来客者数は平均しません

 そのブランドもあっちのブランドもとカタログを大量に持って帰った人がいた、お盆明け。ニッパチの枯れなんて言葉は聞いたことがあるが、こんなにヒマで良いのかと思うくらいヒマである。入ってきた客はおとなしくインナーや靴下を持って階下に行くだけで、美優の接客なんて必要ない。時々サイズの話をする人はいるけれど、取り寄せだと言うと概ね返事は決まっている。

「じゃ、いいや」

 今目に付いたから欲しいのであって、何日も待つのならば他の店で気に入ったものを買うというのが、言外の意だ。美優だって服を買いに行けばそうなのだし、在庫の少ないこちらが悪い。


 そうなのっ! もっと在庫を置いておければ売れるのにっ! 上がり調子だとはいえ、業績の確実でない物品に多く予算を取るほど、企業は甘くない。悔しければ実績を積んで仕入れの文句を言わせないようにすれば良いのである。少なくとも、一号店の熱田は結構自由に仕入している。

 値下げ箱に入れた商品は、着々と無くなっていっている。こんなに売れるのならと同じような金額の手袋を入れてみたら、今まで見向きもされなかった手袋まで売れるのだ。宝探し感覚と、本来の場所にないのだから安価に違いないという思い込みで、買われていく。人間の心理は面白いと思いつつ、自分はこの手には引っかからないようにしようと自戒するのみである。


 客が来ないと溜息を吐きながら、商品にハタキをかける夕暮れ。階下のレジの挨拶も、今一つ元気がない。今月の売上は低いだろうなーなんて思いながら、挽回の案なんて出ない。今日口を利いた客は農家のオジサン一人で、お買い上げは麦わら帽子一枚五百円也。

 誰でもいいから来てよぉ。そんで作業服の一枚も買って行ってちょーだい。じゃないと、私の存在意義レゾンデートルが危機だわ。ん、レゾンデートルってどこの国の言葉だろ。ググってみよ……なんて仕事用のパソコンでインターネットを開いたりしてしまう。

 そんなことをしても、更に有り余る時間に飽きてきた。


「あ、いたいた。伊佐治の二階だって本当だったんだー」

 そう言いながら入ってきた男は、多分三十に手が届きそうな年頃だ。

「いらっしゃいませ」

「祭りのときに、テツの子分と一緒にいた子だよね?」

 テツの子分って、リョウのことだろうか。

「仲良さそうだったからさぁ、どこの子だって聞いたら伊佐治だよって。ここって、おっさんばっかりじゃなかったっけ?」

 男はずいぶんと気安い性質らしい。ここの客の三分の一はそんな感じだし、美優も最近見た目がイカツいくらいではビクビクしなくなった。

「春から入ったんです。よろしくお願いします」

 軽く頭を下げた。


「安全靴見たいんだけど、おすすめのモデルってある?」

 男は棚を見回しながら言った。着ている赤いツナギには、背中に大きく会社のロゴがプリントされている。胸に入った小さなプリントは、正式社名なのだろう。こんなツナギもいいな、会社全員分とか請けたら嬉しいのになーなんて思いながら、一緒に安全靴の棚の前に立った。

 最近動きの良いモデルをいくつか紹介しても、男の目にはこれといったものが選べないようで、首を傾げている。

「なんかさ、元気に走れそうなヤツがいいんだよね。若い子、増やしたし」

 この人だけが履くんじゃないのだろうか。靴一足にこんなに時間かけてるし。

「カタログ見て、サンプル取ってもらっていい?」

「はい、もちろんです!」

 サンプルを一足取るくらいの客注ならば、いくらでもある。


 男が目を留めたモデルは耐滑・耐油と謳っているもので、そこから美優の思惑は外れた。カラーは六色展開、サイズもレディースから大きなサイズまで。

「これね、この三色見せて。そのうちの一色はフルサイズで入れてもらって、一回会社に納めてもらっていい?全員足入れさせて、サイズ見ないと」

 フルサイズとなると、大層な大荷物だし結構な金額である。そして、全員って言葉は何を意味するのかと思えば。

「全部で八十人くらいになるかな。名前と色とサイズ書けるような発注書、作ってくれる?」

 男の出した名刺は、そんなに遠くない場所に位置する運送会社の役員になっていた。

「社員さん全員分の安全靴ですか?」

「うん、半年に一回ずつ靴も支給するんだ」

 半年に一回! これが上手く納まれば、次も受注になるかも知れない。


 深々と頭を下げて、男を見送る。退屈な営業時間が続く中で、これくらいの売上は欲しいよねーなんて、嬉々として店長に報告して協力を頼む。車で靴を搬入しなくてはならないのだから、美優だけではどうにもならないのだ。靴の箱は大きい。

 うん、今月もこれで乗り切れるかな。来月の予算が取れないと、冬物の仕入れが苦しいもん。美優は胸を撫で下ろし、発注書を切った。撫で下ろした胸のライン通りに、少々寂しい今月の来客者の彩りが来た。

 お客さんからこっちへ貰う一覧表は、ゆっくり明日作ろうっと。どうせ靴が入るのは、明後日だもの。のんびりでいいや。


 翌朝は品出しを終えて、カウンターの中でのんびりと折りたたみ椅子を広げる。パソコンを開いて、頬杖をつきながら発注書の書式を考える予定、だった。

「これ、裾上げしてくれる?」

 朝の九時半にいきなり裾上げっていうのは、滅多にない。仕事中に破れてしまったので間に合わせに、なんて人は裾の長さどころじゃないし、現場が休みで買い物になんて人は大抵昼頃の来店だ。

「これから打ち合わせに穿いてくから、すぐやって。どれくらいかかる?」

「三十分ほどいただけますか」

「そんなにかかるの?じゃ、車で待ってるから終わったら呼んで」

 慌ててミシンをセットし、リッパーで裾を開く。長さが決まってしまえばミシンは手間がかかるものじゃないから、長さを決めてから裁断までが面倒なのだ。チャコでつけた印まで折り返したところで、新しい客が来た。


「いらっしゃいませーっ!」

「ええっと、安全靴って言われたんだけど、どんなのがありますか?」

 若い女だが、伊佐治では小さいサイズの安全靴は在庫していない。

「お客様が履かれるんですか?スニーカータイプでよろしいでしょうか?」

「スニーカーじゃなくて、安全靴……」

 自分に必要なものを把握していない客は、時間がかかる。接客していると、裾上げが遅くなってしまう。ミシンを使いながらカタログを広げるなんて、不可能である。

 お待ちくださいと言い置いて、階下に走り降りて松浦を捕まえる。

「急ぎの裾上げがあるので、接客の補助お願いします!」

 要求だけ宣言して、振り向かずに階段を上がった。客を待たせている手前、松浦は美優に断ることができないのだ。客に直接、接客できませんなんて言うバカはいない。だから松浦が口を開く前に、任せたよと一方的にぶん投げた。余裕がないので偶然そうなっただけだが、有無を言わせぬ手をここでひとつ学んだわけだ。


 松浦が押っ取り刀で二階に来るまでの間、美優は数冊のカタログを取り出していた。女の子受けするデザインの多いメーカーとJIS規格を通った重い物、両方を松浦に渡してもう一度ミシンの前に座る。手で縫い代を押さえながら片足分ミシンをかけ終わると同時に、松浦から声がかかった。

「アイザックさんって、発注してから何日かかる?」

「今の時間だと、明後日入荷ですね。お急ぎですか?」

 半分は松浦に、半分は客に話しかける。松浦相手では話し難そうな若い女は、本当は美優と直接話したそうである。

「明後日から履きたいんですけど、明日何とか入りませんか?」

 美優の顔を見て言う。実はすぐに発注すれば、翌日入荷可能なタイミングだ。ミシンがけは残り片足、どうにか発注は間に合う。

「ご注文モデルがすぐにお決まりになれば、可能です」

「すぐって、どれくらい……」

 時計を確認して、返事をする。

「あと十分で発注書を送れば、間に合います」


 客が真面目な顔でカタログに向き合っている間、慌ててもう片方にミシンをかけて仕上げた。裾を合わせてたたみ、階下に走り降りて駐車場の車で退屈そうに煙草を吸っている客に頭を下げた。

「レジに置いてありますので、煙草を吸い終わられましたら」

 一応にこやかに話してはいるつもりだけれど、頭の中は大慌てだ。発注書を流すのに、靴一足ってわけにいかない。他に在庫が少ない物を拾わなくては、発注の最低金額に届かない。売場に戻ると、安全靴はまだ決まっていなかった。松浦が相手してくれているので、そのスキに発注予定品を拾ってWEBの発注画面にパスワードを打ち込み、先に売り場の不足分を打ち込んだ。

「美優ちゃん、これに決まったから」

 松浦が示した品番の色とサイズを入力して、発注受付番号が画面に映し出されたのは、九時五十九分だった。

 やればできるじゃん、私! ちょっとぜいぜい言ってるけど!


 安全靴の客の名前と連絡先を確認し、予約票の半券を渡せば終わりだ。客と松浦両方に礼を言い、入荷したら連絡するからと頭を下げる。

 そうしているうちに、お姉ちゃんちょっとなんて、また声がかかった。

「ヤマヤテブクロの軍手でさ、薄くてフチが赤いヤツ入れてくれないかなあ」

 滅多にない客からのアクションが、何故今日は続くのだろう。気が抜けないまま接客をし、終わったころにまた問い合わせだ。発注書の作成は午後からにしようと決めて、美優は昼休憩の休憩室でテーブルに突っ伏した。

 昨日までのヒマさは、却って幸せだったのかも知れない。


 昼休憩から売り場に戻ると、どこかで見た顔が待っていた。

「どーもお久しぶりです。前山被服です」

 大きなトランクと、ボストンバッグが置かれている。

「二号店さん、最近発注が増えてますからねえ。新しくサージで作業服作ったんで、見てもらおうかと」

 にこにこしながら、カタログを開く前山被服に罪はない。アポイントメントなしで来ることは珍しくないし、新製品の紹介は有難い。

 美優の翌日必要な仕事が、後回しになること以外には。 


 結局発注書の書式を作り始めたのは午後三時過ぎだった。データ処理の会社にいたので入力はお手の物だが、基本的に事務職の経験のない美優は、他社の発注書を手本に作成しなくてはならない。一覧表にする以外に入れるのは、ええっと。

 考え込んでいたので、足音が聞こえても画面から視線を離さずに挨拶をした。売り場を歩く気配を感じながら、レイアウトをチェックしていた。

「お姉ちゃん、地下足袋どこ?」

「左一番奥です」

「固いの入ってるの、売ってる?」

 ここまで言われたら、接客しないわけにいかない。

「安全足袋、ありますよ。ハゼの数はいくつでお探しですか?」

 なんなのよもう!今日に限って何があるっていうの!


 結局、発注書をレイアウトし終えたのは六時を過ぎていた。やっと帰れるとばかりにカウンターの上を片付けると同時に、客が入ってきた。客が入ってきたのがわかっているのに、その場を離れることはできない。

「いらっしゃいませ」

 微妙に顔が引き攣っている気がする。疲れたから、とっとと帰ってお風呂入りたいんですけど。

「ああ、いたいた。この前カタログ貰ってったやつで決めるから、社員のサイズ書いてきたんだ。裾上げと刺繍も頼みたいんだけど」

 ニッパチの枯れはどこ行ったんですか。本日、何か憑いてますか。

「はい、どのモデルで決まりましたでしょう?」

 顔はあくまでもにこやかに、頭の中では明日の昼過ぎにしてくれと呟くが、相手に聞こえてはならないのだ。なんで八月の中旬過ぎに夏の作業着を作ろうと思ったやら。


 モデルと色を確認し、相手の名刺を受取って刺繍のロゴの指示を受ける。

「この形で冬物も頼みたいんだけど、十月までに作れる?」

「はい、承ります。今日はメーカーが終わっちゃってるので、納期を確認してご連絡します」

「夏物はいつ揃う?」

「一週間ほどで、刺繍まで済ませてお渡しできると思います。メーカー在庫を確認しますので、少しお待ちいただけますか」

 せっかく電源を落としたパソコンをもう一度立ち上げ、メーカーのウェブサイトにアクセスする。

「申し訳ありません。こちらのブルゾンのLサイズが、今季終了になってます。次回生産は来春になっちゃうのですが」

「シャツならある?」

「それは、ありそうです」


 そんなこんなで客と話し終えると、また一時間が経過していた。本日、商売繁盛めでたしめでたし! でももう外は暗いんだけども!

 ぐったり疲れて着替え、階段を下りるといつもの売り場の賑わいが見える。作業服のオニイチャンやオジサンが真剣な顔で工具を選び、陽気な顔でレジと軽口を交わしている。自分の売り場にあの活気がそのまま来たら、多分捌ききれない。今日で十二分に堪能してしまったわ。

「お先に失礼しまーす!」

 声を張り上げたら、松浦が驚いた顔で振り向いた。

「まだいたの?」

「いました! 明日はよろしくお願いします!」

「なんだっけ?」

 おそらく松浦にとっては、安全靴の搬入なんてついでくらいにしか見えていないに違いない。

「安全靴のサンプル一揃い、搬入です。人を貸してくださるんですよね?」

 忘れていたらしい松浦は、曖昧に頷いた。

「あ、ああ。明日用意できたら、声かけて」

「十一時にアポとってます。よろしく!」

 更にぐったり疲れた美優は、背中を丸めて自転車のペダルを踏んだ。


 ぬるめに張った湯の中で眠りそうになり、慌ててバスタブから出た。朝から忙しかったよなあなんて自分を労い、冷蔵庫で冷やしてあった化粧水を叩く。明日の段取りとしては、今日受けた作業服の発注と入荷した靴を検品して、それから軍手類が少なくなってた気がする。

 私って、こんなに仕事熱心だったっけ? 売上が上がったって、別に時給がポンと跳ね上がるわけじゃない。みんな働いてて、私の倍売ってる人が倍の時給を貰ってるわけじゃないんだから、適当にあるものを売ってればいいんじゃない?店長だって、作業服売場なんて放置してるじゃない。


 エアコンの効いた部屋でアイスクリームを掬う。

「まーた夜中に甘い物食ってる。この前ダイエットとか言ってたくせに」

「うるさい、兄ちゃんだって食べてるじゃない。私は自転車通勤だけど、兄ちゃんは運動らしい運動なんてしてないでしょ」

「信用金庫の営業舐めんなよ? 一日中歩ってるようなもんだぞ。熱中症で死にそうだ」

 兄とそんな風に言いあっていると、美優のスマートフォンが軽快な音を立てた。SNSからメッセージが届いたらしい。開くとトップに表示された名前は、早坂鉄だ。

――みー、明後日の晩ヒマ?

 これだけの短い文章なのに、吹き出しの中の言葉が鉄の声に変わる。短いセンテンスが鉄っぽいのだ。明後日の晩って、まさかデートのお誘い? そんなわけないか。

――バイト終わればヒマだけど?

 即座に返信をするのは、お約束である。


――明後日の晩、うちの屋上で花火見るんだけど、来る?

「うちの屋上?」

 思わず声に出して呟くと兄がスマートフォンの画面を覗き込み、慌てて隠した。隠すようなことでもないのだが、鉄のアイコンは自分の写真なのである。あのオレンジの髪を金融業の兄が見て、どう思うかは想像がつく。翌日は確かに隣の市、つまり伊佐治のある近辺で花火大会があるのだが、それを鉄の家から見るということか。それにしても、うちの屋上。屋上のあるつくりの建物なのだろうか。

――屋上って?

――友達つれてきてもいいよ。かわいい子お願い。

 土曜日の晩のことではあるし、誘う友達がいないこともない。けれどまったく知らない男の子の家で花火を見るなんてことに、尻込みしない友達はいたろうか。

――家から花火見るの?

――説明すんのめんどくさいから、明日行くわ。時間ギリギリになると思う。

 要領を得ずにメッセージが終わり、アイスクリームが緩んでいる。スプーンでかき混ぜながら、首を傾げた。


「おまえ、客からもみー坊なんて呼ばれてるんだって?」

 兄がニヤニヤしながら、ゴミ箱にアイスクリームのカップを放り込んだ。

「小学生顔だから、ごっつい職人たちからバカにされてんじゃない?」

「誰がそんなことまでっ!」

 質問するまでもなく、情報源は叔父イコール社長であるのだが。

「あんなのにばっかり慣れて、趣味悪ーくなっちゃうんだぜ。自分もダブダブのニッカポッカで……」

「ニッカはダブダブしてないわよ! 何にも知らないくせに!」

 自分も数か月前までは、そう思っていた。趣味悪い、品がない、なんて。今そう思ってしまったら、自分は趣味が悪くて品がない商品を取り扱っていることになってしまう。


 断じて断じて断じて、それは違う。趣味は合わないかも知れないが、彼らはオシャレだ。立襟シャツにきちんとアイロンをかけている人、汗の匂いに気を遣って必ず拭き取りシートを持って歩く人、上から下までのコーディネートを楽しんで、頭に巻くタオルまで選んで買って行くのだ。

 カッコイイ靴、カッコイイ作業着、粋なアクセサリー。それを提案し提供するのが、美優の仕事だ。意識して考えたことはなかったが、気がつけば自覚は湧いてくる。

 明日はまた、ちょっと忙しいかしらん。そう考えながら、美優は自室に引き上げた。



 そして朝から閑古鳥が鳴く。なんですかね、これは。昨日の賑わいは幻だったのだろうかと考え、これからFAXを送る発注書を見る。もうじき午前便で靴が入るはずだから、それを検品して客先に持っていく。階下もいつになく人の声はせず、店員同士の笑い声とラベラーの音が聞こえるだけだ。

 この調子だと、今日はヒマかな? じゃ、軍手は午後から数えて発注すればいいや。


 こんな日は、偶にある。ストリートショップではないのだから客が客を呼ぶわけではないのに、店全体ががらーんとヒマになってしまう日。月末月初曜日、何か法則があるのでもなさそうで、対策云々ってほど続くわけでもない。忙しい店舗の中休みだと腹を括るしかないと、松浦が以前朝礼で言っていた。聞いたときは常に人が入らない状態の作業服売場だったので、ふーんと聞き流していただけだった。それが昨日の今日だから、うんうんと頷いてしまう。毎日目が回るような忙しさじゃ、店に出る事自体が疲れてしまう。

 入荷した靴を検品し、仮納品書を作ってもらえばすぐに出発できる。ユニフォームのポロシャツとカーゴパンツで外出するのは初めてで少々緊張するが、車で十分と掛からない運送会社だ。注文書のフォームをクリアファイルに挟み、仮納品書とメモ帳とボールペンを持てば準備完了!


 あっさりと納品が終わってしまい、一週間後にサンプルを引き上げに来ると言い置いて伊佐治に戻っても、やはり店の中はガラガラである。本当に前日の大騒ぎは何だったのかと、狐につままれたようだ。

 軍手をチェックし、一緒に頼む靴下類もチェックし、有り余る時間をまた持て余したりする。本当はそういう時にこそカタログを確認したり売上内容の傾向を考えたりすれば良いのだが、そんなことはぜーんぜんする気が起きない。こっそりパソコンを開いて、スパイダーソリティアなんかしちゃうのである。

 何も言わずに入ってきた客が無言のまま手袋を一つだけ掴んで、いらっしゃいませの声に振り向きもせずに階段を下りていく。カウンターの中で立ち上がったままで、それを見送った。

 早く六時になんないかな。もう、いてもいなくてもいいじゃない。


 そういえば、てっちゃんが来るはずだったと思った五時過ぎ。ぎりぎりって言ってたよなあと思いながら、売り場内を見回ってサイズ表示ごとにハンガーを並べ替えたりしてみる。

 雪駄のペタペタした音が聞こえたと思ったら、鉄が売り場内に立っていた。

「気が付かなかった、ごめん。いらっしゃいませ」

 頭には毘沙門天のタオルだが、流石に暑いのか半袖のポロシャツと超超ロングである。仕事帰りらしく、なんとなく埃っぽい。

「あっついな、毎日」

 手には階下で顧客サービスのために配っている小さな缶入りのお茶が握られている。

「うん、お疲れ様でした。明日は休みでしょ?」

「それそれ、そのために来たんだ。明日、うち来ねえ?」

 まず、その概要はなんだ。


「家で花火見るの?」

「家ってか、うちの屋上。人がいっぱい来るからさ、バーベキューとかするし」

 屋上でバーベキューって、どんな豪邸よ。美優の驚いた顔を見て、鉄も言葉足らずに気がついたらしい。笑いながら、補足してみせた。

「うちの一階は資材で、二階が事務所。人間が住んでるのは三階と四階なの。木造の民家想像してたか」

 そうか、鉄の家はサラリーマン家庭じゃない。けれど、四階建てのビル?

「てっちゃんって、もしかして次期社長?」

「もしかしなくても、そのつもりだけど」

 美優の頭の中で、社長のイメージが大きく変わった。社長って別に、スマートな生活してるんじゃないのね。


「花火は真正面に見えるし、わいわい飲むの楽しいよ。奥さん連れてくる人もいるから、女一人にはならないし」

 花火が真正面っていうのは、結構魅力的な申し出だ。人混みで林檎飴より、バーベキューのほうが楽しそうでもある。

「うん、じゃ行こっかな。地図書いて?」

「買い出し帰りに拾ってってやるよ。友達もここで待たせときゃいいだろ」

 そんな言葉に頷いて、翌日の約束は済んだ。


 土曜日の伊佐治は、結構忙しい。平日美優が勤務している時間には客の入りは少ないのだが(っていうのは、現場に入る前と現場から出た後の客が多いのだ)土曜日が休みの客が、昼間に買い物に来るからだ。その中には、数が少なくても日曜大工ワーカーズも含まれる。ホームセンターよりも本格的な品揃えであることを知って、工業団地の中まで買い物に来るお父さんたちは、プロフェッショナルよりもコダワリが強かったりする。


「いらっしゃいませ!」

「三十万入りまーす」

 景気の良い声が階下から響く。作業服売場の客層も幾分平日とは違って、家族連れや若いカップルも多い。実は先日それを当て込んで、子供用の作業服を入荷したばかりなのだ。秋の祭りに向けて殊の外見て行く人が多く、小さなサイズの鯉口シャツやニッカが買われてゆく。はっきり言っちゃうと量販店の子供服の方が安価いのだが、大人用のごつい服の中に同じ仕様の小さなものが並んでいるだけで、嬉しくなる人も多いらしい。まして美優がつけたPOPは『パパとおそろい!』なもので、若いパパたちが嬉しくなっちゃうらしい。いそいそとレジに持っていく姿に、美優も微笑みながら礼を述べる。


 鉄の家に同行する友人は、たった一人。どういうわけか誘った相手がみんな予定アリで、どうしようかななんて迷うような返事をした友人を、強引に誘った。鉄とリョウは知っていても、他は知らない顔ばかりなのだから、美優だって心細い。

 とりあえず道連れを確保した安心感と夕方からの予定のワクワクで、それなりに来客者の多い美優の午後は、平穏に過ぎていくはずだった。スマートフォンが軽快な音でメッセージを着信するまでは、だ。


――ごめん。突然生理になっちゃって、行けない。

 思えば高校生のころから生理の重い子だった気がする。慌てて通話を呼び出すと、申し訳なさそうな声が聞こえた。

『ごめんねー。なんかダルいなーと思ってたら、始まっちゃって。今鎮痛剤飲んだとこだけど、ぜんぜん効かないー』

 まさかそこで、無理に出て来いと言うわけにはいかない。自分が逆の立場なら、身体が面倒なときに知らない場所、まして知らない男の家になんて行きたくない。

「うん、仕方ないよね……」

 そう答えるしかない。


「あのー、すみません。これのサイズって取り寄せてもらえるんですか?」

 客から声がかかれば、電話口でグズグズ言い続けるわけにはいかない。取り寄せは確実な売り上げなのだから、逃したくない。

「大丈夫、気にしないで。知ってる人が何人もいるから、花火楽しんでくる!」

 通話を終わらせて慌てて客の話を聞くが、頭の中ではすっごく落胆してるのである。花火だけ楽しんでとっとと帰って来ちゃおうなんて、顔には出さずにぶすったれる。


 普通の土曜日程度、つまり一時間に二、三人の来客者数だ。のんびり接客したり商品を整えたりする余裕のある日だが、時間を持て余すことも走り回ることもない。仕事的には良いペースで、毎日こんな感じなら充実するんだけどなーと思いながら、時間は過ぎてゆく。

 あんまり、夜のことは深く考えないことにしよう。てっちゃんとリョウ君がいるんだし、あの二人に誘われたんだと思うことにして……いや、一緒にバーベキューするほど仲良くしてないけど。


「みー、忙しい?」

 鉄が顔を出したのは、まだ五時を少々回ったあたりだった。

「終わるまでまだ、一時間くらいあるよ」

 美優の驚いた返事を、鉄は簡単にぶっちぎった。

「松浦のおっさんに借りるって断っといたから、もう出ても大丈夫」

「店長に?」

 階下まで行って確認すると、松浦は知っていたかのような顔で頷いた。

「早坂さんとこの花火でしょ?行っていいよ。毎年いろんな人招待してるんだ、あの会社。お客さんが混んでないなら、行けば?」

 美優の就業時間なんて、気にもしていないらしい。一昨日の混乱が今日でなくて良かったと思いつつ、美優はユニフォームから着替えたのだった。

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