天候の当たりはずれは、当然あります
前日の夜の冷たい雨は、何かの歌みたいに雪に変わっていた。残念ながら、クリスマスなんてとっくに過ぎた。いや、あれは失恋の歌だったよななんて考えながら、白くなった通りを眺める。足元は危ないし電車は遅れるし、バスもタクシーも使えやしない。
雪が嬉しかったのは、小学生くらいまでだった気がする。暖かな部屋で落ち着いて窓の外を眺めているだけならば、美しいなロマンチックだななどと言っていられるが、実生活では不便で不自由が増すだけである。
昨今のレインブーツはオシャレにもなったし履き心地もアップしたが、やはりスニーカー並みの歩きやすさってわけには行かない。どうせ今日みたいな日に、客なんて来ない。車の来店者が大多数なのだし、現場だって緊急に休みになるだろうと思う。行きたくないと呟きながら、駅から工業団地までの長い道を歩く。これが降り止んで融けはじめれば、帰りは汚れた雪でぐしゃぐしゃになる。
足元に力を入れながら歩いていると、工業団地に入る直前から急に道路の雪がなくなった。まとめて積んである雪を見て、除雪してあるのだと気がつく。ああ、これでやっと普通のペースで歩けると、ほっとして傘を持ち直した。どうせなら駅からの道、全部除雪してくれればいいのに。
伊佐治の駐車場もまた、誰かが除雪したのだろう。雪に混ざって融雪剤の顆粒が散らばっている。客商売なのだから、当然の処置である。
店の入り口の展示が変わっている。角型スコップが並べられ、積み上げてあるのは塩化カルシウムと書いてある袋だ。美優が駐車場を歩く間に、スコップは売れて行く。
融雪剤なんて、普段置いてたっけ?倉庫にでも積んでるのかしら。
朝の挨拶も早々に、松浦から指示を受けた。
「長靴、適当に二階から下ろして。見せる程度でいいから、ゴム手も出して」
店頭で長靴を試着して買う人がいるとは思えないと思いながら、売り場に入って棚を見渡す。棚の目立つ場所に置いてあるのは、先芯の入った重い安全長靴だ。
ありません。もうすでに売り切れです。
僅か数足残しただけの棚は、ぽっかり穴が開いている。雪の予報はあったので、前日フルサイズで揃えたばかりだというのに。
ゴム手袋のフックも、ずいぶん減っている。階下に持ち出すどころじゃない。
「店長、売り切れです」
「じゃ、防水の靴とかあったでしょ。とにかく足が濡れないやつ出して」
防水の安全靴も内ボアのビーンブーツも、そうそう需要が高いものではないので、そんなにたくさんは置いていない。靴の棚の前で、首を傾げた。
その間に客が入ってきて、残った安全長靴は消えて行く。
多分何年も売れずに、表面が劣化したゴム長靴がふと目についた。きっと誰かの失敗仕入れだったのだろう。捨てるわけにもいかず、目立たない場所に隠すように展示していたものだ。本来なら半額以下で叩き売るべき商品だが、これでも必要な人がいるだろうか。先芯も入っていない、ごくごく昔風の黒い長靴だ。足が濡れなければなんでも良いなんて人が、買うかも知れない。
なんかズルみたいな気がしないでもないけど、これを店頭に出しちゃおう。それでも十足程度しかないので、抱えて何往復かですべて階下に出した。
「これで長靴は終わりです」
「天気予報で大雪って言ってたよね。ストック入れてなかったの?」
数日前に松浦とすれ違いざまに、今週は雪予報があるねと言われた記憶はある。それにプラスして指示があったわけじゃないから、すっかり世間話だと認識していた。
「入れてませんでした……」
「商品の予測も仕事のうちでしょ。考えて発注しなくちゃ」
説教突入のタイミングで、客が松浦を呼んだ。返事をして場を離れる松浦に、溜息を吐く。
知らないよ、もう。私は時給のアルバイトなんだよ、経験がない分明確な指示くらい出してよ。膨れて自分の持ち場に引き上げ、カウンターの中で肘をつく。とりあえず売れてなくなった商品の発注書を作って補充をしなくては。
そうして二階に上がってきた客は、ネックウォーマーや内ボアの手袋を持っていく。長靴がなくてがっかりしている人を見ると、少々申し訳ない気分になる。
「もうね、どこも売り切れちゃってて。ここに来ればあると思ったのになあ」
「ここも事情は同じなんです。申し訳ありません」
見れば靴は濡れてしまっていて、足がさぞかし冷たかろうと気の毒になる。自分が雪と長靴を結び付けて考えていれば、この客は長靴を手に入れられたのに、なんて。
階下を覗きに行けば、スコップ類も売り切れてきたらしい。珍しく叔父である社長が顔を出し、自らトラックに積み込んで来た塩化カルシウムの袋を荷卸ししている。
劣化した長靴も残り二足になってしまってはいるが、手の施しようはない。雪はずいぶん小降りになってきたが、まだ止んではいない。とても寒い日だ。
売り場に現れた客は、開口一番で同じ言葉を言う。
「おお、あったかい」
一階が暖房を入れている分二階は更に暖かく、美優はカットソーの上に作業ジャンパーだけの軽装だ。
「いいな、ここはあったかくて。外は十分で凍えるよ」
「どうぞ少しでも暖まって行ってください。ゆっくり身体をほぐしてくださいね」
そんな平穏な会話で済む人もいれば、八つ当たりめいた言葉を投げる人もいる。
「あったかい
「申し訳ありません」
「申し訳ねえったって、あんたは謝りゃ済むんだろうが、こっちは破けた手袋で雪かきしなきゃなんねえ」
声を荒らげられたところで、在庫が湧いて出るわけじゃない。
数人の客からの情報では、近くのホームセンターも長靴や冬用のゴム手袋は売り切れてしまっているらしい。伊佐治だけが品切れじゃないのだ。
「内ボアの手袋は売り切れてしまいましたが、インナー用の薄い軍手の上に普通のゴム手袋はいかがですか」
「長靴は完売です。くるぶしまでなら防水になっている靴がありますけど、それではいけませんか」
代替えの案を聞き入れてくれる人と、毒を吐いて去って行く人。どちらも雪の中で作業をしなくてはならない人たちだ。
工業団地に入ってから歩いてきた道は、綺麗に雪掻きしてあった。駅からの道を全部綺麗にしてくれればと思いながら歩いてきたけれど、考えてみればあれはどこかの会社が、必要だからと雪を退けたのだ。そのときに通行人も通りやすいようにと、必要でない部分まで雪を片づけてくれた。
それを感謝するどころかもっと働けとか、なんたる傲慢。今日自分がしたのは、文句言いながら駅から歩いてきて、見込み発注の甘さを指摘されて膨れてただけじゃないの。
反省はしても基本的には自分のせいじゃないっていうのがあって、説教されれば腹は立つし、客からのイチャモンだって聞き流しだ。全部本気で聞いていたら、客商売なんてやってられない。
数人の客がまとめて入ってきて、防寒具を広げてみている。
「室内ってのは気楽だね。こんなとこで立ってるだけで金貰えるんなら、俺も転職しようかなあ」
「いいな、おまえが店員なら財布持たないで買い物にくる」
そう言いながら笑いあっている客の一メートル後ろについているので、美優に失礼なことを言っているつもりはないらしい。
「いらっしゃいませーって言ってるだけだろ? 客が勝手に試着して買うんだから」
自分に向かって言われているわけでもないから、反論もできない。むっとした顔のまま、放置もできないので近付かずに売り場をウロウロしていた。
「おまえみたいに敬語も使えないヤツ、雇ってくれるわけないだろ」
一緒にいた少々年上の男が、話をぶった切った。
「綺麗な仕事したいんなら、ちゃんと学校でベンキョーしときゃ良かったんだよ。あれもヤダこれもヤダって、職人にでもなるしかなかったんだろうが」
笑っていた一団に、少しだけ緊張が走った。
「頭が使えない奴は身体を使え。使うとこが違うだけで、みんな動かせるとこ動かしてんだ、バカ」
そう吐き出したあと、年上の男は美優のほうに顔を向けた。
「ごめんね、お姉ちゃん。バカばっかりだから、聞こえないフリしててやって」
自分に気を遣ってくれたのか。振り返った一団が、気まずそうに頭を下げるのを、両手を前に押しとどめた。
自分だってこんなアルバイトをはじめる前は、ショップ店員についてそう思っていたのだ。気が向けば接客をして、あとは棚を整えているだけの気楽な仕事だと思っていた。そして職人さんに関しても、学歴も常識もなくてマトモな仕事に就けない人たちだと思っていて―――
ごめんなさい。バカは私です。何も考えないで小売業に入ってきて、責任者って言われても自覚すらありません。
外の雪は午前中で止んだらしい。昼休みに外に出ると、道路を走る車が増えている。積み上げられた雪は排気ガスで黒く汚れ、レインブーツでも足元が滑る。
コンビニエンスストアに入ると、スナック菓子を籠に入れたリョウがいた。
「みーさん、お昼?」
「あれ、リョウ君は仕事休みじゃないの?」
「おっさんたちは休み。俺らは社長に呼び出されて、雪掻きしてた。駅から来る途中で、緩い坂になってるとこ、あそこで毎年怪我する人がいるからだって。俺ら、関係ないのに」
「地域奉仕?」
「知らない。若いヤツの日当確保だって言ってたけど」
行政から頼まれたのかななんて思いながら、自分の昼食を買って店に戻った。入れ違いに事務所から出ようとする宍倉に、そんな話をしてみる。
「ああ、それは早坂さんの持ち出しだよ。あそこは先代からそうやって、若いヤツに地域作業させて給料出してるんだよね。だから地域の仕事は増えるし、若いヤツは天気が悪くてもそれなりに給料がもらえて、お互いにラッキーみたいな」
ふうんと思いながら、解説を聞いた。
そして若い社員を動員したのであれば、鉄もその中にいたに違いない。防寒服にゴム長靴で、スコップを使っている鉄を思い浮かべた。その姿がリアルに頭の中で像を結び、心臓がひとつ大きく鳴った。
ちょっと待って! それをかっこいいとか思っちゃうんですか、私。
仕事を終えて駅までの道は凍り始めていて、歩くのが怖かった。リョウが言っていた緩い坂道に差し掛かかる前から、融雪剤の粒が道に撒いてあるのが見える。
ああ、この辺から作業したのか。確かにここは転びやすいし、歩道と車道に段差があるから危険だな。
そんな風に思いながら、汚れた雪を見た。邪魔にならない場所に積んである雪の上に、歪んだ雪だるまが乗っている。こんなところで雪遊びをする人はいないから、雪掻きついでにふざけて作ったに違いない。バケツ帽子代わりのプラスティックの飲料カップと、落ちていたと思われる木の枝でつけた目鼻口は、いかにも間に合わせだ。
それを作りながら笑いあっている姿まで見えた気がして、美優は口元に笑みを浮かべた。男の子って楽しそうだよなと思うのは、そんなときばかりだ。
一駅だけ電車に乗り、駅からの道をまた歩く。それだけの距離なのに、こちらは住宅街なので道の様子はまったく違う。戸建ての住宅が並ぶ細い道は住人の動く部分だけ雪がなく、路面が全体的に凍っている。何度か足を滑らせて、変な場所に力を入れながら歩く。十数分の距離なのに、歩いただけでへとへとだ。
帰宅して一番先にするのは風呂の用意をすることで、とにかく冷えと筋肉の疲労をどうにかしたい一心だ。父も兄も帰宅していないので、好きなだけ長湯してやる。
こんな日にも、外仕事をしてた人たちはいるんだよね。私なら一日で泣き言を言って辞めるレベル。それが仕事なんだからとか言われたって、強制されたらニートを選ぶかも。甘いのかな、私も充分頑張ってると思うんだけども。
夕食までの僅かな時間に、SNSにメッセージを打ち込んだ。寒い中で他人の歩く場所を綺麗にしてくれた人に、一言礼を言いたい。全員に言って歩けるわけじゃないけれど、言う相手はひとりだけ知っている。大真面目じゃなくて、気楽な文面で労いたい。
待っていたかのような早さで返信があり、メッセージがいくつか往復した。それだけのことで、身体の芯がぽかぽかする。外は道が凍ってしんしんとした寒さなのに、スマートフォンを操作する指先に花が咲くようだ。
ふと自分の指先に、目が行く。段ボールを捌いたりガムテープを貼ったりする作業のために、爪は短くしたままだ。せめて指だけでも美しくしようと、手にクリームを擦り込んでマッサージをした。次に鉄に会うときは、少しでも今より綺麗になりたい。
翌日、まだ道は凍っているままだったが、交通は回復していた。もちろん滑る道を自転車で走る勇気はなく、美優は続けての電車通勤になる。そちこちに普段と違う力が入って、おかしな場所が筋肉痛になりそうだ。
朝の天気予報が、不吉だった。週末にもう一度雪が降りそうだという。これから雪仕度をして、間に合うだろうか。今日発注しても、流通が乱れると入荷が間に合わない。降ってしまった後入荷すると、手遅れで過剰在庫になる。
あれこれ考えながら出勤し、松浦に相談する。
「昨日買えなかった人が来るから、大目に発注しといて。ただ、今月の予算オーバー気味だよね。そこのバランスは考えてね」
ものっすごくアバウトな指示だから、美優の計算にぶん投げただけってことだろう。売れれば正義だって言ったって、時と場合による。まして天気予報は、完全に的中する保証なんかないのだ。
長靴は今回売り逃しても、時間が経てば必ず売れる。けれど欠品のクレームで声が大きかったのは、防寒の手袋だ。いつまでも思い悩んでいる時間はない。ええい、売り残したら売り残したときに考えよう!
思い切って倍ずつ発注する。昨日の雪で買えなかった人の数を思えば、もう一度大雪が降れば確実に売れる量だ。こうなったら、次の雪を祈るしかない。ってか、降ってくれないと困る。お願い、降ってください。
雪が降ると困ると思いながら、こと商機だと思えば願ってしまう自分が悲しい。自分の時給が上がるわけでもないのに。
外の気温は上がってきたらしく、昼休みにコンビニエンスストアまで行く道はびしょびしょだった。ところどころに積まれた雪はますます汚れ、黒っぽい固まりになっている。
てっちゃんは今日、仕事なんだろうか。濡れた現場で危険なことしてるのかな、早坂社長が無茶なことをさせる人だとは思えないけど、時間が無制限にある仕事でもないし。
考えているうちに不安になってきて、思わずメッセージを送った。こんな風に心配するなんて、腕を信用していないのかとプライドに障るかも知れないと、気がついたのは送ってしまった後だ。
現場が三時休憩に入ったタイミングで、メッセージの返事が来た。高い場所から下を見下ろした写真が添えられている。
さんきゅー。気をつけるから、心配すんな。あとで寄る。
相変わらずの短いセンテンスなのに、妙に近寄った気になるのは何故だろう。ただの気のせいか、自分が期待しているだけなのか。それともこの短い文章が、何かいつもと違うのか。
店内の床の汚れ具合で、外の道がいかに濡れているのかはわかる。普段はせいぜい土埃程度の汚れだが、足跡と靴の裏にくっつけて来た泥で黒くなる。翌朝の掃除を待っていられないので、手の空いた人間がモップをもって走ることになる。
五時を過ぎてぼちぼち客が入って来ると、美優は時計ばかり気になった。あとで寄るとかいったって、約束してるわけじゃない。どこまで出ているのか知らないし、何時までなのかだって知らない。鉄は美優の定時を知っているのだから、その前に来るってことなのだろうとは思うのだが、美優に会いに来るのだか買い物に来るのだかも知らない。
前日ほどではなくとも長靴を探しに来る人はまだいるし、濡れてしまった安全靴の替えを求めに来る人もいる。うわの空で接客をしているうちに、六時近くになってしまう。自主的に残業しても何か言われるわけではないが、手が離せないほど忙しいわけでもないのに残る気にはならない。こちらから連絡をしてみようかとも思ったが、もしも向かっている途中ならば返事なんてできない。
仕方なくタイムカードだけ打刻し、ぐずぐずと着替えて時間を稼いだ。それなのにまだ駐車場には、早坂興業のバンが入って来ない。待っているのもおかしな話だし、もう帰ってしまおうかと店から出たところで、ようやく白いバンが入って来た。
するすると窓が開いて、鉄が顔を出す。
「みー! 帰んの?」
一瞬浮き上がったのと同じ量で沈み、自分にムカッとする。
「帰るよ、時間だから」
来るっていうから待ってたのに、向こうは買い物に寄るだけだったのか。自分に会いに来るのだと思ってしまった自分に、一番腹が立つ。
「ちょっと待ってて。明日の朝の確認してくっから」
鉄の後ろから車が入って来たので、駐車場の中でそれ以上留まっているわけにもいかない。仕方なく入り口の横に立った。
通り抜けざまに、鉄は車を指差す。
「冷えっから、入ってろ。松浦のおっさんと話したら、すぐ行くから」
答える間もなく鉄は店に入ってしまい、一緒に入店しても居場所のない美優は、バンに乗り込むしかなくなる。
すぐに戻ると言った鉄は、なかなか戻って来ない。夕方の松浦は常に客がいて忙しいし、順番待ちをしているのかも知れない。仕方なくスマートフォンを弄りながら、入り口ばかり気にしていた。
二十分ほどで戻った鉄は、口をへの字に曲げていた。
「まったくよ、松浦のおっさんは。固定クランプっつってんのに自在クランプとか出そうとしてるし。直交だっつーの。これから本店に取りにいきますってさ」
言っている意味はさっぱりわからない。早坂興業で希望したものと松浦が考えていたものが違ったんだなと思うのみだ。現場からの急ぎの発注では、こういうことはままあるらしい。ときどきレジカウンターで、客が文句を言っている場面に出くわす。ファックスやメールの注文でないから証拠は残らないし、発注する方も簡単な名称で言うものだから、曖昧な商品は過去履歴で判断して用意してしまうのだ。再確認しようにも作業中の人には、なかなか連絡は取れない。
もしも客の言い間違いだとしても、店側から間違いは指摘できない。言った本人が気がついて訂正するのなら話は別だが、大抵の場合は気がつかない。客を言い負かしても勝ちにはならないのだ。最終的には買って貰わなくてはならないのだから、詫びを入れて納得させてしまったほうが商売として勝ちなのである。
「ごめん、店長が何かミスった?」
曲がりなりにも美優も店員であれば、客である鉄に頭を下げる。それはここ数ヶ月で身についた癖みたいなものだ。
「よくある勘違いだけどな。松浦のおっさん、確認が甘くてさ。ま、明日の朝までに揃ってりゃ問題ねえわ」
「大変失礼しました。申し訳ありません」
一応神妙に頭を下げると、髪をくしゃっと掴まれた。
「みーのせいじゃねえし」
「だって私も伊佐治側の人間なわけだし」
そう言うと鉄は、やっと笑う。
「みーのそういうとこ、好きだわ。一生懸命役に立とうとしてくれるとこ」
ぶわっと音がしそうなほど、頭に花が咲く。前後の言葉はぶっとんでしまい、好きって単語だけ頭の中にリピートして鳴り響く。
こんなことで浮かれたらダメ! 自分への警告を、自分が聞かない。
「あれ、この前のカバンじゃないじゃん」
美優の膝の上のバッグを目にして、鉄が不満そうな顔をした。これについては、ちゃんと理由がある。だってビニールコートもテフロン加工もしていない布だったのだから。
「上から雫とか落ちてきて、汚れたらイヤだもん。せっかくてっちゃんに買って貰ったんだから、綺麗に使いたいよ」
答えた瞬間、大きな手が美優の頭をわしづかみにして、がしがし揺すった。
「っとに可愛いなあ、みーは。あんなもんまた買ってやるから、がんがん使えよ」
まだ伊佐治の駐車場の中である。
最近よく行くカフェに入るとき、なんとなく違和感はあった。普段通り鉄がドアを引き、美優が先に店の中に進む。どこがと言えないけれど、とても小さな違和感がある。不快なものではなく感覚的なもので、どこがどうとは言えない。
テーブル席が騒がしかったので、カウンターに並んで座った。それも別に普通の流れで、特別なことじゃない。でもどこかに漂うトクベツ感。
えっとね、何かさっきから近いです。店に入るときも、てっちゃんの肩が真後ろにあった。テーブルを挟んでいるときは気にならないけど、隣に座っているし店の中にうるさい客がいるしで、てっちゃんは顔を近づけて喋る。肩も腕も、体温を感じそうに近いです。笑うとき私の背中をぽんっと叩くし。
気のせいじゃない。物理的に距離が近い。気安い性格の鉄ではあるが、普段はこんなに近い位置になんていない。意識的にか、それとも無意識なのか。それには意味があるのか。
そっちに気を取られて、返事がおろそかになる。聞いてんのかと頭をはじかれる。近い近い、近いってば!
小一時間で時間の延長はない。どこかに出る予定があるわけじゃないし。だから食事の時間に帰るのはいつもの流れで、物足りなくても不満は持ちようがない。
「明日、また雪予報だよね」
「昨日ほどじゃないといいな。工程ずれるのも、限度あるし」
「え、降っても仕事?」
「危険なほど降ったら休みだよ。現場事故があると、作業が延期になっちゃうから」
車の中でそんな話をした。
じゃあねと車から降りようとしたら、名前を呼ばれた。
「なに?」
「おまえさ、鳶ってどう思う? 商売抜きで」
商売抜きでと言われると、そんなに詳しくない美優は言葉に困る。けれど表面のイメージだけで言えば、伊佐治に入る前と現在では大きく違う。現在の感覚でいえば。
「てっちゃん、前に鳶はスタイルって言ったよね。真面目な話、かっこいい職業だと思うよ」
どの作業よりも先に現場に乗り込み、動きと効率を考えながら組み上げ作業をする。建築物の構造を理解できない人に、そんなことはできない。
「へへっ」
嬉しそうに笑う鉄が、可愛らしく見えた。
鉄のためには雪が降らないほうが有り難いが、商売的には降ってくれた方が嬉しい。買い足した長靴と手袋を捌きたいし、二月中に防寒グッズを売れるだけ売って、三月から春の準備をしたい。
降らないといいね、てっちゃん。でも降ってくれないと、売り場的には苦しいなあ。
カーテンの隙間から、外の天気を確認したりしてみる。雨も雪も、今のところは降っていない。予報では明け方から雪だということだし、また交通が怪しいなら、翌朝も早めに家を出たほうが良いのかも知れない。
友達とのSNSのやりとり中に、ひとつメッセージが入ってきた。正確に言えば、メッセージじゃなくて画像が一枚だ。
えーと。腹筋ですか、これは。ご自身の腹筋でしょうか。なんのアピールですか。まさか私のおなかがぷよぷよだと言いたいんですか。否定しきれないけど。
『すごくね?』
『見せびらかしたいの?』
『シックスパックだぜ』
『ナルシスト』
友達との呑気な会話の途中に、こっちも着信音が鳴ってわけがわからなくなる。腹筋見せるために、わざわざ連絡して来るな。
『日曜日、どこか行く?』
会話が往復して混乱していたので、女友達のメッセージのつもりで返信した。
『行く行く。新しくできたスイーツバイキングが気になる』
『甘いものだけか? 腹に溜まるもののがいいなあ』
相手を間違えたなどと返信はできない。ってか、てっちゃんが今までこんな風に誘ってきたことない! 慌てふためいたって、もう前言撤回はできない。
『パスタとサラダもあるよ。それとも違うところにする?』
慌てながら話を進めるしかない。男の子と食べ放題とか、気が引けるんですけど。
翌朝目を覚ましてカーテンを開けると、外は白くなかった。代わりに冷たそうな雨が少し降っており、本日入荷するはずの商品は、一昨日ほど買い手は多くないだろう。
あーあ、売り損なっちゃった。その前の天気予報、ちゃんとチェックしておけば良かった。そう思っても予報は百パーセントではないし、どちらにしろリスクは伴うものなのだ。
駅からとぼとぼ歩きながら、店に向かう。それでも寒くて天候が良くない分、現場を早上がりした客が来るはずだ。せめて彼らが、濡れた靴下を履いていませんように。
寒い中で作業する人たちが、少しでも快適でありますように。
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