お客様にも、いろいろいます
無事シルバー人材センターの納品も済み、予定よりも早かったね、また頼むねなんて言葉ももらい、気分が良くなった日に、本店から借りた作業服をすべて返却した。翌月勘定にしてもらう予定で作業服を発注するために頭をひねり、結局熱田に揃えてもらったものに倣うプラスシャツ類少々を、同じように朱雀ブランドで頼むことにした。売上に光が見え、新商品を入れられることで気分は上々だ。
お店のお仕事も悪くないよね。自分で売るものを決めて、その成果が見られるんだから。
鼻歌交じりで棚を整え、次は何を入れようかなと考えながら、在庫にラベラーで値付けする。もうじき仕事時間は終わりだ。
「いらっしゃいませーっ!」
客を迎える言葉にも、張りが出る。見れば若い男で、サンプルでない手袋を袋から出そうとしている。
「申し訳ありませんが、それは商品ですのでご遠慮願えませんか」
これを言葉にするには、少々勇気がいる。販売している美優から見ても、ダブダブの作業ズボンは威圧的に感じるし、現場の人たちは言葉も態度も荒っぽく見えて怖い。そんな人ばかりでないことは知っていても、今まで持っていたイメージで刷り込んでしまっているのだ。
男は美優の顔をじろりと見てから、舌打ちして袋を元のフックに戻した。そして安全靴のコーナーにふらふらと歩いていく。
客には二種類いる。店員とやり取りしながら商品を見比べて楽しむタイプと、自分の欲しいものを決めるために話しかけられたくないタイプ。若い客は大抵後者で、美優自身も店員に話しかけられることは好きじゃない。だから、その男にも必要以上の声はかけなかった。男はガタガタと脚立を動かし、棚の上段の安全靴を引っ張り出した。伊佐治では店員に声を掛けずに商品を手に取る客が多く、それも別に気にしなかった。
「あのさあ。この靴、他の店で二千九百円で売ってたんだよね」
いきなり声を掛けられて、男の持つ安全靴の箱を見る。伊佐治での売値は四千三百円だ。男の言う金額では多分、赤字にはならなくてもツーペイ(原価プラス経費イコール売値ってことね)近い。美優に何をさせたいのか、男は言葉を重ねた。
「伊佐治って、何でも高価いよね」
「そうですか」
それしか、答えようがない。他の店より割高だと言われたって、その店がどんな状態でその金額になったのか、知りようはないのだ。
「そうですか、じゃねえよ。値引きしろよ」
いきなり大上段だ。声を一際張り、美優に向かって一歩踏み出している。けれど二階にレジはないし、美優には勝手に値引きする権限なんて持たされていない。
「えっと、申し訳ありませんけれども、私には値引きのお約束はできません。責任者に交渉していただかないと」
「ああ? 俺に交渉しろってのかよ? テメエが訊いてこいよ、責任者って奴に!」
美優を睨みつけ、仁王立ちである。
怖いよぉ。二階にレジがあれば、後で叱られようとも値引いてしまっているかも知れない。靴を抱え、美優は半泣きだ。夕方の混雑の始まった店内で、松浦は客の相手をしている。これでは二階に連れて行くことは不可能だ。
「お話し中申し訳ありません。この商品を値引いてくれって言われてるんですけど」
美優の言葉に松浦は、客との会話を途切れさせずにPOSの画面を表示させた。小声で三百円、と言う。
「それ以上は断って」
男が提示した金額には、とてもじゃないが近付けない。箱を抱えて、また階段を駆け上る。売り場に行くと、いつの間に来たやら鉄の後ろ姿があった。リョウと一緒らしく、手袋を物色している。
「お客様、申し訳ございません。こちらの商品は、四千円までしか値引きできないそうです」
男を探すと、インナーの棚の影から姿を出した。
「いらねえや、テメエの対応が悪すぎて、気に食わねえから」
斜めに体を構えた男は、肩を落として首から掬い上げるように、美優を
何かクレームになるようなことをしたろうかと、ぽかんと男の顔を見たことが却って火に油だったらしい。
「いいか?テメエが気に食わねえって言ったんだよ。だから買わねえ」
手袋の棚の前にいるはずの、鉄とリョウは気配を潜めている。
「手袋のサンプルも出してねえ癖に、何がご遠慮くださいだ」
「サンプル、ありましたよね?」
「ありゃMサイズじゃねえか。俺はLなんだよ!」
そんなことは美優の知ったことじゃない。手袋の質感をチェックするためにのみ、出しているのだ。ただ、フィット感を確認したいのだとすれば不足なのは否めないので、それに対しては詫びようと思う。
「それに靴探しても、客に手数かけてすみませんの一言もねえ。高価いって言ってんのに、詫びもしねえで
確かに接客はフランク過ぎるかも知れないが、ここまで言われる筋合いはない。美優は困ったまま小首を傾げる。
「ほら、その面。テメエが気に食わねえから買わねえって客が怒ってんのに、反省してねえだろ」
巻き舌である。
視界の隅に、鉄の肩がちらりと見えた。客に怒鳴られっぱなしの自分を見たら、鉄は何と思うだろう。言い返したい気分と泣き出したい気分が相半ばである。
「謝れよっ!」
どん、と男が一歩踏み出した。明らかに威圧する形だ。何を謝ればいいやら、ただ怯えるばかりの気分になる。
「客の気分悪くしたんだから、謝るのが筋だろうが。謝れっ!」
瞬間的に、殴りかかられるかと思った。その怯えだけで、美優は頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
通路にリョウが姿を見せた。こちらを気にしている。他の客がいるのに、こんな男を長居させてはならない。
「足んねえなっ、カス女が! 謝れ、誠心誠意!」
土下座でもしろと言うのか。そんなことはできない。その時、男の視線が美優を通り越した。
「不愉快な思いをさせて、大変申し訳ございません」
美優がもう一度頭を下げると、男はフンと鼻を鳴らした。
「こんなクソが店員の店、二度と来るか。店もクソで店員もカスで、気分サイテーだぜ」
「申し訳ありません」
本当にこんなことを言われる筋合いはまったくない。早く帰って欲しい一心で、美優は頭を下げるのみである。男がぐるりと踵を返して階段に向かうのを、頭を下げたまま送った。
鼓動がうるさい。自分が興奮してしまっているのがわかる。客がいるのに、顔が作れない。売り場にいるのが鉄とリョウであることが救いで、カウンターにフラフラと戻る。
「行け、リョウ!」
鉄の言葉に、リョウが階段を駆け下りるのが見えた。
「どうした? 因縁つけられたか?」
カウンターに寄りかかって、鉄が薄笑いする。まだ興奮状態の美優は、いらっしゃいませと言うことすらできない。
「接客が悪いって……多分、当たられたんだと思う。でも、別に殴られたわけじゃないし」
でも、怖かった。多分誰もいなければ、ここで泣いていた。
「ああ、胸倉でも掴んだら助っ人してやろうかと思ってた。男がいる場所で女を殴るほど、バカじゃなかったな」
男の視線が美優を通り越したときに見たのは、通路を後ろから回った鉄だったらしい。
「よく言い返さないで我慢したな。ああいうのは、言い返すと大喜びで絡んで来るからタチ悪い」
まだドキドキする心臓の上を抑え、美優はこくんと頷いた。
「クロガネさーん。投げ返されたよぉ」
リョウが帽子をパタパタしながら戻ってきたのは、その直後だ。和柄刺繍のワッチキャップは、売り場のもの。
「やっぱりレジ素通りしやがったからさ、金払ってないよねって言ったの。そしたら俺に投げつけて、すっげー勢いでバイク発進させた。クロガネさんが言った通り……みーさん、大丈夫?」
リョウからキャップを受け取り、美優は慌てて売り場をチェックした。ちぎり捨てられたらしいタグが落ちている。
あの男は来たとき、帽子を被っていたろうか?被っていなかったと思う。帰るときは? 頭の中を探れば、手に帽子を持った男の姿が見える。帽子を展示した棚の前で、美優はへたりこんだ。
「なんなのよ、もう」
「客商売ってのも、いろいろいて大変だよなあ。俺はできねえ」
へたりこんだ美優の頭をぽんぽんと叩きながら、鉄は言う。
「あんな客、殴ってやりゃあいいんですよ。ぎゃあぎゃあ騒いで、しかも
美優の代わりにリョウが憤慨しているのを、鉄が諌める。
「ばぁか。客と喧嘩する声が店中に聞こえたら、今売場にいる客はどう思うよ?伊佐治って客に怒鳴るような店だってか。だから悔しくても、頭下げたみーは偉かった。リョウもちっとは考えて物言え」
あ。てっちゃんて、思ってたより大人だ。一歳しか違わない筈なのに、ちゃんと考えなくちゃならないとこ考えてる。お店の人は私なのに、私よりお店のことわかってるみたい。
客に怒鳴られた興奮が少しずつ鎮まってきて、美優はやっと立ち上がった。
「よし、よく頑張った」
頭を撫でる鉄の手が、妙に心地良い。深いことを考えて、客に頭を下げたわけじゃなかった。大きな声で凄まれたのが怖くて、早く自分の視界から消えて欲しくて頭を下げたのだ。けれど、それは間違っていなかったという。それだけで嬉しい。
指導者の指導が薄い美優は、自分で判断して覚えるしかない。正解か不正解か答えのない接客業は、とても怖いことがあるのだと初めて知った。
今までの客は、みんな手のかからない客だったのだ。棚から勝手に商品を持っていく人然り、いつも決まったものを買って行く人然り。シルバー人材センターさんだって、不手際を指摘する人はいなかった。客が増えれば客の要望も増え、接客のバランスが変わる。
そして、鉄とリョウに向かって言っていなかった言葉を、やっと発した。
「いらっしゃいませ」
「おう、いらっしゃってました!」
リョウが嬉しそうに、紫色の革手袋を持ってくる。
「いいっすね、これ! 誰かが持ってっちゃっても、俺んだってわかる」
「ああ、よく失くなったとかって騒いでるもんな。使い捨ての安価いのにすりゃいいのに」
鉄が言い切る前に、リョウは買うと宣言した。
「洗って使うから、いいんです。俺はまだいい作業服バンバン買うほど金ないから、小物くらいカッコつけたいじゃないっすか」
鉄がニヤニヤ笑う。
「リョウ君も、鳶はスタイル?」
美優の質問に、リョウは照れくさそうに笑った。
「鳶のベテラン、カッコイイっす。
形だけでも一人前になる。そこにリョウの心意気を感じたような気がする。鉄の掌が、リョウの頭をぱんと叩いた。
「十八まで、高所はできねえ。それまでみっちり、覚えられるだけ覚えとけ」
「はいっ!」
鉄の先輩面は、結構頼もしく見える。
ありがとうございましたと、鉄とリョウを見送る。まだ怖かった気分は微妙に影を落としているが、暗い顔で帰途に着かなくてもいけそうだ。
大丈夫、間違ってなかったと言ってくれた人もいる。殴られたわけじゃない。明日もちゃんと出社できる。
なんだか疲れた顔してるねと母親に尋ねられて、美優は夕食を摂りながらコトの顛末を説明する。父親と兄はまだ帰宅していないから、ふたりだけの食卓だ。
「あらやだ、こわーい。兄さんが言ってたのと、ずいぶん違うわねえ。女の子でアルバイトなんだから、まわりの人が助けてくれてもいいのにね」
母親はそう言うが、前提から間違っている。伊佐治の店舗を見に来たことのない母親は、まわりに人がいないことなど想像できない。
「売り場には私しかいないもん。大丈夫だよ、対処はできたから」
「でも、ヤンキーっていうの? ああいう人も多いんじゃないの?」
まあ、ありがちな偏見ではある。
「そりゃ、見た目は髪がオレンジだったりもするけどさ。真面目に仕事してる人のほうが多いと思うな」
確かに今日は怖い思いをしたし、実際とんでもない客(厳密に言えば客じゃなくて、万引き未遂の犯罪者だ)だった。けれど、たとえば鉄に関して言えば、美優よりも遥かに真面目に仕事に取り組んでいるし、プライドだって相当なものだ。他の客も常識的だし、逆に知識の薄い美優に対して親切だとさえ言える。見かけで判断するのは早計だと、学習は済んだばかりだ。
「仕事だもん。いろいろあるよ」
「兄さんに、内勤が空いたらそっちって頼んでおこうか」
「いいってば。別に危険はないんだから」
怖い思いをしたまま帰宅していれば母の申し出は有難いものだったのかも知れないが、即座にそれに飛びついてしまったら、鉄とリョウの好意を無にしてしまいそうな気がする。自分は店員で鉄とリョウは客で、ただの取引関係ではあるのだが、励ましたり万引き犯を指摘したり、美優が店員であることに協力しようとしてくれた。
大丈夫、がんばる。せっかく顔覚えてもらったんだし。
テレビの前で膝を抱えて座った美優は、ドラマを楽しんでいる。画面ではスーツ姿の俳優が、綺麗なオフィスで女の子と軽口を交わしていた。自分の知らない世界では、あんな風に会社生活が送られているんだろうか。女ばかりのデータ処理会社と工具店以外には、華やかで楽しい勤め先があるのかしら。怖い人に理不尽に怒鳴られたり、聞いてもいない予算を急に申し渡されたりしない職場。
中途採用なんてしてくれないかな。ハケンで行けるんなら、ちょっと体験してみたい。伊佐治を辞めたいと思っているわけじゃない。自分も可愛いワンピースか何かで、スーツ姿の見目の良い男の子と話してみたいって夢想である。未体験のことだから楽しく空想して少し羨ましくなるが、そのオフィスの中には陰口好きな同僚や、セクシュアルハラスメントに勤しむ上司は存在しない。つまり、隣の芝生ってやつである。
思わずスマートフォンで求人情報を開き、はっと我に返る。先刻の決意は、どうした。
「おはようございまーす!」
平和ないつもの出勤風景だ。
「あ、美優ちゃんにお客さん来てるよ。ご指名で」
二階を指差され、クレームだろうかとビクビクしながら階段を上がると、シルバー人材センターの代表格だった人だ。
「ああ、来た来た。この前はありがとうね、みんな喜んでたよ。でね、大勢で押しかけて手間かけちゃったから、悪かったねえって」
老人は手に軍手の束を持っていた。町内会の草むしりに使うものを、わざわざ買いに来てくれたのだと言う。
「これはね、作業服売場のお姉さんに、みんなから。こんなもので申し訳ないけど」
ショルダーバッグの中から、小さなクッキーの箱が出てくる。
「いただけませんっ! 仕事ですから当然です! こちらこそ手際が悪くてご迷惑を……」
固辞する美優に手渡せないと、老人はカウンターの上に箱を置いた。
「孫みたいな子が世話焼いてくれてって、みんな嬉しがってたよ。気持ちだから、食べてやって」
また来るよ、と言い置いて老人が階段を下りて行く。振り向かない背中に深々と頭を下げ、大きな声で感謝の意を口にする。
「ありがとうございました!」
不手際でバタバタで、アドバイスだって口から出まかせ。そんな対応でも、あんなに感謝してくれる人がいる。未熟な店員で申し訳ありません。
昨晩綺麗なオフィスでどうのと思ったことは、払拭されたようだ。売り場に仁王立ちになり、商品の乱れをチェックする。店員だって客だって、いろいろいるのだ。
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