八曲目 春夏秋冬①
「ちょっと早く着き過ぎちゃったかなぁ」
左手首に着けたお気に入りの腕時計に目を落とすと、時刻はまだ予定の十五分前だった。
今日は久々に友達と出かける。最後はいつだっけ。およそ友達と呼べるのはセリちゃんくらいしかいないから、きっと最後のお出かけもセリちゃんとだったろう。
だけど、今日の相手はセリちゃんではない。しかも、女の子ですらない。その名前は佐々木太一、男だ。
もう一度言おう、男だ。このわたしが男の子と何処かへ出かけるなんてこと、一月前のわたしは思いもしなかっただろう。だけど、これは決してデートなんかではない。ただ一緒に出かけるだけだ。
「川でも眺めて心を落ち着けないと」と思いながらもいつになくソワソワしていると、遠くから小走りで向かってくる人影が見えた。
「おはよう、マナカ。早かったな」
予定の五分前にやってきた佐々木くんは、相変わらずへらへらしたした態度で挨拶をした。いや、訂正しよう。出会ったばかりの頃こそへらへらしているように見えたが、今の印象では「へらへら」というより「ニコニコ」の方が適切なように思う。きっと初めから彼は「ニコニコ」していたのだろうけど、わたしの歪んだ性格のせいで屈折して見えてしまっていたみたいだ。笑顔の形容の仕方ひとつで人の印象なんて大きく変わるから、佐々木くんには申し訳なかった、と心の中で小さく謝った。
「お、バスが来たぞ。これに乗っていこう」
三十分に一度しか来ないバスが、わたしたちの前に止まる。正門の前がちょうどバス停になっているから、それはこの学校の便利な所だ。ICカードをタッチして乗り込み、イスに座ると間もなくバスは発進した。
「ここから二十五分も走れば、目的地に到着だ」
「そうなんだ、意外と近いんだね」
「そうだなー。俺も三年ぶりだから楽しみだよ」
わたしが遭ったあの事故よりも後、中学校に上がるタイミングで彼も引っ越したらしい。わたしも恐らく五年ぶりくらいになるのだと思うけど、記憶がないから初めて行くようなものだった。
「あ、そういえばちゃんと言ったとおりの服装で来たな! ばっちりだ」
「うん、数少ない私服から選んできたよ」
昨日佐々木くんが教室に来たと思ったら、「動きやすい服装で来た方がいい、ショッピングに行くわけじゃないしな」とだけ伝えて帰ってしまった。確かにこれから行くところは山に囲まれた田舎の鑑のような場所らしいので、言われたとおり比較的身軽な格好を選んできた。Tシャツにパーカー、ジーンズにフラットシューズ、バッグはリュックサックと、これなら多少動いても問題はないはずだ。
「お、そろそろ目的地に近づいてきたな」
そう言われ車窓の外を眺めると、見渡す限りの田園風景が広がっていた。ちらほらと民家が建ち並んでいる所もある。
――ここでわたしは育ったのだろうか。
そう考えると、このどこかにわたしの知らないわたしがいるようで、不思議な感覚になった。失った記憶にさほど関心もないわたしだが、いざ故郷に来てみると、やっぱり昔のわたしが気になってしまう。ここでどんな日々を送っていたんだろう。どんなものが好きだったんだろう。みんなが言うように活発な性格だったんだろうか。
生憎今は持ち得ない過去を想像していると、あっという間に到着した。
「……田んぼばっかだね」
「まあここは田舎だからなあ。昔のまんまだよ」
道端のバス停には、屋根付きのベンチがぽつんと建っている。それ以外はやはり、視界のほとんどを田んぼと木々が占めている。
「じゃあとりあえず歩くか」
そう佐々木くんは言うと、慣れた足取りで歩き出した。わたしも慌てて彼について歩く。
今日は五月らしく、暖かい日射しが辺りを包んでいた。名目上は、記憶探しの旅。でも、ここの所忙しく怒濤の日々を過ごしていたわたしは、ただこうして歩いているだけで気持ちが和らいでいくのを感じた。視界は青々とした緑に染まり、耳で颯爽と駆け抜ける風の音を感じる。これほどまでに気持ちが落ち着く環境があるのか、とまで思えた。
「ねえ、今はどこに向かっているの?」
新鮮な空気をいっぱいに吸い込みながら、隣を歩く彼に訊いた。
「ん、そろそろ着くと思うけど……お、見えてきたぞ!」
ぱっと明るい笑顔を咲かせながら、前を指している。なんだろうと思い指の先に目をやると、木々が開け、そこには川が流れていた。
「きれいな川だね……」
澄み切った水が、キラキラと陽を反射しながら流れている。この音もまた、全身に沁み渡り疲れた心を癒やしてくれた。
「小さい頃は、この川でよく遊んだんだよなあ。水切りしたり、泳いだり。あとは魚獲ったりもしたな」
背丈の低い雑草が生い茂る川辺を進みながら、楽しそうに呟く。わたしは知らない過去だけど、きっと嘘はついてない。もしこれが嘘なら役者になれそうだ。そういえば、この前わたしもこんなこと言われて怒ったっけ。それはわたしの中にもある過去だ。同じ思い出があると思うと、意味もなく少し嬉しい。
「あ、小さい魚も泳いでるね」
「そうそう、こういう魚を素手で獲ろうと追いかけてたんだよな。でも全然捕まんなくてさ」
「そりゃあ素早いもんね」
「マナカなんて意地になって、全身びしょ濡れになったりしてたんだぞ」
あははと面白そうに笑う彼を見て、少し恥ずかしくなる。今のわたしなら絶対そんなことしないのに。やっぱり性格が変わったんだろうか。
「魚獲り、ちょっと挑戦してみるか?」
またしても意地悪な笑みを浮かべている。彼の語る当時のわたしならともかく、今のわたしがやるわけないじゃないか。
「いやだよ、やりたくない」
「まあまあそう言わずに。ちょっとだけ、な」
当の佐々木くんはというと、既に靴を脱いで川の中へと入っている。それでも渋るわたしの顔を見て、またあははと楽しそうな笑い声を上げた。
「冗談だよ、冗談。でもマナカも靴脱いで、川に入ってみろよ。気持ちいいぞ」
「……それなら、ちょっとだけ」
そう言って、わたしは靴を脱いでから五月の川に足を浸けた。
「冷たっ」
いくら五月晴れの好天とはいえども、所詮五月だ。水はまだ冷たい。海開きの季節がまだなように、川で泳ぐにはまだ早そうだ。
「ちょっと冷たいけど、気持ちいいだろ?」
今度は水切りをしているみたいだ。本当、落ち着きないんだから。しばらく水に浸かっていると、足が慣れてきたのだろうか、言われた通りひんやりとした冷たさが心地良く思えてきた。
「でも本当、昔のまんまだよ。マナカ、何か思い出したとか、あるか?」
「ううん、何も」
こんな風に景色を眺めていると、とても居心地が良くなる。だけどそれはこの場所が気に入ったからというだけで、ノスタルジーを刺激された訳では決してなかった。
「そっか。それじゃあ次の場所行くか」
一片の暗い表情も見せずに、彼はあくまで楽しそうに次の目的地へと向かう。どうやらこの辺りには思い出の地がたくさんあるようだ。
まあ、焦ることはない。記憶を探すというよりも、この時を純粋に楽しもうと思った。
「次はここだな」
続いて二人がやってきたのは、何の変哲もないこぢんまりとした公園。滑り台に鉄棒、ブランコといった実にオーソドックスなものだ。川やら公園やらと、少女マナカは随分と活発でアウトドアだったようだ。今のわたしからは想像もつかない。
「この公園だと、やっぱりブランコだな。どっちが勢いつけられるかなんて競争したりしたもんだ。散々やんちゃして、二人ともよくひっくり返ってたよ」
ブランコを眺めながら過去を語る横顔を見ていると、本当に楽しそうだった。本来共有しているはずの記憶が、わたしにだけ、ない。彼が幼馴染みであると確信しているわけではなかったけれど、それでもどこか切なさを感じた。
「これも、覚えてないか」
「うん、全然」
「なんとなく」すらなく、微塵も脳裏に引っかかる様子はない。この様子だと、記憶探しの旅はまだまだ難航しそうだった。
「結構歩いたし、そろそろお腹減ってきたな」
そう言われ視線を腕に落とすと、時計の針は長短共に真上を指している。十二時か。田舎町を夢中で堪能していたおかげで、気が付かなかった。だけど、ここは緑豊かな田舎町である。
「こんな所にお店なんてあるの?」
「それは、任せとけ」
そう言うと、彼はまたも迷いなく歩き出した。本当に大丈夫なんだろうか。一抹の不安を抱えながらも、だからといってわたしにはどうすることもできない。ここまで来たら彼に委ねる他ないだろう。
そのまま歩くこと、約十分。山沿いの道の脇に、一軒の建物が姿を現した。木造で小屋のような造りのその建物は、かなり年季が入っているように見える。近づいていくと、看板には『喫茶 ハーモニー』の文字。その店名だけで、無性に心が躍った。ハーモニーと言えば、わたしの敬愛するLGMの代名詞のようなものだ。
「こんな所に喫茶店があるんだ」
「ああ、ここも俺たちが小さい頃によく来た店だよ」
わたしは意外と、昔から音楽と縁があったのだろうか。やや重ための扉を開き中に入ると、扉に取り付けられている鈴の軽快な音と共に、レトロな音楽が耳へと届いた。ジャズが流れる店内は、カントリーで落ち着いた雰囲気を演出している。その全てがわたし好みですぐに心奪われた。
「いらっしゃい」
すると奥のカウンターから、店主らしき男性がわたしたちを出迎えてくれた。六十近いだろうか、渋くてダンディーなその男性は、この喫茶店の雰囲気によくマッチしている。どうやら他にお客さんはいないようだ。
「久しぶり、マスター」
「おお、太一くんじゃあないか。それと、そちらのお嬢さんは……」
慣れた様子で挨拶を交わす彼に対して、わたしは初対面の男性を前に緊張を隠せなかった。マスターと呼ばれた男性がじっとわたしのことを見つめる。
「もしかして、マナカちゃんかい?」
「は、はい……そうです」
「おお懐かしいねえ。だけど、これはまた随分と雰囲気が変わったもんだ」
やっぱりこれだ。わたしの人柄が変わったと。ここまで皆が口を揃えると、どうしても納得せざるを得ない。
「うん、マナカは引っ越した後に事故に遭って、記憶を失っちゃったんだ」
「そうだったのかい……それで、今日はここに来ていると」
「そう、何か思い出せればと思ってね」
「ふむ。そういうことなら、腕によりを掛けてごちそうしよう。二人ともいつものでいいかな?」
「うん、よろしくマスター」
優しい初老のマスターは、張り切って厨房へと入っていった。
「いつものって、何?」
「ああ、さっきも言ったようにここには昔よく来たんだ。お互いの親と一緒にな。それでいつも食べてたのが、オムライス。ここのオムライスは驚くほど美味しいから覚悟しておけよ」
おしぼりで手を拭きながら、佐々木くんはニタリと笑った。オムライスは、まあ好きだ。大好物とまではいかないけれど、好きか嫌いかで言えば、好き。中の上、といったところだろうか。でも、そこまで言うのなら記憶云々を抜きにして純粋に楽しみだ。
今店内に流れているのは、ザ・ピーナッツの『ふりむかないで』。歌手を目指すに当たってあらゆる音楽を聴き込んだから、聴いたことがある。確か、何度かカヴァーもされているはずだ。その他流れる音楽からは、マスターの趣味が覗えて楽しかった。
「おまたせ、オムライス二つね」
目の前に並べられたオムライス二つ。視界でそれを捉えるや否や、よだれが垂れそうになって慌てて抑えた。煌めく卵に、映えるケチャップ、食欲をそそる甘い香り。
「いただきます」
五感に訴えかけるそれを、恐る恐る口へと運ぶ。すると途端に口の中に塩辛いケチャップライスの味が広がった。と思ったら、すぐに卵の優しい甘みが包み込む。優しいのにアクセントもしっかりしている、まるで食材たちがハーモニーを奏でているようで、それはまさしく極上のオムライスだった。
「……美味しい」
口を次いで出た言葉は、ありきたりだが今の感情を正確に表していた。
「そうかそうか、良かったよマナカちゃん」
脇でにっこりと微笑みながら佇むマスターは、こんな所でひっそりと喫茶店を営んでいるのが不思議なくらいの腕前だ。
「相変わらず美味しいな」
「うん……って、あれ?」
「マナカ、何か思い出したのか?」
何なんだろう、これ。このオムライス、どこかで食べた気がするのは気のせいだろうか。だけど、この店に来たのは確かに初めてだ。マスターと佐々木くんが訝しむようにわたしの顔をのぞき込んでいる。記憶の何処かに引っかかるこの感じ、何だろう――それを確かめるために、次々とオムライスを口へ運ぶ。
「……あっ」
そして、思い出した。わたしの中に引っかかっていたものの正体、それは。
「……お母さんのオムライスに、似てる」
「お、お母さん?」
思わず佐々木くんが素っ頓狂な声を上げた。記憶が戻ったんじゃないのかとでも言いたげな顔だ。
「うん、このオムライスの味が、お母さんが作るのと似てる気がするの」
間違いない。家でもたまに作ってくれるけど、どことなく似ている。
「でも、なんでだ……?」
目の前で首を傾げる彼を見ていると、横にいたマスターが突然、合点がいったというような顔で笑い声を上げた。
「そりゃ簡単な話じゃ。昔マナカちゃんのお母さんにこっそりレシピを教えたことがあるんじゃよ」
なるほどそういうことかと、思わず二人で目を合わせてしまう。でも、記憶が戻りかけたのかもと一瞬期待したから、少し残念でもあった。
「でも、マスターの作ったオムライスの方が美味しいです」
「そりゃ、私の方が料理人として上だってことじゃな」
また嬉しそうに笑うマスターとその後も楽しく会話し、お礼を言って店を後にした。
「記憶戻ったかと思ったのに、残念」
「それはわたしのセリフ」
「そうだな。よし、お腹も満たされたし、次行くか」
二人は再び歩き出した。次はどこに行くんだろう、なんだかんだ楽しみだ。
少しでも記憶の手がかりを探して、辺りを見渡す。相変わらずの五月晴れだったが、西の空は徐々に曇り始めていた。
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