き、とうとう記憶の足取りは掴めなくなってしまった。


「もう、大丈夫か?」

「うん、大分落ち着いた。でも……」

 もう一度思い出そうとしてみても、やはり何も収穫はなかった。

「でも、あと少しだったのに結局何も思い出せなかったね。せっかく今日は来たのに、ごめん」

 さっきのあれはなんだったのか、というのはもちろん気になる。だけど、今日の目標を果たせず尽力してくれた佐々木くんに申し訳ない気持ちの方が、今は優勢だった。

「そんなことないよ。むしろ俺の方こそ、ごめん。第一、記憶がそんな簡単に戻るはずもないのに、一日中変なプレッシャー感じさせちゃってたよな」

 黙り込む二人。洞穴の中に、気まずい雰囲気が流れる。わたしもそんなことないよと言いたい。だけど、少々混乱していたせいで、完全にタイミングを見失ってしまった。ごめんと口にしかけては言い淀み、小さく溜め息を吐いた。


 そのまま十分ほどが過ぎた。外の雨は依然として降り続いている。雨音だけが大きく鳴り響く、薄暗い静寂。どのタイミングで切り出そうか四苦八苦していると、佐々木くんの方が徐に話し始めた。

「今日のさ、目的って覚えてるか?」

「わたしの記憶探し、だよね」

「うん、そうだな。だけど、本当はそんなのおまけでしかなかったんだよ」

「それって、どういう……」

「失った記憶を取り戻すことが大変だってこと、本当は分かってたんだ。本当に戻るのかだって分からない、一生このままなこともあるってことも」


 確かに医師には言われた。一般的には記憶喪失、正式名称は全生活史健忘。自分の生い立ちなど、発症以前の記憶を何から何まで失ってしまう、というものだ。事故直後の記憶も失っていたが、それに関してはすぐに回復した。この症状の場合比較的素早く回復することが多いのだが、わたしの場合はレアケースで、一向に事故以前の記憶が回復する気配はなかった。定期的に病院へは通っているが、依然医師の頭を悩ませる状況に変わりはない。回復の目処は立たないまま、今に至っている。


「だけど、ずっと気落ちしてても仕方ないと思ってな。過去が戻らないなら、未来を作ればいいって。マナカともう一度、友達からやり直そうって思って今日は誘ったんだ。だから、記憶探しってのはおまけで、単なる口実だ」

 佐々木くんは、遠くを見つめながらそう話した。まるで過去でも見ているかのように。優しい目だった。

 ずっと過去に囚われてきた。ありもしないものに、ずっと振り回されてきた。だから、出来るだけ考えないようにしてきた。執着するのを、止めていた。

 だけど、それももう、終わり。


 ――過去が戻らないなら、未来を作ればいい。


 佐々木くんは、そう言った。ありきたりでキザで恥ずかしいけれど、今のわたしにはその言葉がどうしようもなく愛おしい。

 事故当時はそんなこと考えられなかったけど、今は違う。だってわたしの隣には家族がいて、セリちゃんがいて、そして――佐々木くんがいるから。

 みんながいてくれて、大切な人が隣で支えてくれているから、今のわたしは未来を、前を見ることが出来る。それに気付かせてくれたのは、紛れもなく彼だった。


 大切な言葉を、噛みしめるように心の中で何度も何度も繰り返す。その度に、胸が熱くなるのを感じた。もう、独りじゃないんだ。心からそう思えて、ただただ嬉しかった。

「今日ね、わたしも、すごい楽しかった。こんなの久しぶりだった。最近は色々あって塞ぎ込むことも多かったけど、少し心に余裕が持てたよ。佐々木くんのおかげ――ありがとう」

 ようやく口にできた言葉は、感謝の気持ち。「ありがとう」なんて自然に言えたのは、初めてのことだった。

 佐々木くんが優しい笑顔をわたしに向ける。わたしはその表情を、脳裏にしっかりと刻み込む。こうして新たな記憶を紡いでいく。もう外の雨音も、葉が擦れる音も、何も聞こえない。そこには確かに、二人だけの空間が広がっていた。



 それからどれくらい経っただろうか――いや、実際は十分も経っていないだろう。だけど、わたしには時が止まっているかの如く、ゆったりとした時間が流れていた。もう互いの顔は見ていない。わたしはただ遠くの空を見つめている。きっと、彼も。さっきと同じ、薄暗い静寂。だけど、そこに気まずさはなかった。この静寂を、景色を、鼓動を、わたしは噛みしめる。この時間が永遠に続けばいいのにと、そう思った。だけどやっぱり、永遠なんてものはこの世にはなかった。


「お、雨上がったな」

「意外と早かったね」

 雨はどうやらにわか雨だったようだ。陽は射さないまでも雨は既にあがっている。


 もう、行かなくちゃ。そう自分に言い聞かせ、重い腰をなんとか持ち上げる。前を向くと、彼は既に洞穴の外へと出ていた。

「雨も止んだし、そろそろ帰るか。もういい時間だしな」

 そう言われて腕に視線を落とすと、針は四時半を指していた。確か最後のバスが六時に出発だったから、もう行かなければならない。

「雨で泥濘ぬかるんでるから、足下気を付けてな」

「ありがと。佐々木くんって案外優しいんだね」

「案外は余計だよ。それとさ、ちょっと提案なんだけど」

「なに?」

「その『佐々木くん』って呼び方さ、止めないか?」

「え、じゃあ何て呼べば……」

「ま、まあ『太一くん』とかか?」

 気付かれないようにちらりと横を見ると、心なしか頬が赤らんでいるように見えた。一日中無邪気に遊んでいたのに、急に照れるんだから。ここは余裕を持って対応してやろう。

「で、でもなんか恥ずかしいし……」

 敢えなく失敗。照れているのはわたしも同じだった。気を紛らわそうと髪を耳にかける。と、その時だった。

「きゃっ!」

 注意を怠った途端、身体が宙に舞った。緩んだ地面で足を滑らせたのだ。しまった、と思った時にはもう時既に遅し。わたしは尻餅をついて泥まみれに――なっていなかった。


「あ、あれっ?」

 何が起きたのか。視界は傾いていて、背中には何か棒状のような感触。そしてすぐ横には――佐々木くんの顔があった。

「マナカ、大丈夫か!?」

 どうやら佐々木くんが間一髪助けてくれたようだった。わたしの背中を腕で支えてくれている。

「う、うん。でも、ちょっと近いよ」

「あっ! ごめん」

「ううん、ありがと……」

 その体勢は半ばお姫様だっこのようになってしまっていた。互いに慌てて目を逸らす。途端に暴れる鼓動。聞こえていないだろうかと心配になるほどに、制御が効かなくなっていた。再び歩き出したが、気まずい雰囲気は依然として続いた。



「あの、やっぱりさ、呼び方そのままでいいや」

 気持ちが落ち着いてきた頃に、唐突に佐々木くんが話し出す。頬はやっぱり紅潮したままだ。

「なんで?」

「なんか急に、俺も恥ずかしくなってきたから……」

「……ふふっ、あはは!」

「な、なんで笑うんだよ!」

 結局照れている彼を見ていたら、なんだか今度は急に笑いが込み上げてきた。つい調子に乗って、柄にもなくからかいたくなってくる。

「じゃあ、やっぱりって呼ぼうか?」

「い、いいって! 恥ずかしいから!」

「冗談だって、冗談!」

 さらに照れる顔を見ると、なおさら笑いが止まらなかった。一応注釈しておくと、今度は転ばないように気を付けながら。


「本当、勘弁してくれよなあ……。だけど、マナカがこんな風に笑うなんて久しぶりだな」

 彼の不意を突いた一言に、思わず我に返った。確かに、そう言われてみれば。人前でこんなに笑ったのは久しぶりのことだ。というより初めてのことだった。今度はわたしが呆気にとられた顔をして、佐々木くんに笑われた。

「なんていうかさ、またその笑顔が見られて嬉しいよ。やっぱりマナカはマナカなんだって、改めて思えたっていうかさ」

「なにそれ、変なの」

 やっぱり彼と一緒にいると調子が狂う。気を付けないと醜態を晒してキャラ崩壊、なんてことになりかねない。なんて前も思ってたっけ。でも今は、それでもいいかなと思える。だって今、笑った方が楽しいと分かったから。そんなの当たり前だと思われるかもしれないけど、心置きなく笑ったことがないわたしにはこれまで気が付くことができなかった。この人と一緒にいるのも悪くない。佐々木くん、ありがとう。そう改めて心の中で呟いた。



 山を下り、木々の間を抜け、田園の中を進み、ようやくバス停まで辿り着いた。曇っているから分からないけど、いつもならもう夕焼けが輝いている時間だろう。バスが来るまでにあと三十分弱ほどある。幸いバス停にはベンチがあったから、共にクタクタだったわたしたちは座って待つことにした。

 いつも通りの二人に、いつもよりも少し打ち解けた空気が流れる。今はすごく居心地が良い。共通の思い出で満たされているからだろうと、勝手に思った。


 しばらく感傷に浸っていると、突然佐々木くんがその場に立ち上がった。

「最後にもう一度だけ、訊いてもいいか」

「いいけど……何?」

「本当に何も思い出せないか?」

「うん、全く。でも何で?」

「い、いや! 覚えてないならそれでいいんだ! 変なこと訊いてごめんな!」

 何か、違和感を感じる。明らかに無理をしているような、本音はそうじゃないような、そんな違和感。気になって問い詰めようとすると、本日の最終バスが到着した。

「お、やっと来たな。さあ乗ろうぜ」

 そう急かされて足早にバスに乗り込む。バスが発進すると、小刻みに揺られる心地よさと、今日一日の疲労とですっかり眠ってしまった。


 バスを降りてから彼は家まで送ってくれたが、その間もひたすら話を逸らされてしまった。ここまでかたくななら仕方ない。この話の真相は潔く諦めることにして、後で代わりに楽しかった今日一日を振り返るとしよう。

「今日は付き合ってくれてありがとな。また時間あったら行こう」

「ううん、わたしの方こそありがとう。思ってた何倍も楽しかったよ」

 こうして、色々あったけど長くて素敵なわたしの一日は幕を閉じた。お互い「それじゃ」と別れを告げて、佐々木くんが歩き出す。その背中が小さくなって見えなくなるまで、目を離さずに眺めた。


「よし、明日からも頑張ろっと」

 わたしはそう小さく呟いて、再び始まる激動の日々へと船を漕ぎ出した。

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