五曲目 My Best Friend①

 心臓が激しく波を打つ。わたしはついに運命の日を迎えた。

 ゴールデンウィーク最終日のヴォーカルスクールの教室。


 ついに今日、「レッツグルーブ!」の選抜メンバーが発表されるのだ。


 そのことを考えれば考えるほど不安になってくる。大丈夫かな、ちゃんとアピールしてこられたかな。

 周りを見渡せば、自信に満ちあふれた表情の子、淡々とストレッチをする子、気を紛らわそうとしているのか大きな声でおしゃべりをする子と、いろんなスクール生の子たちがいる。

 だけど、今全員の心の中にあるモノはきっと同じだろう。


 ――自分こそが絶対にメンバーに選ばれてやる。


 そのぎらぎらした気持ちだけはひしひしと伝わってくる。

 もちろんわたしもだ。だけど、どうしてもやっぱり不安になってしまう。


 さっきから心の中では「選抜、大丈夫かなあ。でもやれることはやってきたし、きっと大丈夫だよね。でもやっぱり……」という行ったり来たりの繰り返しである。

 そんな思考の迷路に迷い込みそうになった時、後ろから元気な声が届いた。

「あっいたいた、マナちゃーん!」

 その元気な声の主は、やっぱりわたしの数少ない友達である、彼女だった。

「あ、セリちゃんおはよう」

「おはよー。いよいよ選抜発表だね!」

「うん、もう心臓ばくばくだよ。不安と期待でおかしくなりそう」

「マナちゃんなら大丈夫だよ! あんなに頑張ってたんだし!」

「そう、かな。ありがとう、そうだといいな」

 セリちゃんはいつだってわたしを励ましてくれる。これまで彼女のことばに何度救われてきたことか。

 今だってそうだ。不安に押しつぶされそうになっていたわたしの心に、優しく暖かな光を、彼女は与えてくれた。


 うん、そうだよね。きっと大丈夫。セリちゃんの言うとおり、わたしはこの2週間精一杯頑張ってきたんだから。


 

 ――「はい、じゃあ最後は岡本さんね」

「はい」

 選抜メンバー発表を1週間後に控えたある日、は訪れた。

 例のえらい先生がわたしたちのレッスンを見学しに来たのだ。

 待ちに待った千載一遇のこのチャンス、絶対に逃すわけにはいかない。


 いつものように、鏡の前まで歩き振り返る。

 一度ゆっくり深呼吸。そしてゆっくり目を開ける。

 静かに見つめるスクール生たち。その先から刺さる先生たちの熱い視線。


 それらも全て自分の力にして、心を込めて歌い出す。

 課題曲は今日もまた、ゆったりとしたバラードだ。

 スーッと息を吸い込み、ゆっくりと下腹に力を込める。

 よし、今日は落ち着いて歌い出せた。

 だけど、背中がぞわぞわする。なるほど、これが武者震いってやつか。


 そのまま慎重に歌声を紡いでいく。歌声が部屋中に反響する感覚が、心地良い。

 そしてサビへ。

 バラードは曲調こそ静かだが、歌声まで静かにしては人々の心に響かない。

 サビでは熱く、それがわたしのポリシーだ。


「ふうー……」

 終わった。歌い終わった。自分の歌声はどうだっただろうか。先生たちのお眼鏡に適うことはできただろうか。

 一抹の不安を抱えたまま軽く一礼して顔を上げると、先生と目が合ってしまった。

 ドキッとしたわたしを見て、小さく頷いてほほえむ先生。

 結構、好感触だった? もしかして、もしかするかも?


 さっきまでの不安が徐々に晴れていく気がした。

 自分としてはかなりの上出来だ。実力以上のものが出せたかもしれないと思えるほどに。


 そしてわたしは、その日の出来に満足することなく努力とアピールを続けてきたのである。



 そうだ、やれることはやってきたんだもん。果報は寝て待て、あとは結果を待つだけだ。

 これまでの1週間に思いを馳せたわたしは、身体に自信が漲るのを感じた。

「マナちゃん、面談、そろそろ始まるみたいだよ。どきどきしてきたね~!」


 面談、それは面談という名のメンバー選考の結果発表。

 呼ばれた順番に一人ずつ、担当の先生と面談をする。そこでミニライブ参加への合否と、先生たちからの批評、つまりアドバイスをもらう、というわけだ。


「やっぱり緊張するね」

「さっきも言ったけど、マナちゃんなら大丈夫だって!」

「ありがとう、セリちゃん。それでね、野暮なこと聞くようで悪いんだけど……」

 わたしは真剣な眼差しで、セリちゃんを見つめる。

「セリちゃんは合格してる自信、ある?」

 別に自分の合格を確信してこんな質問をしているわけではない。ましてや友達の合格を疑っているわけでもない。


 ただ、いつも明るくわたしを励ましてくれて、歌も人柄も自分のお手本である彼女には不安なんてないんだろうかと、そう思ってしまった。

 きっとそんなことないんだろうと心では分かっていても、どうしても訊かなくてはいけない気がした。


「自信なんて、ないよ。いっつも不安ばっかり。偉そうにマナちゃんのこと励ましたりしてるけど、ほんとは自分のことで精一杯なんだ、ごめんね」

 彼女にしては珍しく、弱々しくて力ない笑みを浮かべている。

 だけど、それも束の間。すぐにいつもの笑顔が戻った。

「だけどね、歌手になりたいって気持ちは誰にも負けてないつもりだよ。だからこそ明るく振る舞おうって思うんだ。だって、弱気のままじゃ夢なんて叶えられないし、心は曇ってても明るくしてれば自然と晴れ晴れした気分になるでしょ? それに、神様も前向きな人の方を助けたくなるかなーとかって!」


 ああ、そうだったんだ。あんなに元気な彼女でも、わたしと同じ気持ちをちゃんと抱えてたんだ。いつもと違う表情を見たときは少しドキッとしたけど、やっぱりセリちゃんは私のお手本だ。

 発表前で少しテンションが上がっているせいか、いつもは見えないことを話してくれて嬉しかった。

「そうだったんだね、気付いてあげられなくてごめん。わたしもこれからは出来るだけ明るく振る舞ってみるね」


「岡本さーん、次入って」

 会話が一段落したところで、タイミング良くわたしの名前が呼ばれた。

「それじゃ、行ってくるね」

「うん、また後で!」

 セリちゃんと別れて、先生の待つ部屋へと向かう。今の話を聞いた後だったからか、いつもよりも堂々と歩けている気がした。


 数十メートル歩いたところで立ち止まった。

 扉には「第3会議室」の文字。ここが面談を行うことになっている部屋だ。

 ひとつ大きく深呼吸をしてから扉をノックする。

「失礼します」

 部屋の中は暖色系の照明で明るかったが、身体が緊張で火照っているのだろうか、少しひんやりとしているように感じた。


 そのまま部屋の奥へ進んでいくと、先生に椅子に座るように言われた。

「それじゃあ早速、面談始めていきましょうか」

 いよいよ判決が下される。わたしにとって運命の判決。どんな結果も受け入れる覚悟でいたけど、いざその時を迎えてみると、やっぱり合格を期待してしまう。

「じゃあまず、岡本さんのパフォーマンスを見学した先生たちからのアドバイスね。あなたはきれいな歌声が評判だったわね。才能があるっていろんな先生が言ってたわ」

 いきなりの褒め言葉にたじろぎながらも、これは素直に嬉しい。手にじんわりと汗を掻いてはいるものの、少し緊張がほぐれてきたみたいだ。

「その反面、やっぱり声量が足りないのが気になるわね。普段も口数が多いわけではないんでしょう? サビにかけての抑揚も意識してたみたいだけど、どうしてもインパクトに欠けるっていう印象は拭いきれないわね。それは私だけじゃなくて他の先生も気にしていたことよ。今のままじゃプロとしてやっていくのは相当厳しいってところかしらね」

 と思ったらさっきとは打って変わって、怒濤のダメだしが始まった。アドバイスにおいて長所と短所を挙げるのは当然のことなんだろうけど、そんなことを冷静に考える余裕は今のわたしにはなかった。なにせいきなりとんでもなく上げて落とされた気分でいっぱいだったのだから。


 ああ、やばい。これは確実に不合格の流れだ。このあとの光景が目に浮かぶ。気持ちは諦めムードで盛大にうなだれながらも、話は最後まで聞くことにした。

「先生、じゃあわたしはやっぱり……」

「いいえ、結論から言うと岡本さん。おめでとう、あなたは合格よ」

「やっぱりそうですよね……え?」

「あなたには、選抜メンバーとしてミニライブに出てもらうわ」

 ええと、何かの聞き間違いだろうか。それともやっぱり夢だろうか。ともあれ何がどうなってこうなったのだろう。

「あの……どうしてわたしが合格なんですか?」

「ミニライブ、出たくなかった?」

「いえ、そういうことじゃなくて……」

 先生がふふっといたずらっぽく笑う。

「うそうそ、冗談よ。最初にも言ったけどあなたの歌声はとてもきれいだし、あなたの才能はどの先生も認めてる。だからこそもったいないと思ったのよ。それで、あなたの伸びしろに賭けてみようってことになって。本番でどれだけやれるのかも見てみたかったしね。あなたを選んだのはそういう理由よ」


「失礼しました」

 面談が終わった。会議室を出て無人の廊下を進む。いまいち焦点が定まらない。いろんな感情が渦巻いて、逆に何も考えられずにいた。

「わたし、合格したんだ」

「ミニライブに出られるんだ」

 ふと頭の中を整理するように独り言を呟くと、徐々にじわじわと実感が湧いてきて、身体に意識が戻る。

 わたしが、選抜としてミニライブに出られる――。

 もう一度そう考えたとき、突然ドクンと鼓動が跳ねた。途端に全身に血が通い、みるみるうちに熱くなっていく。

 わたしは今までに感じたことのない感覚に見舞われた。喜びと興奮で、今も立っているのがやっとなくらいだ。

 覚束ない足取りでフラフラと歩き、とりあえず小さなラウンジで休むことにした。

 とりあえず自動販売機で缶ジュースを買い、ほとぼりが冷めるのを待とう。


 そのままぼーっとしたまま数分が経過した。正直このときのことはほとんど何も覚えていない。というか、いろんなことが頭の中でぐちゃぐちゃだったせいで周りも見えてなかったし、思考もほとんど停止してたんだと思う。


 しばらくすると少し気分が落ち着いてきた。気付けば喉がカラカラになっている、結構息も上がってたみたいだし。ジュースをひとくち飲もうと顔を上げると、目の前の廊下を一人の女の子が歩いてくるのが見えた。

「あ、セリちゃん」

「あ、マナちゃん~」

 いつも通りの笑顔を見せる彼女。思わずわたしも笑みがこぼれてしまう。

「セリちゃん、どうだった?」

「う、うん、先にマナちゃん教えてよ~」

「え、わたし? わたしはね、合格だったよ」

 わたしらしくもなく、つい上擦った声を出してしまう。

「……そっか、よかったね! おめでとう!」

「セリちゃんも受かったんだよね?」

 なんだか歯切れが悪いのでつい訊いてしまった。まあわたしが受かったんだから、お手本の彼女が不合格なわけがない。そうに決まっていると、思っていた。

 すると彼女は少し項垂れながらも、弱々しい笑顔を携えながらこう告げた。

「えっとね……わたし、落ちちゃった」

「え……」

 突然の告白に思わず驚きの声がこぼれてしまった。


 嘘だ、そんなの嘘に決まってる。反射的にそう思ってしまった。

「ごめんね、マナちゃん。一緒には、出られなくなっちゃった」

 さっきまでの興奮が一気に冷めていく。わたしはあまりのショックに声も出ず、ただ呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。

「だから、私の分までライブ、がんばってね!」

 彼女の顔にはいつも通りの笑顔、だけど心なしかどこかぎこちなく、無理やり作ったものに見えた。そんなの当たり前か。この結果が悔しくないはずがない。

 だって、セリちゃんもわたしと同じくらい頑張ってたんだから。

「セリちゃん……」

「あ、私なら大丈夫だから気にしないで! そりゃあもちろん落ちちゃったことは悔しいけど、結果なんだから仕方ないし、もともとどんな結果だって受け入れる覚悟は出来てたんだから!」

 今の言葉は、多分嘘だ。だって、自分もそうだったから。その覚悟はしていたはずなのに、直前になって選抜メンバーから漏れることを恐れてしまったから。

「それにマナちゃんが合格したことの方が嬉しいし! だから、私は大丈夫だから……」

 そんなの嘘だよ、悔しい気持ちの方が強いに決まってる。突然声を詰まらせてしまったセリちゃんを慰めようと目線を上げて、わたしは一瞬固まってしまった。


 セリちゃんが泣いている――。


 いつも元気なあのセリちゃんの頬を、大粒の涙が一粒、二粒と零れていく。

「あ、あれ、なんだこれ……こんなつもりじゃなかったのに……マナちゃんの合格の方が嬉しいはずなのに……どうして私、泣いてるんだろ……」

 どうしよう……泣いてるセリちゃんなんて初めて見たから、どう声をかけたら良いか分からなくなってしまった。でも、いつも慰められてばかりなんだから、今はわたしが慰めなくちゃ。少しおろおろしながらも必死に考える。

 そしてわたしは、彼女を励ますことができるようにできるだけ明るい調子で声を掛けた。

「大丈夫だよセリちゃん。今回はたまたまダメだったけど、セリちゃんはすごい上手いんだし、次チャンスが来たときはきっと上手くいくよ」

 よし、自分なりに元気が出そうなことが言えたはずだ。これでやっと彼女の力になれた。


 それなりの手応えを感じていると、さっきまでの嗚咽が聞こえなくなった。どうやら泣き止んでくれたみたいだ。ホッと一息ついて安心していると、なんだか彼女がボソボソと言っている。

「つぎ……すって……つよ……」

「え? よく聞こえないんだけど……」

 何かを言っているようだけど、全然聞こえない。

 すると彼女は、わたしが質問した途端にキッと鋭い視線をわたしに向けた。

「次のチャンスっていつよ!」

 そうわたしに向かって叫んだ彼女は、さっきまで泣いていたことも忘れたように、いや、目はやっぱり涙目のまま、せきを切ったようにすごい剣幕で話し始めた。

「今回のチャンスを逃したら次はもう1年後なんだよ!? それに来年だけ出たってスカウトの目には止まらないって話だし」

 泣いている彼女に続きこれまた初めて見る彼女の姿に、圧倒されて何も言えなくなってしまう。

「だけどマナちゃんはいいよね、合格したし余裕そうで。どうせ嬉しさで私のことなんかどうでもいいとか思ってるんでしょ!」

「そんなわけないよ。それに来年のライブだけじゃチャンスがないとは限らない」

「その余裕そうな上から目線が癪だって言ってるの!」

 その言葉にはっとした。わたしは無意識のうちに彼女を、セリちゃんを傷つけてしまっていたんだ。


 申し訳なさと情けなさでいっぱいになって謝ろうとすると、彼女が自分を落ち着けるようにふーっと息を吐き出した。

「あのね、本当は私、歌手になりたいなんて思ってないのかも。なんていうか、って方が正しい感じ、なのかな。さっき先生にも言われちゃったよ。確かに上手いんだけど、決定的に何かが足りてない。そのせいで歌が響いて来ないって。だから、みんなよりも気持ちが弱いってことなのかも」

「でもセリちゃんは今、涙まで流して悔しがってるじゃん。なのに他の人より気持ちが弱いなんてことないよ」

「ううん、違うの。私はただ勝負に負けて悔しいだけなんだよ、きっと。負けず嫌いなだけ。それじゃダメなのも当然だよね」

 うっすらと自嘲的な笑みを浮かべる彼女に対して違和感を感じたが、敗北をなんとか正当化しないとどうにかなってしまいそうなのかもしれない。


 それよりもわたしは、一つのことが気になった。

「じゃあ、どうして歌手にの?」

 そう、彼女は確かにそう言った。ならなくちゃいけない、と。

 すると彼女は、言うのを躊躇うように口をもごもごさせた後、目を閉じて一つ深呼吸をして静かに目を開けた。


「私ね、人を殺したの」

 わたしは一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。

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