着衣は体温調節に必要なものです

 九月とはいっても、まだまだ暑い。ファッションブティックと作業服店の衣替えのタイミングの違いは、結構大きい。ファッションブティックは季節先取りが原則だが、作業服はまだ夏物である。スタイルに気を遣っている人たちがおかしいじゃないかと思われるだろうが、元々の用途が違うのである。

 自分を美しく飾るためにだけ身に着けるのなら、身体の快適さが多少損なわれても我慢するかも知れない。伊達の薄着ともいう。けれど作業着は、一番に実用なのだ。見栄えが良くても身体が動かしにくいものなんて、要らない。まだ暑ければ薄物を着るのは当然で、いくらカタログが秋冬モデルになっていようが防寒ジャンパーを欲しがる人はいない。

 では、秋冬物はまだ展示しなくて良いものか? 答えは否である。気の早い客は、涼しくなったら何を着ようかと考えているのだ。まだメーカーが新モデルを出荷する前でも。


 そんなわけで、売り場は結構カオスである。とは言っても美優の管理する二号店は、商品の絶対量の不足から目立つところに夏服を置いてあるだけで、合服も冬服もハンガーに掛かっている。さすがに防寒着は隠してあるが、それも商品自体はかなり少なめなので適当に仕分けして、出せと言われれば出してみせる。

「これだけしか種類ないの?」

「メーカーの生産は九月末から十月ですから」

「寒くなるまでに欲しいんだけど」

「カタログでお選びいただいて、先に発注しておくことはできます」

「それじゃ生地の質感とか、わかんないじゃない」

 そんなやりとりのすぐ後で、半袖のポロシャツを入れてくれなんて言われるのだ。

「今はみんな重ね着するんだから、冬でも半ポロ半T着るだろ」

 私は着ませんけど、とは答えられない。大抵の客は自分基準なので、すべてを大真面目に受け取ると大変なことになる。売場に必要な要望と受け流す要望を選ばなくてはならない。そして選ぶ基準は、要望の量と説得力である。ということは、それだけたくさんの客と会話しなくちゃならないってことだ。客の要望はイコールで必要な情報なのである。


 急激に冷えて簡単なヤッケを何人かが買っていった翌日に、気温が三十度を超した。ワケワカラン状態の気温に美優の身体もなかなか対応できなくて、品出しだけで結構疲れる。じわじわと汗をかき、首筋までべたべたしてるみたいだ。

 やだもう。こんなことばっかりじゃ、私の青春がニッカズボンに埋まってしまう。自転車通勤じゃ可愛い服なんて着ても誰も見ないし、取引先の営業だってオジサンばっかりじゃないの。お客さんは少ないし、仲良くなりたいタイプなんていないし。

 少し飽きがきたときの、通り一遍の愚痴が頭の中で渦を巻く。売り場に馴染むまでは精一杯だったものが、身体の疲れと共に噴き出してくるようだ。


 階段から足音がするたびに、いらっしゃいませと声を張り上げるが、心の中ではうんざり気味だ。見るだけで買わない人間のほうが、圧倒的に多いのだ。二階を訪れる人間は、以前に比べれば確かに増えた。意識して新商品を少しずつ並べ、予算の残りを睨みつつも華やかにしたつもりだ。それでも一号店の熱田のようには、ぽんぽんと発注できない。

 フロアを一周して何も持たずに階段を降りる人の背中に、ありがとうございましたと気の抜けた挨拶をする。

 ばかみたい。ありがたいなんて思ってもいないのに。


 目に見えて成果が出ているわけでもないとか思ってても、それなりに成果が上がっているのは月初に申し送られる今月の仕入予算で大体わかる。特に安全靴と手袋の売上の伸びみたいだ。今までコンスタントに揃えられていなかったものが確実に買えるというだけで、客は安心する。必要なものが必要な時に手に入る安心感は、生活用品と同じくらい仕事道具でも重要なことだ。

 美優にはそんな考察はまだ得られない。額面のみでしか考えられないから、手袋みたいに単価が安価いものよりも作業服をもっとたくさん売りたいと思う。小さいものだと見逃しがちだが、利益率を支えるのは金額の張る商品よりもコンスタントに動く商品だ。

 ぶすったれたままポロシャツから着替え、タイムカードを打つ。自転車置き場で鍵を取り出そうとしたとき、スマートフォンがSNSのメッセージを受信した。


――まだいる?

 アイコンは、オレンジ色の髪だ。

――もう、帰るとこ。

 返事を返しながら、なんとなくドキドキする。これってこの前みたいに、一緒にごはん食べに行くとか? 別に帰ってから予定はないから、いいけど。でもちょっと待って、私ったら今日は量販店のTシャツ着てる……

――売場、戻って待っててくんない?

 売り場? 何故?


 何故もへったくれもない。鉄は客で、客が売り場に戻ってくれっていうのは、商売の話だ。急に親しくなった気がしてプライベートに結び付けてしまったが、元来の関係は店員と客である。ただし、他の客は美優の個人的な連絡先なんて知らない。

 定時は過ぎた。タイムカードも打刻した。別に売り場に戻る義理はない。美優がいなければ、一階の誰かしらがカタログと刺繍糸の色見本を確認しながら、受注するはずだ。美優が入る前はそうしていたのだし、今だって美優がいない時間はそうなっている。

 でもさ、ご指名で注文もらうと、やっぱり嬉しいし。


 通称になりつつある「二階のおねえちゃん」は、喜ばしい呼び名じゃない。それでも時々、名前は覚えていないけれどと前置きして、自分あてに電話がかかってくる。作業服売場担当として、顔が売れてきた証拠のように思う。

 客はもちろん伊佐治に金を払って買い物するのだが、対面で販売しているのは美優であり、美優自体が気に喰わなければ買わない。これが高じると、たとえば同業他社に転職した場合に客はそちらに流れる。これを「客がついた」状態という。美優はまだ、そこまで客と仲良くはない。


「あれ。美優ちゃん、帰ったんじゃないの?」

「ちょっと用事ができたんで。多分大した時間じゃないから、サービス残業しまーす」

 タイムカードは打ってしまったのだから、もうユニフォームには戻らない。相手は美優が伊佐治の人間だと認識しているのだから、名札をつける必要性も感じない。

 でもさ、ちょっと顔直しとこうかな。自転車だからって、そのままだし。

 今までその顔で店舗に出ていたくせに、客が来るからとグロスを塗り直したりする必要はあるのか。自分を深く追求するのは、止しておこうと思う。鉄は美優が好んで恋愛したくなるタイプとは、絶対に違う。


 程無く二階に上がってきたのは、鉄だけじゃなかった。鉄と同年代の男が、合計で三人。

「悪いな、仕事終わったとこに」

 鉄だけであるなら恩に着せるような言葉も返せるのだが、知らない相手も一緒では愛想笑いしなくてはなるまい。

「別に用事はないし、構いませんよ」

 少しだけよそ行き言葉になって、頭を下げる。

「今日は何かお探しですか?」

 美優の改まった接客に鉄がニヤニヤしようが、構っちゃいられない。鉄以外の人間に、視線を向ける。

「ああ、スタッフジャンパーを作ろうかと思って。カタログで見当つけてきたんだ、これ」

 ひとりが丸めて持っていたカタログを開き、カウンターの上に広げた。

「ばしばし防寒ってわけじゃなくって、風防げればいいんだけど」

 一緒に覗きこんで、デザインを確認する。中綿云々の表示はないから、おそらく軽いウィンドブレーカーのタイプだろう。

「これに刺繍入れて、どれくらいかかる?」

 男は胸ポケットから紙を一枚出した。それが刺繍のデザインだっていうのは一目でわかるが、即答できる類のものじゃない。


 胸に社名を入れるような単純で決まった形の刺繍であるなら、金額の目安はある。小さなロゴを入れる会社もあるが、とても複雑な形でなければ、前例を考えてざっくばらんな金額を出すこともできる。

「この大きさってことは、背中にですか?」

「背中っていうか、肩かなあ……ちょっとおまえ、背中出せ……この辺で」

 男は位置を示して、もう一度金額を訊ねた。

「この大きさですと、刺繍店に型を作ってもらわないとならないので、まず見積りを取ります。コピーをとらせていただいて、良いでしょうか」

「ああ、なんだ。ここにミシンがあるわけじゃないの? ワーカーズは店でやってるよ、遅いんじゃない?」

 他の店と比較されては困る。


「マコト、別に急ぎじゃないだろ。それにワーカーズが置いてるモデルとここで売ってるものは、違うだろうが。カタログでモデル決めたの、おまえだろ。ワーカーズにはそのブランドは置いてないぞ。みー、見積りっていつ出る?」

 鉄が話を引き取ってくれたので、ほっとする。

「明日には出ます。枚数によって価格が変わってきますので、数量を教えてください」

「十五枚かな。寒くなるまでにできればいいから、急がなくていいよ」

 そんな言葉のやり取りがあって、やっと話が進んだ。


「悪かったな、遅くに来てあれこれ言って。明日、見積り取りに来るから」

 そう言って、鉄はあっさりと階段を下りていく。ひとりじゃないのだから、これから友達と飲みにでも出るのかも知れない。

 なんとなく肩透かしを食らった気分で、美優の唇は尖っていた。


 見積書を作り終えて、夕方の五時。そろそろ鉄が現れてもおかしくない時間になった。売り場の中には客はいない。中途半端な時期なので、夏物はまだ出しっぱなしだ。

 てっちゃん、早く来ないかなあ。ちょっと退屈。


 階段に足音が聞こえ、美優はカウンターから顔を上げた。鉄の軽い足音じゃない。億劫そうな重い足取りで、まず頭のてっぺんが見える。年配者である。

「ああ、こんにちは。おねえちゃん、足袋どこ?」

「こちらになります」

 案内しながら、毎度のことながら不思議な気分になる。もう筋肉の残っていなさそうな身体つきで、階段を上がるのも大儀そうな年寄りが、地下足袋を購入していくのだ。

「先芯の入っているものですか?」

「いや、硬いのはいらない。紺色の」

「ハゼの数は何枚で」

「十五かな。ふくらはぎまで来るやつ。植木屋だからね」

 こんな老人が樹を切ったり脚立に乗ったりして、怪我は大丈夫なんだろうか。まあ、余計なお世話である。


 地下足袋の老人が帰るとお馴染みさんが訪れて、高価いだの少ないだの憎まれ口を利きながら手袋を買っていく。鉄はまだ来ない。

 おかしいなあ。てっちゃん、今日見積を取りに来るって言ってたのに。

 店から連絡するほど急ぎの話でもないし、もしも急いでいると言われればメールやFAXで送ってしまえば良いのだ。注文者が気にしていないのなら、こちらから連絡をするほどのことでもない。放っておけば良いだけの話である。


 どかどかと階段から音がしたとき、今度こそ鉄だろうと美優はそちらを振り向いた。けれど、階段の上に立ったのは鉄じゃなかった。昨日、鉄と一緒にいた男のうちのひとりだ。

「見積、できてる?」

「あ、はい、こちらに」

 もうプリントして社印も押してあるそれを、手渡す。

「これ、ロゴ変更できる?」

「複雑に変更でなければ、大丈夫です。大きさと文字数で決めてますから」

 答えながら、妙ながっかり感だ。何故鉄じゃないのか。

「どれくらいかかるの?」

「モデルとロゴが決定すれば、一週間ほどでできます。十月に入ると業者が混んじゃいますから、今のうちなら」

「ふうん。じゃあ、日曜日にもう一回打合せするから、それから注文する」

 男はそんな風に言って、階段を下りて行った。


 何よ何よ、てっちゃんが来るんだと思ってたのに。だいたい、あれって仕事用じゃないよね。『ひまじんオール☆スターズ』って、なんてダサいネーミングよ。

 膨れっ面をして、ポロシャツを着替える。別に膨れるようなことはされていない。仕事の依頼が来たから仕事をして、客の要望に応えただけだ。そしてそれは確実に売り上げに繋がる予定のやりとりである。


 なんだか私、支離滅裂じゃない? 別にてっちゃんが来なくたって、いいじゃん。売上が上がりそうなんだから、喜ばなくっちゃ。しかもあれ、六万以上の見積だよ。いっぺんにそんな売上、二階では滅多にないじゃない。

 自分に言い聞かせて、自転車を漕ぐ。言い聞かせるべき理由が見つからず、生理が近いからということにしておく。まったく面白くない。



 鉄が姿を見せたのは、翌月曜日だった。少し涼しい風の立った日で、まだ早い羽織物が数枚動いた。

「よう、この前は見積ありがとうな。あれで決まったから、正確な枚数とロゴ持ってきた」

 ロゴをプリントした紙をひらひらさせて、鉄がカウンターの前に立つ。

「ご注文、お待ちしてました」

「あれ、何か怒ってる?」

「怒ってません。ありがとうございます」

 わざとぶっきらぼうに言う理由が、自分ではなんとなくわかっている。だけどそれを鉄に悟らせるのもまた、やっぱり面白くない。


 なんとなーく面白くない気分のまま、発注書を切る。全部で十七枚の軽いブルゾンは、光沢のある黒だ。入荷すればこれに預かったロゴを入れるために、刺繍店に持ち込まなくてはならない。普段なら、鼻歌交じりで行う作業だ。いっぺんに大量注文で、利益率も悪くない。ってことは、来月の仕入れ経費も上がり、冬服の入荷の予算繰りがそれだけ楽になる。今月中には先買いできる在庫を揃えて来月に備えるつもりだったが、はじめて季節ものを計画的に入れようとしているのだから、不安がつきまとう。


 入れ過ぎちゃって売れ残ったら、それはそれでひと悶着ありそうだし。でも入れないでおいて、防寒着が古いモデルしかない作業服売場ってどうよ?

 最近お馴染みになってきた客たちは、カタログを持って帰っている。あれが欲しいこれが見たいと思っても、現物がなければ見られる場所を探す。そして現物確認した場所以外の店に、注文はしないだろう。つまり、ブツがなければ売れないってことだ。紙を見ただけで、カッティングも風合いも見ずに注文なんかしない。硬貨数枚で買うものじゃない。少なくとも、紙幣が動くものなのだから。


 仕事に私情なんか挟んじゃダメだってば。挟んでないよ。特別に値引きしたわけでもないし、便宜図ってもいないじゃん。じゃあ、あのぶすったれた対応は何よ、客に見せる顔じゃないでしょ。

 自分の中で不毛な言い争いが起こり、どうでもいいじゃんとツッコミを入れるのも、自分自身だ。この感情がどんな意味を持つものなのだか、美優自身はもう気がついている。気がついてはいるが、認めたくはない。認めてしまったら負ける気がする。

 負ける……何にだ。何かにだ。何かって、何?


 自分は半袖のポロシャツを着ているのに、冬物のことばかり考えなくてはならない不思議。それが仕事だろうと言われればもちろんなのだが、自分の目は他人が翌月に望んでいることを見通せるほど、力はない。ああだろうかこうだろうかと予測しながら選び、当たったときが小売業の醍醐味だと学習するほど、小売業に慣れてはいないのだ。

 そうして冬物のことばかり考えていると、とんだもので道草を食う。


 秋は台風シーズンだと、知らなかったわけじゃない。ただ頭になかっただけだ。台風の予報で自転車は止めておこうと電車で通勤した日、昼過ぎにカラになったのは長靴だったか合羽だったか。

 九月中に定番の、手袋と靴下と安全靴を揃えてしまうつもりだった。それでも美優の計算では予算が少し残るから、作業着の出やすいサイズを買い増しして、売り場の充実を考えていたのだ。

 作業着の買い増しどころじゃない。鳶合羽なんて一個もないじゃないの、雨の日にダブダブのもの着てどうすんの!ああ、軽いレインコートもMとLは全然ない、長靴で残っているのは、一番小さいサイズだけじゃない!


 月も半ばを超え、美優の発注金額はもう調整段階に入っている。全部揃えてしまったら、多分今月の予定が狂って予算が大幅オーバーになる。それでも入れないわけには行かない。次の台風の情報が入ってきているのだ。置いておけば今回の台風で買いそびれた人が購入するが、なければ肝心な時に必要なものを置いていない店だと印象づける。つまり、担当者がいなかった頃の二階だ。

 今は私が管理してるんだもん、放置されてたときと違う。お客さんだって私が管理してるってわかってるんだから、欲しいものを用意していないとなれば私の落ち度だと思われる。

 客に月予算がどうのと説明するわけには行かないのだから、店の代表として頭を下げるのも当然美優自身である。頭を下げるのは構わないが、そこに貼られる「何もない店」のレッテルを剥がすのが大変だ。


 普段はまったくアテにできない店長だが、美優の上司だ。ダメモトで相談して予算オーバーは担当者の責任とか言われたら、そこで店の方針だと腹を括るしかない。必要なものをざっと紙に書き、原価と数量を記入して合計金額を出した。

「……全部で十万近くになっちゃうじゃない。てっちゃん、雨の日は現場は休みだって言ってたのに」

 作業服売場の客が、全員外作業なわけじゃない。


「なきゃ売れない。オーバーしてもいいから、発注して。俺の名前で注文書切っていいから」

 松浦はそう指示した。店長はやはり店長であり、先週からの雨具の販売数は正確でなくとも把握していたらしい。

「もう全然ないの?」

「鳶合羽と長靴はカラです。それ以外の不足も多いです」

「全色じゃなくて、色を絞って三分の二くらい入れて。それで多分、今回は乗り切れるから」

 頷いて、頭の中に発注数量を組み立てる。相談はしてみるもんである。

 


「なんかこの前、怒ってたみたいだからさ」

 鉄が差し出した炭酸飲料を、遠慮なく受け取る。ここは売場だなんて言っちゃいられない。秋なんて一生来ないんじゃないかと思う暑さだ。九月も終わりだというのに。

「別に怒ってないよ。でも、ありがたくご馳走さま」

 それでもなんとなく、不思議な距離である。

「上着、いつできる?」

「明日引取りに行く予定。何のクラブ? あれ」

 鉄はにやっと笑った。

「だせー名前だろ、あれ。親父の代から変わってないから。草野球とか飲み会とかさ、人数いる会社みたいにサークルってないじゃん。だから親父たちが、横の繋がりで作ったみたい。で、初代たちから体力とかで入れ替わりながら続いてんの。おっさんたちはおっさんたちで、まだ遊んでるんだけどね」

 あ、女の子の入っていけない世界の話だ。お母さんの入っていたサークルになんて、娘は入らない。


「まだ上着なんていらないけどよ、来週の試合のときに着たいみたいだから」

「試合?」

「野球だよ。相手は柿沼運輸だけど」

 その会社なら、知ってる。社員全員分の安全靴を購入してくれた。

「てっちゃんも野球するの?」

「おう、運動神経はいいと思うよ」

 確かに外見から判断すれば、運動神経は良さそうである。


「ところで、今日は何をお求めでしょうか?」

 ついうっかりと、雑談だけで終わらせてしまうところだった。鉄は伊佐治の客なのである。

「階下したで修理に出してたヤツ、取りに来ただけ」

 そう言いながら、鉄はカタログをぱらぱら捲った。

「これ、現物見たい。入れといて」

 指差したページを横目で見ながら、隣で清涼飲料水を傾ける。ワークブーツみたいな靴は、まだ足が蒸れそうだ。

「来月になってからでいい?」

 来勘の利かない会社だと咄嗟に考える自分に、ちょっと満足する。ちゃんと業者ごとの整理ができてるよって、自分を褒めたりしてみる。


「野球、見に来いよ」

 自慢じゃないが、美優は野球のルールもよく知らない。それでも見に来いなんて言われると、ちょっと気持ちが動く。

「野球って、全然わかんないんだけど」

「打ったら走って、ホームベース踏めば得点。応援だけなんだから、見に来りゃいいじゃん」

 応援って、何の義理で。しかもまだ紫外線は結構強いんですけど。頭の中で小さく反発するが、一生懸命普通の顔をしようとしている自分がいることも、知っている。

「ま、いいか。柿沼運輸さんもお得意様だし」

 しぶしぶの体裁で、結構乗り気だ。


「ヒマなら、メシ行かねえ?」

「おばあちゃんが作ってるんじゃないの?」

「ばあちゃん、婦人会だかの会合だもん。作ってくって言ってたけど、いねえし」

 その言葉で瞬間、吹き出しそうになった。食事の用意がしてあるのに、おばあちゃんが留守なら家では食べないって言ったも同じだ。

 おばあちゃんがいないと、どこで食べても同じだもん。幼稚園児の声で言いたくなる言葉を、美優は歯の奥で止める。きっとこんなことを言われたら、鉄のプライドに障る。

「社長とおじいちゃんは?」

「あ? 勝手に食って勝手に寝るんじゃねえ? 今頃もう、風呂だよ」

 美優の自転車は、早坂興業の名の入るバンに押し込まれたのだった。

 

 この前向かい側に座ったときには、間にカタログを挟んでた。共通の話題なんてそんなにないし、せいぜいが花火のときお世話になった社員さんのウワサや、作業着のこと――なんてね。プライベートをほんのり知ったくらいで、いきなり話題は広がるもんなのだ。たとえば応援に呼ばれた野球の試合には、どんな人たちがいるのか。それの説明を聞くだけでも、立派な会話だ。だからカタログを見せて話の接ぎ穂にする必要がなくなる。そして一つの話が上手く繋がれば、次の話題に移行したときにバックグラウンドの説明が不要になる。つまり、相手に対する認識が深まる。

 人間関係の基礎レッスンみたいに、ぎこちなかった会話が少しずつスムーズになっていく。これは喜ぶべきことだろうか?


「みーって彼氏、いないよな?」

 飲み込もうとしたハーブティーを吹きそうになった。もう少し遠回りな訊き方でも良いように思う。

「いないけどさ。てっちゃんだって、私に応援に来いとか言うんだから、いないんでしょ」

 直球の質問には、直球で返すものだ。もったいぶって答えて、思わせぶりを喜ぶような相手じゃない。

「俺さあ、長続きしないんだよねえ」

 会話相手は、頬杖をついた。

「なんかさ、相手が『てっちゃんかっこいい!』とか盛り上がってるときにエンジンかかんなくて、その気になったときには『見た目と違ーう』とかって言われて。そうすっと、こっちも折れちゃうし」

 少し拗ねたような顔をして、愚痴る。男の内情をバラされてるみたいで、面白いといえば面白いけど、なんか少し違う気がする。

 ああ、私はそういう対象じゃないからぺらっと喋っちゃうんだな、なんて。


 見た目と違うのは、納得できる気がする。いい加減に見えて生真面目で、気風が良くて男臭いけど甘ったれだ。一緒に遊ぼうと思っている女の子には地域活動や親から続いたサークルなんて理解できないだろうし、強い男の主体性だけに魅力を感じる女の子はエプロンだの「ばあちゃんが」だのってのは論外だろう。

 でも、実はてっちゃんの半分くらいってそんな感じなのにね。私なら、そんなとこもいいなあって思うんだけど。

 いや、私ならって何だ私ならって。断じてそんなこと思ってませんから。きゅっと唇を引き結び、自分に向かって否定してみる。気を抜くと、認めてしまいそうになる。


「ジャンパー、いつ取りに来る?」

「明後日かその辺。現金だから、いつでもいいだろ?」

「今月中に売り上がるなら、いつでもいいけど。じゃないと、来月の仕入れがちょっとね」

 客にはまったく関係のない話だが、できれば仕入れた当月に売り上げたい。月利益に反映すれば、実績の計算だってしやすい。

「金はもう預けてあるから、行くように言っとく」

 言っとくってことは、鉄が引き取りに来るのではないのか。少々がっかりしながら、チーズケーキを口に運ぶ。

「あ、これ、おいしい」

「俺も頼めば良かった。一口食わして」

 微妙な距離の、微妙なフォーク。


 店を出ると、夏とは違う風が吹いていた。一枚羽織りたいとまでは行かなくとも、もう肩を出した服装の時期じゃない。家の前に車をつけてもらい、自転車を降ろした。

「みーって、本当に普通の家の子なんだ」

「そう、平凡平凡。サラリーマン家庭見本だよ」

 去っていく車に手を振って家の中に入った美優の顔は、ちょっとだけ満足でちょっとだけ不満げだった。

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