需要があっても供給できないこともあります

 目の前にそそり立つカラフルな壁を、猿のような身軽さですいすい登っていく男を、美優は見ていた。簡単なレクチャーの後の初心者コースで、美優の筋肉は悲鳴を上げているというのに。

 何故、ボルダリング。もう少し色っぽい(デートっぽい)場所もあるだろうに、鉄が選んだのはそこだった。


 食べ放題ならば、その前に運動して腹を減らすべきだと鉄が言い、何をするかは選んでおくと言った。前日に動きやすい服を持って来いとメッセージは来たが、おそらくスポーツ系のエンターテイメントな施設で遊ぶのだと思っていた。せいぜいオートテニスかボーリングくらいかな、なんて深く考えもせずに、短いスパッツとスウェットのショートパンツを持参したのみだ。

 車を駐車場に乗り入れてから、何か自分が予測していた場所じゃないと気がついた。

「何、これ。やったことないよ?」

「俺もない。おもしろそうだろ? 靴とかは貸してくれるみたいだし、ちゃんと講習もあるってから」


 テレビでしか見たことはないし、バラエティ番組では失敗した部分だけをクローズアップして放映するものだから、経験してみたいと思ったことなんてない。こんなにがっつりじゃなくて、なんかこう笑いながらコミュニケートできるものは思いつかなかったのか。

 あ、登り終った。ってか、初心者コースじゃなくて初級者コースだよね、それ。筋力とバランスに自信があるっても、そのドヤ顔はちょっとムカつく。どうせ私は何回も落ちましたよ。


「なんか、すっげー達成感っつーか征服感っつーか。俺は山登りはしないけど、こんな感じかなあ」

「山なら景色を楽しむとかできるけどさ、ここって室内じゃない」

 まったくおもしろくなかったとは言わないが、継続してどうこうって気分じゃない。

「え? つまんなかった?」

「そういうわけでもないけど」

「食前のいい運動じゃん。腹減った」

「……明日、筋肉痛になりそう」

 鉄は笑いを浮かべて、美優を見下ろした。

「意外にヤワだな。ま、女の子だしな」


 溢れ出るマッチョイズムである。筋力に男女差はあるだろうが、もしやとは思う。声に出して確認して良いものやら、胸に秘めておくものなのやら。

 身体能力を自慢したかったんですか、てっちゃん。

 そうなのだとしたら、褒めてやったほうが良いのかも知れない。それとも気がつかないふりをすべきか、悩むところだ。だってほら、好きだとか言われたわけじゃないし。つきあおうとか言われたわけでもないし。男を強調した部分だけ見てるみたいで、やらしくない?



 一緒に食べ放題スタイルの店に入り、お互いの皿を見較べる。ボリュームのあるパスタを大きな皿に盛りあげて、これでもかと乗せられるだけ乗せたサラダボウルを前にし、美優は一瞬二人分とって来たのかと思った。けれど自分のものは持ってきてしまったしとか考えていると、迷うことなくそれにフォークを突き刺す鉄が見えた。

「なんだ、そんだけしか食わねえの?」

「スイーツがメインだもん。おなか、取っておかないと」

「別腹ってやつに入れりゃいいじゃん。ばあちゃんも腹いっぱいだとか言いながら、ケーキ食ってる」

 中央のテーブルに美しく並べられたタルトやケーキを遠目に見ながら、何を食べようかと考えている最中である。

「だってさ、ベリーのタルトとフルーツロールケーキ、両方食べたいもん。和栗のモンブランとイチゴも食べたいけど、貰って食べきれないのも失礼だからなあ」

「なんだ、二個くらい」


 大量のパスタを口の中に入れて咀嚼し終えた鉄は、良い考えを思いついたとでも言いたげに、美優に提案した。

「食いたいもの全部、とりあえず持って来れば? で、みーが味見して残したやつ、俺が食うわ」

「てっちゃん、自分が食べたいものないの?」

「いや、特には。みーが嬉しいんなら、いいや」

 食べるものをシェアするとか、超カップルっぽいんですけど! 美優の頭の中だけが、結構な高速回転である。鉄は別に何か意味を持たせて提案しているわけじゃなく、自然に出た言葉みたいだ。

「ばあちゃんもよく一口だけ食べたいとか言うし、問題ないだろ」

 ばあちゃんと同じですか。嬉し恥ずかし状態から、一気に熱が冷めた。忘れていたが、こういう男である。


 食べ放題の時間が終わってしまえば、することは何もない。鉄につきあってスニーカーを見たりしても、ファッションセンスが違い過ぎて相談にもならない。けれど鉄自体は非常に陽気で、ボルダリングにまた行こうぜーとか言っているのだ。

 よくわからないが、鉄は楽しかったらしい。ニコニコ機嫌よくされると、自分もとても楽しい、特別な時間を過ごした気分になる。多分きっと、今日は良い日だった。


 送られた車から降りるとき、鉄はふいに思い出したらしい。

「ダブヨンの皮手、入った?」

 とても人気の高い革手袋の供給が、滞りがちになっている。品番からダブヨンとニックネームがつくほど、知名度が高い。

「メーカーにも問い合わせたんだけどね、皮が足りなくて生産できた順にしか送れませんって。うちも受注残で残してもらってるんだけど、発注した数では入らないと思う。入ったら連絡するね」

 デート(らしきもの)の別れの会話が仕事になるのは、どうしたものか。


 噂のダブヨンの手袋の話が卸し問屋からあったのは、火曜日の午前中だ。

「二号店さんに割り当てられるのは、二十双です」

「三ヶ月近く品切れてて、たったそれだけですか? 次の入荷はどうなんです?」

「全然予定が立たないみたいなんですよ。もし切り替えられるのなら、違うモデルの紹介をしていただいて……」

「紹介はしてます。でも、お客様がダブヨンじゃないと納得してくれないんですよ。なんとか入りませんか」

「いや、実は廃番になるって話があって。もしかしたら最後の入荷かも知れないです」

 受話器の中からの声が小さくなり、反対に美優は悲鳴を上げた。

「困る困る! 待ってる人、いっぱいいるのに!」


 電話の声も困っていた。生産できないものは生産できないのだし、欲しいと言った人が供給できない原因を解決できるわけじゃない。

「一番困ってるのは、メーカーさんだと思いますよ。売るものが生産できなくちゃ、何もないんですから」

「ああ、それはそうですねえ。でも困るなぁ」

 お互いに溜息を吐いて電話が終わった。駄々を捏ねてもどうしようもないのは、美優だってわかっているのだ。


 受注残はどれくらいあったかと、リストを見る。手袋を一双だけなんて注文する人は、少ない。次に来るときに買うから、入ったら五双くらいキープしといてーってなもんだ。どうにか振り分けるためには、数量を制限して販売するしかない。

 そんなことを考えてる最中に、松浦が受注票を持ってきた。

「美優ちゃん、注文。ダブヨンの手袋三十双取って」

「すみません、メーカー欠品です」

 間髪を入れずに返事してしまう。

「どこもないの? 何件か確認してよ」

「全国の鳶さんが探してますけど、ないんです」

 と、少々話を盛った。

「明日少し入ってくる予定ですけど、全然足りません」

「じゃ、それ全部こっちにまわして」

 松浦の大口の客なのかも知れない。けれど問屋の話通り廃番になってしまったら、とても希少な品になる。それをすべて同じ会社に渡したくない。できれば来店した人に、事情を説明しながら販売したい。


「無理です。予約だけでマイナスなんですから」

「こっちは電動工具も同時注文だし、まとまった金額での取引なんだから」

 一括の現金取引なら、松浦としては便宜を図りたいのは理解できる。けれども美優としては、単価は低くとも普段から二階に顔を出してくれる顧客たちを、是が非でも優先したい。大口で機械的に配られるよりも、欲しくて待っている人に対応したい。

「言いましたけど、全国的に欠品なんです。やっとの生産で、近隣の他の店舗も少量ずつでも入荷します。何故ウチに入らないのかってクレームが来たとき、店長が対応してくれますか。入荷したけどアナタに売る分はありませんでしたなんて、私は言えないです」

 端っから喧嘩腰だ。自分が発注して自分が管理する商品を、勝手に持って行かれてたまるもんか。

「じゃ、すぐに次の発注して。遅れるって言っておくから」

「ケースで発注してあります。次の生産は未定です」

「それじゃ注文にならないじゃない。卸しじゃなくて、メーカーに直接訊いてよ」

「メーカーからの返答です。廃番かどうかは検討中だそうです」


 松浦はムッとした顔をしている。これまで安定供給のあったものが欠品なんて想像もしていなかっただろうし、多分客先とは価格を含めて納期の話を進めていると想像できる。

「じゃ、十双で勘弁してもらうから」

「出せません。何種類か他のものを提案しますから、選んでいただいてください」

 譲るもんか。ここで同意してしまったら、待っていてくれる人に行きわたる数が少なくなる。お待たせしました、少なくて申し訳ございません、そう言いながら渡したい。そして廃番の可能性があるからと伝えなくては。

「同等品ってどれ?」

 不機嫌な顔のまま松浦が言う。数点を手に取り、渡してみる。

「他に何社か、同等品の紹介を頼んでます」

「なんか、どれもこれもしっくり来ないな」

「だからダブヨンのファンが納得しないんです。でも廃番になるんなら、先に根回ししないと」

「廃番は決定じゃないんでしょ? 待てそうなお客さんには待ってもらって……」

「待ってもらった挙句に廃番なんて、トラブルが見えてるじゃないですか」


 客が松浦に対する態度と、美優に対する態度は違う。美優が難しいと断ったものを松浦のところに持って行き、それが美優にもう一度持ち込まれることは多い。そして松浦から断られて、客はやっと納得するのだ。アルバイトのおねーちゃんが仕入れやメーカーとの折衝をしているなんて思っていないか、エラい人から頼めばメーカーは無理を聞くものだと思っているか、どちらかである。

 両方、ハズレ。小さな小売店一件のためになんて、社会は動いてない。


 絶対にまとめては出さないと言い張り、松浦がしぶしぶ折れた。

「じゃあサンプル借りてくよ。でも続けてフォローしといてね」

 階段を降りていく松浦に、あっかんべーと舌を出してみる。売り場のお客さんを優先させるのだって、ちゃんと担当者なりの理由があるの! ただ意地になってるだけじゃないんだからね!

 そしておもむろにスマートフォンを掴み、鉄にメッセージを打ち込んだ。

『ダブヨン、明日入る。でもお一人様二双までの限定です』


 翌日入ってきたダンボールをいそいそと開き、待っていた手袋をカウンターの下に押し込んだとき、内線が鳴った。レジの宍倉の愛想の良い声のあとに聞こえたのは、包みを開いたばかりのダンボールの送り主だ。

「ダブヨンの手袋、届きました。ありがとうございます」

 まず礼を言い、相手の言葉を聞いた。

「そのダブヨンの手袋なんですけど、来週また三十くらい入れられそうです」

「え、嬉しい! ちょうど店長から三十って客注があるんです。これからは生産、安定するのかな」

 受話器の向こうで、相手は少し考えるふうだった。

「それね、多分最後になります。後継モデルの工場が決まったって言ってたから、入荷するとしてももう一回あるかどうかでしょう」

 半分予測していたこととはいえ、がっかりしてしまう。この商品はかつて、美優自身が客からリクエストを受けて在庫を決めたものだった。


 入荷の追加があることは、店長には言わないでおこう。咄嗟にそう決めて、カウンターの下のストック場所を大きく開けた。見える場所に置いておくと、勝手に持っていかれてしまう危険性がある。もしくは在庫があるならと、纏めて買おうとする客がゴネる気が。

 合計でも残りは五十双しかないのだ。ひとり二双としても、多くて二十五人。無くなる前に複数回来店する人がいるだろうから、実際に手渡しながら廃番の説明をできる人は、もっと少なくなる。

 そして私的な感情を、ここに入れてしまいたい。もしも鉄が必要とするなら、彼にだけ他の客より多く販売してやりたい。これくらいの身贔屓は、許されてもいいような気がする。


ほどなくして入って来た客が手袋の棚の前で、入ってねえなぁと呟いているのが聞こえた。ダブヨンのことだと、すぐに気がついた。それでも店員と言葉を交わすのが面倒な人は、入っていない入っていないと言うだけでそのまま階段に向かうことが多い。けれど今回は説明しておかないと、何度も無駄足をさせてしまうことになる。

「ダブヨンですか?」

「そう。もう入れないの?」

「材料が入らないそうです」

 客は溜息を吐いて、他の革手袋に手を入れてみたりしている。

「実はさっき、少量入荷しました。お一人様二双までなら、どうにかお出しできます」

 初っ端から数量限定はイヤだとゴネられたらどうしようかと、警戒する。

「二個? それだけ?」

「はい、本当に希少品になってしまってるので、それで精一杯なんです。ごめんなさい」

「で、それでおしまい?」

「もう一回か二回、入って来るかも。時期は未定ですし、廃番の可能性が高いです。他の商品も検討しておいていただいたほうが良いと思います」

「マジかよ。一番使いやすいのに」

 とりあえずと二双だけ渡し、階段の上で客を見送る。自分が悪いわけでもないのに、申し訳ありませんと頭を下げる。


 美優の定時が終わるころ、鉄と早坂社長が揃って顔を出した。来店の挨拶をしながら、顔とか骨格じゃなくて雰囲気が一番似てるよねなんて、観察してしまう。

「ひとり二個しか買えないって?」

「そうなの。ごめんね」

 安全靴をブラブラ見ていた早坂社長が、その会話を聞いていたらしい。会話に入りこんで来た。

「何、革手? そんなもん纏めて十も買っときゃいいじゃないか」

「すみません。ダブヨンが製造止めっぽくて、もう限定でしか出せないんですよ。おひとり様、二双」

 考えてみれば、早坂社長が皮手袋を選んでいる場面は見たことがない。

「ふうん。俺には何双売ってくれる?」

 え、どういう意味? 二双って言ったよね?

「えっと、二双……」

「それは表向きでしょ。俺にはいくつ売ってくれるの?」

 ぐいっと来る早坂社長に、何か返事しなくちゃいけない。


 ここで五とか六とか答えてしまうと、次の入荷まで繋げなくなりそうな気がする。でも早坂興業は実際に二階でも良いお得意様だし、だけど社長は今まで手袋とか言ったことないし。

 美優の頭の中にめまぐるしく言葉がひしめくが、どう答えて良いものやら考えつかない。一瞬、鉄が横に立っているのを忘れた。

「わかんねえこと言ってんじゃねえよ、クソ親父。みーが困ってんじゃねえか」

 鉄が一歩前に出て、早坂社長に向かって言葉を発した。

「大体現場に出て来ないヤツが、いい革手買ってどうすんだよ」

「鉄が使うんだろ? 他の職人も」

「今まで革手の支給なんかしてねえだろ。数が少ないからって店側が決めてんだから、こっちは言われたとおりに買っときゃいいんだ」


 えっと、実はてっちゃんには少々余計に販売しても良いとか思ってたんですけど。他のお客さんがいないときか、私が先に買っといて渡そうかと。こんな正論かまされちゃ、そんなこと言い出せない。

「うるせえな、まったく世渡りできないガキ。ね、美優ちゃん」

 早坂社長の腕が肩にひょいっとまわり、ぽんぽんと二回叩いたとき、鉄がもう一歩踏み出した。

「みーに気安く触んな、クソ親父!」

 何を言い出したかと驚いた早坂社長が慌てて手を離し、美優の目は大きく見開いた。


 鉄の顔と美優の顔を交互に見た早坂社長が、ニヤリと笑った。

「へえぇ。ふーん。いや、お邪魔さん。この靴だけ買ってくわ」

 左手に安全靴を下げて階段に向かう人を、見送ることもできなかった。残ったのは頭の中で言葉を咀嚼している美優と、耳まで赤い鉄である。


 嫉妬と受け取ってよろしいのでしょうか、てっちゃん。そんな質問をするわけにもいかずもじもじしてしまうが、忘れちゃいけないことに職場である。

「美優ちゃぁん。柿沼運輸さんの紫の手袋、Mサイズ三パック!」

 階段の下から聞こえるフロア担当の水田の声に、ふと我に返る。

「はあい、持って行きまーす」

 フックから手袋を外して水田に渡せば、次の客が入ってくる。

「ダブヨンが入ったって聞いたんだけど」

 そんなことを言われたら、相手をしないわけにはいかない。

「情報早いですねえ。限定販売ですけど生産が止まるみたいなので、他のメーカーもご検討くださいね」

 返事をしてカウンターの下から手袋を出していると、オレンジ色の髪が階段を降りていくのが見えた。


 えっ、帰っちゃうんですか。こんな不完全燃焼なままで帰られると、すっごく気持ち悪いんですけど。客の相手をしているときに、鉄を引き留められるわけがない。

「たとえば俺が知り合い三人連れて来たら、六個売ってくれるの?」

「え? ああ、それまであるかなぁ」

 頭は半分鉄のほうを向いているので、中途半端な返事になる。

「あれば売ってくれる?」

「え、ええ。担当者、つまり私が日曜は休みなので、それ以外の曜日でしたら」

「じゃ、明日また来る」

 客を見送ってから、明日で在庫は半分になってしまうなとぼんやり考える。それはそれ、限定だからといって回数とか人数まで制限すると、訳がわからなくなってしまう。


 鉄は帰ってしまったようだし、どちらにしろ社長と一緒に来たのだから待っていることは考えられない。なんだか話の途中で結論が切られたみたいで、口がへの字になってしまう。

 あれがてっちゃんの感情から出た言葉ならば、その理由を聞かせて欲しい。逃げるみたいに帰ったってことは、実は勢いだけだったってオチ?


 自分から言い出せないのは、言わなければ少なくとも店員と客って立場で接点が保てるからだ。中途半端な立ち位置はキープして、どっちつかずで軽くつきあっていくことはできる。

 それに飽き足らなくなったからこそヤキモキしているのだけれど、まったく失ってしまうくらいならこのままでもいいかな、なんて思える。つまりそれだけ、美優の中には鉄が入りこんじゃっているのだ。

 まったく興味のなかった作業服のスタイルを問い、使い勝手やコストパフォーマンスを語れるようになったのと同じくらい、ごくごく自然に鉄の人となりが美優に流れ込んで来て、沁みていった。


「おねえちゃん、これはサイズ出てるだけ? 取り寄せてくんないかなあ」

 客の言葉に慌てて受注書を取り出す。需要があるなら供給を考えるのは、美優の仕事だ。発注先も入荷タイミングも、美優に掛かっている。必要とされるものが、迅速に正確に客に渡せるように。だから自分の物思いは後回し。


 定時を過ぎて、暗くなった自転車置き場で溜息を吐く。一度帰宅した鉄が、戻ってきているのではないかと少し期待してしまったのだ。今までだって何度かあったことだから、それが今日あっても不思議じゃない。けれど見慣れたバンは駐車場にはなく、不完全燃焼な感情だけが残る。

 バカてっちゃん。鈍いの、それともヘタレ? それとも、私がひとりでジタバタしてるだけなんだろうか。



 帰宅途中のコンビニエンスストアに寄ると、兄の友人に会った。平日の早い時間に珍しいなと思いながら挨拶をすると、相手は話したそうにしている。別に親しい人ではないので無難に受け答えして、場を離れた。

「飲み会しようよ。フリーのやつもいるから、美優ちゃんも何人か誘って合コンしない?」

「兄ちゃん繋がりじゃ、ちょっと気が向かないです。また何かの機会に」

 身内の前で下心のやりとりは、ちょっと違う気がする。それに美優は今別に、恋人を募集してるわけじゃない。合コンみたいな出会いの席に着きたいわけじゃないのだ。けれど、自分は下心の対象にならないってほど、女の子として魅力がないとは思いたくない。

 そうか。他に目を向けようと思えば、相手はいるのか。けれど誰かと恋愛したいんじゃなくて、恋愛したい相手は決まっているのだ。


 帰宅して着替えていると、スマートフォンがメッセージを受信した。タイミング的に誰かから夕食の誘いかなーなんて開くと、オレンジ頭のアイコンに思わずムッとする。一時間ほど前に黙って帰った後ろ姿が、急に蘇った。

『ダブヨンの手袋って、まだ在庫ある?』

 もう就業時間じゃないんですけど、挨拶もなしにいきなり在庫の確認ですかそうですか。

『あるけど少ない』

『取り置きできる?』

『取り置きはできません。ひとり二双限定、早い者勝ち』

 自分ながら素っ気ない返信である。モヤモヤの行き所が見つからないのだ。

『じゃ、明日早く上がれたら行く』

『はい、お待ちしております』

 需要があれば、供給するための努力はします。


 需要、ありますか。おひとりさま一名限定、早い者勝ち。需要に応えるための努力と、供給を継続する見込みはあるんですが。

 ね、てっちゃん。需要はあるんですか。


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