衣替えは暦通りではありません
十月に入っても、昼は半袖の日が多い。まだ防寒服の入荷は少ない。発注はしているのだから、生産が上がり次第入荷する予定なのだ。
「ねえ、辰喜知の半袖のポロシャツってもうないの?」
「今年はもう、生産が終わっちゃってるんです」
「まだ暑いんだからさあ、どこのでもいいから入れといてよ」
そんなこと言われたって、入れたときに買ってくれる保証はないのだ。次の台風のあとには急に気温が下がる予報である。曖昧に頷いて、スルーすることにする。客の要望をすべて取り入れると、わけのわからない在庫になってしまう。
「美優ちゃん、これね」
レジの宍倉が持ってきた発注書を見て、驚いた。結構値の張る辰喜知の防寒ジャンパーが、サイズ合わせて全部で三十二枚だ。社名を刺繍するのはもちろんとして、すべての内ポケットにニックネームらしき刺繍を入れるらしい。
「客注ですか?」
「うん。全員分作り直すからって。注文は決定だけど、先に金額連絡してあげて。どれくらい値引きするかは店長と相談すればいいから」
POSを開いて価格を確認し、掛け算してみる。単純に店頭価格で考えても、キャッホーと嬉しがる金額である。早速メーカーのWEB発注の画面を開いてみて、在庫を確認した。
「まだ、生産終わってない……」
秋冬のカタログは夏の終わりに来ているので、当然衣替えに合わせて商品が揃えられるのだと思い込んでいた。生産予定日を確認して、さらにぐったりする。
「十一月末って何よ、これ。もう発注は来てるんだっつーのっ!」
巷はまだ半袖なのだから、明日にでも欲しいなんて人は、いないだろう。それでも発注を受ければ、すぐに手配して売りたいと思うし客を二ヶ月近く待たせたくない。急に冷え込んで、まだできないのかなんてクレームにもなりかねない。客にどう説明しようか悩み相談する相手が、店長でなくて熱田なのは愚痴も聞いてもらえそうだからだ。
「ああ、メーカーさんは生産日をサバ読んでるから、遅くとも今月の末くらいに入ると思うよ。生産次第で頼んでおけば大丈夫。急ぎのお客さん?」
電話の声はあっさりと言う。
「急ぎってわけじゃないんですけど、いつになりますとかって説明しないとダメかなあって」
「適当で大丈夫だよ。今貰ったって、どうせ来月までは箪笥の中に入ってるんだから」
そりゃあそうかと納得し、やっと客先に連絡をする気になる。自分が納得できないので、他人に説明するなんて無理である。寒くなるまでに納品できれば良いとアバウトな許しを貰い、安心して発注する。
ほっと一息ついて定番の手袋や靴下をチェックしていると、階段の上に大荷物が置かれた。
「アイザックさんから納品だよー。段ボール、あと二つ」
そんなにたくさん何か頼んだかしらと納品書を見れば、先行発注の冬物である。十一月に生産が上がると言っていたから、今月の計算には入れていなかった。一括で二十万近い納品ですか!仕入れの計算が、ちょっとかなり狂うんですけど!
生産次第と言って発注したのだから、早く入荷しすぎだからとクレームを入れることは憚られる。うう、定番の発注控えなくちゃ……
「美優ちゃーんっ!前山被服から納品ーっ!」
前山さんって確か、金額は後から送りますとか言いながら連絡が来なかったんだよな。げげっ!十五万円!しかもまだ全部じゃない!
微妙に顔色を変えながら、値付けをする。とりあえず誰かの目に触れれば、先に動くかも知れない。売上が前月を大幅に超えれば仕入金額がオーバーするのは道理だから、今月の売上は何が何でも先月より増やさなくちゃならない。そうでないと、また仕入金額を考えてないのなんのと言われて、揚句来月の予算を削減とかなんとか。
いや、冬は身に着けるものが多いんですから、予算削られたら帽子とか厚手の靴下にまで手がまわりません。どれくらい出るのか知らないから、ちょっとずつしか発注してないけども。でも、三枚ずつ五種類頼んだだけで、十五枚になっちゃうんです。
うん、売れなかったらどうしよ。
じれじれと動かない冬物を横目で見ながら、ふと気が付くと夏物が売れている。まだ暑い日も多いもんなあなんて思っていると、今度は防寒服が入ったかなどと大きな声で言いながら階段を上がって来る人がいる。分裂を病みそうな気候だ。
「スキーソックスとあったかい肌着、ある?」
「あ、入ってます!」
早すぎたと思いながら陳列したものが、早速売れたりもする。
「夜間作業でさ、明け方が寒くなっちゃって」
小間物でも何でも良いのでとりあえず商品を動かすのが先決だ。本店の熱田に電話をかけて、相談したりもする。
「店の入り口にハンガーラック出して、薄手のヤッケとか出してみたら?安くてシンプルなやつなら、工具と一緒に買う人がいるよ。作業服売場はワーカーズとかの安いの買ってても、ヤッケくらいの金額なら気にならないから」
売り場外に商品を展示する?しても良いんだろうか、そんなこと。
「ちょっと目先変えるだけで、見てもらえるものも変わるよ。売り場のレイアウト、冬用に変えてる?」
変えてない。今までと同じようにハンガーにかけて、防寒ジャンパーも普段の作業服も同じように並べた。
「欲しいものをよりどりで選べるように、季節品は目立つ場所に専用コーナー作った方が見やすいと思う。ハンガーラックでもいいけど、これから内ボアの手袋とか帽子とかも入るでしょう?それも平面スタンドである程度見せとけば、この店には冬物が揃ってるんだって印象に残るよ。すぐに買って行かなくても、寒くなってきたなって時に思い出してもらえるでしょ?」
なるほど。言葉で案内するより商品をアピールする効果があり、美優が店に立っていない時間でも勝手に視覚に訴える方法なのか。
とりあえず、と空いているハンガーラックを引っ張り出し、店長に許可を求めに行く。店の入り口に特売の腰袋などが掛けてあるので、その横にと場所の目星はついている。
「階下したに少し、作業着を置きたいんですけど」
「ああ、入り口の辺に置いてね。それとね、防寒服で見せたいモデルがあれば、なんか映えるようにして階下にも二・三枚置いて」
こだわりなく返答され、却って驚いた。売り場以外にも置いていいのか。
「階下にも広げていいんですか?」
美優の驚いた顔に、松浦は呆れた顔を返した。
「あのさ、同じ店の中でしょう。どこに置いたって、売れれば店の売上なんだから。それとも、美優ちゃん一人の売上のつもり?」
放置されていた売り場だから、売上の増加にも協力なんてしてもらえないものだと思っていた。レイアウトの変更や棚の組み換えなんて女の力では難しいから、そのままのレイアウトで季節物の特設をしなくちゃいけない、なんて。
私は作業服売場の責任者で、発注担当で。だけどここって、私だけが売ってる店舗じゃないよね?電動工具も売上だけど、作業服も売上なんだよね?
ここは企業だ。対面販売の小売店でうっかり忘れていたけれど、個人で販売してるんじゃない。企業の利益を産むことが自分たちの向上に繋がるのなら、どんな形でも利益を産むことが大切なのだ。そのためならば、他の守備の人に協力を仰いだり、自分の立ち位置を変えても良い筈。
ん、と手足に力を入れて、入り口近くに置いたハンガーラックにヤッケを吊るす。軽い商品だから、品出しするのに力は貸してもらわなくても大丈夫。けれど、閉店時には店の中に入れてもらわなくてはならないのだ。
「ここにヤッケ出しまーっす!雨が降ってきたときと閉店時、店の中に移動お願いします!」
レジカウンターに声をかけ、頭を下げた。宍倉がうんうんと頷いた。
一階に出したヤッケは、美優の予測よりも動かなかった。けれど、何かの広告になったことは確かである。
「あのさ、Vネックじゃなくてチャックついてるヤッケない?」
「上下セットでも置いてる?」
二階までわざわざ来ない客が、一階のカウンターでそんなことを言う。それを受けたレジ係が内線をしてくると、美優は数種類のヤッケを持って下に降りて説明をする。軽い商品であり、簡単な受け答えだ。二階では口の重い客が、冗談の交わせる慣れた店員に自分の希望を言う。色が好みじゃないとかナイロンじゃなくてポリエステルがいいとか、腋がストレッチになっているものを入れろだとか、好き勝手だ。まだまだ拙い美優の接客では、聞きだせない情報を得られる――売上と情報の一石二鳥だ。
誰も助けてはくれないものだと思い込み、ひとりで悩んでいた期間は一体なんだったんだろう。ハンガーラックをたった一台、自分のテリトリー外に置いただけで。
だって、誰も教えてくれなかったんだもん。だから自分だけでやらなくちゃいけないと思ってたんだもん。
売場には自分しかいないのだから、美優が何に困っているかなんて気にかけてくれないのは、ある意味当然だったのだ。目の前で困っていれば手も差し出せるが、美優の姿は他の店員からは見えない。忙しい業務の中で、他人のテリトリーまでわざわざ出張る人なんていないのだ。
こうしたいので手を貸してください、ここが困るので手立てはありませんか。そう相談すれば、面倒がりながらでも力を貸してくれたのかも。
他人からの働きかけを待っていては、いけないのだ。自分から質問して相談して、助けを求めれば良かったのだ。そんなことに気がつくまでに、丸々半年かかってしまった。そして勝手に煮詰まったりして。
うん。企業なんだよね、ここ。自覚と共に現れた安堵で、深く頷く。肩肘を張ったつもりはなくとも、結果的に同じことをしていたのだ。言ってもらわなくちゃわからないなんて、単なる甘えだ。会社は理解できないことを放っておく人間を育てるほど、人が良くはない。理解できないのなら学ぶ姿勢を見せれば、手は差し出される。自発的になるのは客に対してだけでなく、同僚にも必要なことだった。
美優の定刻近く、階段からの声がする。
「みーさん、みーさん! クロガネさんのジャージ! あれって置いてるの?」
「うるせえよ、他の客の迷惑だろ」
すでに聞き慣れた声が、賑やかに階段の上に立つ。美優の頬に笑みが浮かぶ。鉄が購入したジャージのジャケットは、辰喜知の今年のデザインだ。街着にも対応できるカジュアルなデザインで、やんちゃな髪色の鉄にはよく似合う深い紫色だ。鉄自身がカタログから選んだものだが、手渡す前に試着したときに美優も嬉しくなってしまうくらい、鉄のキャラクターに添ったものだった。
「いらっしゃいませ」
迎える言葉は、客に対する礼儀だ。一緒に食事に行ったり連絡を取り合ったりする仲でも、ここでは客と店員。金銭の受け渡しが行われる場所なのだから、自戒していないとトラブルになる。それは高校生のときにアルバイトをした経験から、学んでいる。新人のパートさんは近隣の人ばかりだから、知り合いが来店すると同じ立場のつもりになってお喋りしてしまい、正社員に苦い顔をされていた。
「クロガネさんだけ先に、新しいの買っててずるい! 俺も目立ちたい!」
「下回りが目立ってどうすんだ。もうちょっと待ってりゃ、親父が名入りの防寒服作るから」
「それって現場用じゃないっすか。じゃなくって、かっこいいやつー!」
白いシャツに濃紫のジャージをさらりと羽織り、オレンジの髪の下で鉄が笑う。リョウが美優に訴えるのを、仕方のないヤツだと甘やかすみたいな顔だ。
あ、やばい。この前野球の試合見に行ったときも思ったけど、てっちゃんは女の子が中に入った会話より、男同士のやりとりをしている方が断然良い顔になる。
それに気がつくことが、何の危惧になるんだろうか。まずいのは、それを良い顔だと認識してしまう美優自身だ。その表情を自分に向けて欲しいとか思っちゃったら――思っちゃダメ! 負ける!
負けるって、一体何に対してだ。
今年最後だと天気予報で言っている台風は、少々強烈なものだった。西の被害が報道された途端に、美優の売り場から長靴とレインコートが消えた。発注して当日に入荷するようなものではなく、商品よりも台風のほうが先に到着しそうだ。客からクレームになっても、もう仕方ないだろうと腹を括るしかない。ヘビーで高機能なレインコートもポケットに入るような使い捨ても、全部品切れ。
ストックがないことが品切れの原因なのだとはわかっていても、潤沢な予算はないのだ。売場の商品を万遍なく揃えようとすれば、当月に売れる保証はなくとも仕入れなくてはならない。でないと棚もハンガーもスカスカと空いてしまい、はじめの頃のように寂れた様子になる。
うん、はじめの頃はあんなに商品がなかったんだし、長靴なんて置いてなかったもん。だからきっと、なければないで何も言われないでしょ。
美優は甘い。
人間ってのは驚くほど慣れるのに早い。売り場に何もない時期は長かったはずなのに、一回でも揃っているのを見れば次回も当然揃っていると思ってしまう。
「おねえちゃん、合羽ないの?」
「長靴くらい揃えとけよ、ダメだなあ」
「二階は役に立たないって、店長に言っとく」
「売切れたって? 在庫くらい普通の店ならしてるよ」
「肝心のもの置いてないんじゃ、売り場に人がいたって仕方ないじゃん」
ぺこぺこ頭を下げながらサンドバッグになっても、基本は自分の不備でないので上っ面だけで反省した顔をするだけだ。いくら文句を言われたって用意できないものは用意できないし、相手も言い訳が聞きたくて言ってるんじゃない。欲しいものが目の前にない腹立ちを、そのまま美優にぶつけてるだけである。
それでもやっぱりゴツイ男に強い口調で言われたら、怖い。いちいち怯えた顔になってしまう自分も悔しいが、危害を与えられるわけでもないから助けを呼べない。
「台風のニュースはあったんだから、準備が悪いんじゃないの?」
多分美優よりいくつか年上の男が、棚板をガンと蹴った。以前、接客が悪いとひどい因縁をつけられたことがある。その時のことを思い出し、心臓が早鐘を打った。ああいった客は誰が悪い悪くないじゃなくて、絡みたいから絡むのだ。
「申し訳ございません。こちらの見込み違いで……」
睨みつける客に、美優はただ頭を下げる。
「みー坊ちゃーん、俺の合羽あるー?」
呑気な声で階段を上がってきたのは、鉄の父だ。台風の情報が来てからすぐに電話をもらって取り置きはしていたのだが、いかんせんタイミングが悪すぎる。
「少々お待ちください」
「いや、車を路駐しちゃってっからさ。兄ちゃん、悪いね」
合羽合羽と騒ぐ男の前でレインコートのパックを出したくないが、不正に隠しておいたものじゃないのだから責められる筋合いはない。仕方なくカウンターの後ろの棚から、名前を貼りつけた商品を取り出す。目敏く確認した男が、舌打ちする音が聞こえた。
「お得意さんに出す商品はありますってか。客を見る店だなあ」
早坂興業の社長は、首だけを斜にして男を見た。
「何か俺に言いたいことあんの、兄ちゃん?」
鉄と同じように、相手にダイレクトアタックである。鉄みたいに最初から殺気立ってはいないが、年齢分の威圧感が加算される。
「さっきその女が在庫はないって言ってたのに、出てきたから……」
その女呼ばわりは失礼だが、相手が格上だと理解できないほどバカじゃないらしい。男はちゃんと返事した。
「ああ、合羽欲しかったの? どこも在庫がなくなるのはわかってんだから、予約しときゃいいんだよ。知恵つけなくっちゃ」
早坂社長は自分の頭の横を人差し指でつつき、男にレインコートのパックを差し出した。
「Lで良けりゃ、兄ちゃんに譲るわ。どうせ明日は働く気ねえし」
ニヤッと笑い、またねと空手で階段を降りる早坂社長に最敬礼したのは、美優だけじゃなかった。
「なんか、あのおっさんに悪いことしたわ。これ、もらってくな」
絡んできた男は勢いを失くしてレジに向かい、美優は次に入ってきた客に歓迎の挨拶をする。階下から吹き上げて来る空気は、少々湿気を纏っている。台風が近くなっているのだろうか。
内線電話が鳴り、松浦から客注が告げられた。
「鳶合羽各サイズ、ニ枚ずつね。早坂興業さんの伝票で、急ぎじゃなくていいから揃えといてくれって」
男に商品を譲りながら、自社の社員が持っていなかったらと考えたのだろうか。安価なものではないのに。
鉄パパ、かっこいいな。さっきのやりとりも、相手が不愉快になるでもなく、遠慮を促すわけでもなく。
ほおっと溜息を吐くと、美優の定時になった。
朝からひどい雨と風で、傘などまるで役立たずの日だ。着替え一式持参で出勤したけれど、来店する客などいやしない。いや、正確にはまるでいないわけじゃない。雨が降っていても内装工事はできるし、現場が休みの時にゆっくり工具を眺めに来る人も無きにしに非ずだ。けれど、店の中は概ね静かだ。
美優の売り場にも、ときどきひやかし客が入ってくる。けれど真剣に欲しいわけじゃないから、売り場をぐるっと一周してつまらなそうに降りていく。
はっきり言って、超ヒマである。アパレルメーカーは西が多いので、台風が理由で運送が乱れ、商品が入って来ない。客がまばらに入ってくるので、うっかり棚の移動なんかできない。
本当はこんな時に片付ければ良い紙仕事(単品の見積とかPOPを作るとか、探せばいくらでもある)には全然気が行かず、カウンターに頬杖をつく。まだ動きの緩い季節物を眺めると、溜息が出そうである。
マネキンでも着替えさせようかとボディを外し、カーゴパンツを穿かせて身長を決めようとして、ふと肩の高さが気になった。
てっちゃんって、ちょうどこれくらいだよね。私、顎より少し下くらいだもん。
何故そこに鉄を連想したのかは、自分には深く問わないことにする。カーゴパンツだけ履いたマネキンの前に立ち、しみじみと布張りのボディを眺めた。祭りの晒しを巻いた腹と、その上の筋肉質の胸が。
「おい、みー」
「ぎゃーっ!」
階段の音には、まったく気がつかなかった。そんなに熱心に、マネキンのボディを眺めていたつもりじゃなかった。そしてまさか、身長とか裸の胸とか考えているときに、後ろから声をかけてきたのが当人だなんて。
「どどどどうしたのっ」
「どうしたのじゃねえよ、客だよ」
鉄は呆れたように肩を竦めた。
「何も考えないで、ぼけーっとつっ立ってたんだろ。万引きし放題だな」
何も考えてなかったわけじゃなくて、考えていたのだ。内容は言えないが。
「防寒服、去年と同じヤツで五枚。サイズと名前書いてきた」
「ええっと。辰喜知のパイロットで、カラーはブラック? 左胸に社名で左肩に個人名、だよね」
パソコンでデータを出しながら、モデルを再確認する。このあたりの作業は慣れたものだ。
「それは会社につけといて。あとさ、急ぎじゃないけど親父から合羽……」
「うん、手配しました。明日には入荷すると思うけど、流通がちょっと乱れてるみたいで」
そう答えてから、少しつけたした。
「社長、かっこいいよねえ。冷静でやさしくて、偉ぶってないし」
父親であり社長である人を褒めたのだから、それを聞いた鉄の表情に意表を突かれた。尤もすぐに、普段の顔になったが。
なんだろ、あの顔。
「今日、まさかチャリじゃねえだろ? どうせリョウ送るから、一緒に送ってくわ。あとで来るな」
「リョウ君、仕事してるの?」
「いや、これから算数教えんの。あいつ、分数で引っかかってんだ」
ああ、そうか。前にそんなことを聞いた気がする。まだ続いてるのか。本当に面倒見が良いんだなあ。
階段を降りていく鉄に頭を下げていると、すれ違うように次の客が入ってきた。カタログ片手だ。
「ジャンパー作りたいんだけどさあ。どれくらいでできる?」
「お取り寄せですと、一週間から十日ほどいただきます」
「全部で二十枚くらいかな、ロゴ入れられる?」
そんな会話の後ろで、冬物の作業着を選んで待っている人がいる。
「お客様、レジは一階になります」
「いや、会社のユニフォーム作ろうかと」
台風の風がおさまったらしく、気がつけば階下も賑やかになっている。昼過ぎまでの過疎な感じが急になくなっていく。
そして二階にも急にちゃんと用事のある客が、何組か来た。主に防寒用のジャンパーの注文だ。嵩張るものでもあるし、普段の作業着よりも高価だ。嬉しく応対しているうちに、美優の定時は近くなる。今月の仕入れと売上の対比はこれでクリアかな、なんて。
十月も末近くになってから、受注の大波が来た。衣替えは十月一日っていうのは、学校や決まった職業の制服だけなのかも知れない。一枚羽織って歩くのが当たり前になってから刺繍のデザインなんか持って来られたって、無理が利くわけがない。刺繍店は伊佐治専属じゃないんだから、他からも当然依頼が増えているのだ。
「申し訳ありません、刺繍は二週間ほどお待ちいただくことになります」
「寒くなっちゃうんだからさ、急いでよ」
「皆さんそう仰るので、刺繍店の作業が間に合わないんです」
「いつも頼んでるんだから、融通利かせてよ」
寒くなるのはわかりきっているのに、何故ギリギリまで発注せずにこちらに持ち込むのか。急げとか言われたって、入荷検品も刺繍も人力なのだ。
「ロゴのデザイン変えたからさ、新しいので作ってくれる?」
「デザインデータでお持ちですか」
「いや、名刺に入ってるから」
差し出された名刺に、浮かび上がるエンボス加工。それをどうやってスキャンしてデザインデータに取り込むのかなんて、考える客はいない。
「新しく型を起こすと、三週間程度かかるかも知れません」
「そんなに待てないよ。天下の伊佐治さんなんだから、急がせてよ」
客は自分が工具や金物で大きな金額を動かしているから、伊佐治は儲けているものだと思い込んでいるが、個人企業の小売店がどれだけの利益だっていうのだ。まして作業服数枚で何を言うやら。
「なるたけ急ぐように言いますので。制作できましたら、すぐにご連絡します」
口から出まかせで注文を受ける。毎日のように持ち込む刺繍店の店先に、普段の何倍もの段ボール箱が積まれているのだ。無理を言って次からの取引が気まずくなったら、そっちの方が困る。
「大きいつづら、三つ来たよ」
「もー品出し、やだーっ!」
暇を持て余してハタキをかける日が欲しい。出勤して売り場を整えると、午前便が入荷してくる。それを検品して客注と店頭用に分け、棚に商品を出しながら在庫をチェックして発注書を書く。防寒用でもないのに、手袋がやけに動いている。靴もハイカットやブーツタイプが出始め、季節が変わったのだと売り場で実感できる。すでに今月分の予算は軽くオーバーしてしまっているが、それについては了承を得た。店長はプロフェッショナルなのだから、季節代わりに予算オーバーするのは予測できていたらしい。追加予算についての許可は出すから、新規品の入荷ではなく補充であれば問題ないと言った。
「来勘に流せるものは全部来勘にして、あとはもう……」
松浦も忙しいらしく、美優の相談ごとにPOSから目を離さずに言う。
「あとはもう、なんですか?」
翌月の予算を削られると困る美優としては、ここで言質を取ってしまいたい。しっかり返事を聞かなくてはならない。横に立つ美優が動かないので、松浦はやっと顔を上げた。
「あのね、売れれば正義だから」
売れれば正義!
一言発した松浦は美優の驚いた顔を見て、そこまでの経験がないことをやっと思い出したらしい。ああそうかという顔で頷いて、ちょっと笑った。
「悪いね。階下は階下で目一杯だから、来てくれないと何に困ってるか気がつけないんだよ。毎日の集計してるから、手袋と靴が伸びてるのは知ってる。売れたものを仕入れないと売るものがなくなるのは当然だから、仕入れていいよ。ただ目安としては金額が決まってるんだから、クリアに近付けて努力はしてね。だから来勘を使えるものは使って」
仕入について、こんな風に説明してもらったのははじめてだ。闇雲に予算予算と言われているような気分になっていたのだが。
「もう半年売場に立ってたんだから、なんとなく理解してるよね。小売業って、商品を売ることが仕事でしょ。逆を言えば、売れれば仕事なんだよ。イカサマなしなら売れれば正義!」
正義ですか。
客注の伝票処理をして、刺繍店に持ち込むものを仕分けていると午後便が入荷してくる。刺繍店に持ち込むものをドライバーに渡して一息吐くと、仕上がったネーム入り商品が戻ってくる。それを検品して依頼客に電話すると、定時なんか過ぎてるのだ。
過ぎてたって客は来る。接客中に定時だから帰るとも言えないから、仕方なく受け答えする。
「お先に失礼しまーす」
「あれ、まだいたの?」
「いました!」
この会話は、何度か繰り返されるのだ。
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