十六曲目 オレンジ①
「はあっはあっはあっ…………」
市民会館を飛び出してから、どれくらい走っただろう。
行く当てもなく彷徨い、涙も涸れ、身体はフラフラだった。
自分には、歌う才能がない――そんな死亡宣告にも等しい言葉から逃げたかった。だけど、言うまでもないが逃れられるはずもないし、逃げたところで何も解決はしない。そんなことは分かっていた。
さっきのマユちゃんの言葉を思い出した。
『谷川さんとの練習をチラッと見たときには、可能性を感じたのだけれど』
彼女は確かにそう言った。つまり、普段の練習よりも、セリちゃんと二人の時の方が良い、と。
さらに、セリちゃんと仲直りをした朝の、彼女の言葉が
『マナちゃんの方が楽しそうに、心に響く歌を歌ってた。少なくとも、今の私だけはそう思ってる』
無意識かわざとかは分からないが、私だけはと言った。みんなの前じゃなくて、セリちゃんの前だけ。
結局、心を開いたセリちゃんの前でしか、自分の本当の歌声を披露することは出来なかったということなんだろう。
この先、わたしが心を許す相手が出てくるかもしれない。だけど、それも精々数人止まり。世界中の何百万人という人たちには、わたしの声は響かない。それでは歌手になる意味が全くない。
もう、終わりだと思った。どうしようもない虚無感が全身を襲う。
だって、どんな人にも心を開くなんて、閉じこもった今のわたしには到底できない。せめて、明るかったという事故前のわたしだったら……なんて考えたけど、そんなのは虚しくなるだけだった。
随分と走った。もう、ヘトヘトだ。たった一人で、周りなんて見ずにトボトボ歩く。夏の陽は既に傾き始めていた。
もう歌手にはなれない。もう歌手にはなれない、もう歌手にはなれない……考えないようにすればするほど、頭の中をぐるぐると回って離れない。
もう全て出し切って空っぽのはずなのに、一旦涸れた涙がまた溢れだした。
「もう、嫌だよ……」
両手で顔を覆いながら、へなへなとその場に座り込んだ。もう、何も抑えられなかった。
すると、ポケットの中からスマートフォンが滑り落ちてしまった。
「あっ、いけない……」
拾い上げて、ふと画面を見る。そこには大量の着信が来ていた。
「みんな、わたしを探してるんだ……」
徐に機械を操作する。やがて、無意識のうちに一人の番号にコールしていた。
「……もしもしマナカか!? 今どこだ!?」
「佐々木くん……っ! わたし、もう、ダメかもしれない……」
「落ち着いて、今いる場所を教えてくれ!」
「分かんないよ……夢中で走ってたら、ここに来ちゃったの……」
「周りの景色だけでもいい! とにかく今見えるものを教えてくれ」
「えっと……周りは田んぼばっかで……って、あれ?」
何かおかしい。画面を見てみると、真っ暗で何も映し出されていなかった。こんな時に、充電が切れたのか。
結局、今の場所を伝えられなかった。
……もう、いいよね。このままどこか遠くにでも行っちゃえば。生きる意味を失ったんだから、何もかも捨てて、いなくなっちゃえば良いんだよね。ベンチでしばらく休んだら、もう、どこか知らないところへ……
「……やっぱり、ここにいたのか」
それからどれくらい経っただろう。多分、十分と経っていないだろうけど、随分と長く
だけど突然、彼は現れた。颯爽と、それはまるで王子様のように。
「ほら、もう帰ろう」
「どうしてここが、分かったの?」
確かにさっきは、場所を伝える前にスマートフォンの電源が切れてしまったはずだった。だけど、佐々木くんはここに現れた。
「何となくな、そんな気がしたんだ」
いつになく真面目な顔で、ゆっくりと話す。
「夢中で走ってたらここに来た、って言ったろ。だから、この近くで自然に来ちゃう所って言ったら、ここかなって」
「え、ここが……?」
「なんだ、気が付いてなかったのか。周りを見たら分かると思うぞ」
そう言われて顔を上げると、確かに見たことのある景色が広がっていた。どうしてこれまで気が付かなかったのか。
広がる田園風景、その中にポツンと立つ屋根付きのベンチ、わたしが今いるバス停は、二ヶ月前にも訪れた故郷のものだった。
周りには誰もいない。文字通り、二人だけの空間が広がる。それが心地良く、同時に今は避けたくもあった。
佐々木くんと一緒にいると、また頑張ろうという気が湧いてくるかもしれない。だけど、今はそれじゃ嫌だった。このままさらっと切り替えられても、何も変われない。そして何より、あんなことを言われた後すぐに立ち上がるなんて、傷が浅いようで、夢が軽いようで、嫌だった。
「……今日、ステージの後、何があったんだ?」
「それは……」
自分の口からは絶対に言いたくない現実。だけど、事実なんだから仕方ない。少し躊躇った後、起こったことをありのままに伝えた。
「……歌手にはなれないってね、言われたの」
言った。口にしたらまた、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。だけど、それを必死に押し留める。
「そんなの分からないじゃないか。気にする必要ないよ」
「気にするよ。だって、プロのスカウトマンに言われたんだよ」
「そんなに簡単に諦められる夢じゃないだろ」
「そうだけど……っ! 今日は絶好調のはずだった、万全のつもりだった。でも、ダメだった。しかも、何も伝わって来ないって。わたしみたいに心を閉ざした奴の声は響かないって」
違う、こうじゃない。こんなことを言いたいんじゃない。
「俺はまだ、歌ってるマナカが見たいよ」
「無理だよ……もう歌えない」
違うんだよ。言いたいことは、こんなんじゃなくて――心の底では、本当は『諦めたくない』と思っている。だけど、口を衝いて出る言葉は、どれも後ろ向きなものばかり。そんな自分もまた、どうしようもなく嫌だった。
「……そっか。そうだよな、そんなすぐには前向けないよな、ごめん」
熱くなりかけた雰囲気を、冷静になった佐々木くんが落ち着かせる。
「だけど、ゆっくり休んでみんなと話せば、また考えも変わってくると思う。だから、もう帰ろう」
「今は、やだ」
なだめる彼の言葉を、即答で一蹴する。今は帰りたくなかった。
「どうしてそんなに、帰りたくないんだよ」
「だって、だって今帰っちゃったら、支えてくれる人たちを、きっと傷付けるから」
「傷付ける、って?」
「今のわたしの言葉を聞いたら、きっと応援してくれてる人たちを、失望させちゃうと思うから」
こんな弱くて情けない言葉を聞かされたら、きっと誰も応援したくなくなる。それだけじゃなくて、折角応援してきたのに……と、がっかりさせてしまうはずだ。そうなることが、怖かった。
「俺なら、傷付けていいよ」
「……ダメだよ」
「それに、それが傷になるとは限らない。もしかしたら、マナカの言葉に対して俺が怒るかもしれないし、それでマナカを怒らせるかもしれない。だけど、それは悪いことなんかじゃないんだよ。本音で、ありのままの気持ちを口にしないと、前に進まないことだってあるんだよ――だから、なんでも話してくれ」
佐々木くんは、真剣だった。こんなわたしに対しても、まっすぐだった。それが、嬉しかった。
「……じゃあ、話すね」
「ああ、頼む」
わたしが言いたい言葉は、ひとつだった。その言葉が誰かを悲しませると分かっていても、言わずにはいられなかった。
「わたしね、昔、歌に命を救われたの。だから、わたしもそんな歌を歌いたかった。誰かを救いたかった。だけど、わたしなんかにそんなこと出来やしないって、分かった。だから、もう、辞めたい」
本心ではない。だけど、この気持ちがあるのもまた事実だ。むしろ今は、ついこの考えが弱い心を支配してしまう。
辞めたくないのに、辞めたい――そんな矛盾した感情が、自分の中に渦巻いていた。感情は複雑だった。
「俺は、辞めてほしくはないし、辞めるべきでもないと思ってる」
その言葉の語気は強く、心なしか怒っているようにも感じた。
「でも、もうダメなんだよ……限界なんだよ」
「俺はそうは思わない! 俺はこれからもマナカの歌声が聴きたいんだよ!」
「嘘だ! そんな風に思ってないくせに!」
思わず立ち上がる。こんな口論はしたくない、今すぐにでもここから逃げ去りたかった。
「嘘なんかじゃない! 本当に思ってるから言ってるんだ!」
「そんなわけないじゃん! わたしに歌う価値なんかないんだよ! だってわたしなんかの歌は、誰の心にも届いてないんだからっ!!」
もう限界だった。もう歪む彼の顔が見たくなくて、叫びながら背を向けた時――
「そんなことないっ!!」
「えっ――」
張り裂けんばかりの大声に、思わず振り返る。そこには、今にも泣き出しそうで、悔しそうに歯を食いしばる彼の姿があった。
「そんなことない……だって現に俺は、マナカのその歌に救われたんだから」
「どういう、こと?」
「俺は再会した時、マナカがまた歌手を目指していて、歌が好きでいてくれて、嬉しかった。その歌声をまた聴けて救われたんだ」
「何を、言って――うっ……!」
また、この感覚――前にもあった、確か、故郷巡りをした、秘密基地の中と同じ。何か、記憶の手がかりが掴めそうな感覚。脳内をノイズが駆け巡り始める。佐々木くんは気が付いていないようだった。
「よく知らないけど、あのセリナちゃんって子も多分同じ気持ちだ。プロなんか目指さなくても、俺は構わない。でも歌う価値がないだとか、そんな否定の仕方はして欲しくないんだ。マナカの歌に救われた人だっている。マナカの歌声を聴いてがんばろうって思えた人が、今は少しかもしれないけど、必ずいるんだ」
茜色に染まる空。その朱が濃くなるに連れて、ノイズのうねりは激しさを増し、けたたましい音をかき鳴らしていた。
佐々木くんの声は、辛うじて届いている。
「だから……だから! 自分の歌が嫌いだなんて、それだけは言って欲しくない!」
そして、無秩序に飛び回っていたノイズが、やがて帯状に纏まり始めた。
それはまるで、映画のフィルムのように。
フィルムのコマ、そのひとつひとつには、わたしが
急速に戻り始める、記憶の欠片たち――真っ暗闇の中に浮かび上がる、モノクロで不鮮明な映像が、やがて色づき始める。無数に散りばめられた映像は次々と繋がり、記憶としてわたしの中に定着していく。
そして、ほとんどのピースが揃ったようだった。
だけど、何かが足りない。まだ、まだ何かが引っかかっている。この記憶は完全じゃない。
前を見ると、佐々木くんが何かを言おうとしている。頬を赤らめて、口をもごもご動かして、何かを。そして、意を決したように、叫んだ。
「俺はずっと、大人になっても、マナカの一番近くで、マナカの歌声が聴いていたいんだっ!!」
その瞬間――一筋の夕日が背中に差し込み、わたしたちを包み込んだ時――
「うっ……!!」
これまでで一番強い波が寄せた。時は止まり、周りの音は消えていた。今度はノイズではなく、色鮮やかな映像が、脳裏に映し出されている。
これは――今と、全く同じ景色。だけど、目の前に立っているのは高校生ではなく、小学生の男の子だった。さらに、わたしのすぐ横に女の子がひとり立っている。
その男の子もまた、こちらに向かって叫んでいた。
「マナカ! 引っ越しても俺のこと忘れたりするなよ!」
「忘れるわけないじゃん! そっちこそ忘れたら許さないから!」
この声は――わたし、だろうか。どうやら、小学生の頃のわたしたちを見ているらしい。フラッシュバックというやつだろうか。
「絶対歌手になれよ!」
「分かってるって! 任せといて!」
約束を交わす二人。そこに、オレンジ色のバスがやって来る。
引っ越しの時のようで、わたしがバスに乗り込もうとした時だった。
わたしたちを眩い夕日が包み込む中、男の子は言った。
「……マナカ! 俺はお前のことが大好きだっ!」
一瞬驚いて、それからすぐに嬉しそうに微笑んだわたし。そのままバスに乗り込み、二人は別れた。わたしの返事は、男の子には聞こえていなかった。
そこで映像は終わった。
意識が現実に戻る。不思議と、記憶を完全に取り戻した違和感はなかった。もうずっと持っていたような、そんな感覚。
時は止まり、音は何も聞こえない。目の前には、こちらを怪訝な顔で見つめる男の子がひとり、立っているだけ。
わたしも、じっと見つめる。ただただ、その姿を目に焼き付けた。
そして、頬に一滴の涙が伝いながら、わたしは満面の笑みで言った。
「ただいま、太一……!」
零れ落ちた滴は、本当の再会を果たした二人を映し出し、オレンジ色に輝いていた。
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