流行商品と定番商品の重点は均等です

 二八ニッパチの枯れとはよく言ったもので、確かに客足は鈍い。まだ寒い日が続くとはいっても、もう一月も我慢してしまえば三月になると、擦り切れたジャンパーで頑張ってしまう人は少なくない。ネックウォーマーや帽子や暖かい肌着は、もう前月には購入してしまっている。つまり、売るものがない。


 もちろん通常程度に作業服を買い替える人はいるし、傷めば安全靴だって買う。けれど販売するために力を入れる商品が見つからないのだ。そうなると微妙に売り場管理のモチベーションが下がるので、在庫チェックは甘くなる。

 手袋のフックが空いていれば気がつくが、たとえばシャツが複数枚ハンガーに掛かっていた場合、小さいサイズと大きいサイズだけ残っていて中間サイズが一枚もないなんて、細かく見ていなければ気がつかない。すべてのモデルを細かくチェックしてフォローする必要はあまりないが、逃したなと思うことはある。


 次に買いに来るから入れておいてくれと言ってくれる客は、親切だ。目当ての棚にまっすぐ行き、ものも言わずに帰る客も多い。着るものを自分で決めていて、廃番にならない限りは同じものを着る人もいるのだ。選ぶのが煩わしいとか安心感があるとか、理由はそれぞれ。

 伊佐治のオリジナル商品でない限り、それはあちらこちらのワークショップで扱っているものだし、それならば思い出したときに売っていれば買うってスタンスだ。たとえば主婦がスーパーマーケットで、まだ切れてはいないけれど醤油をそろそろ買い足しておこうと思う、それくらいの熱意で。なければ次回で構わないし、他の店で見つければそこで買ってもいい。

 つまり、あれば売れるが無ければ売れない。在庫がないものを売ることはできない。


 新モデルは春まで入って来ないし、もう防寒服を買い足したりする時期じゃない。売れ線のものを買い足して売れば、現在ある商品で間に合わせるつもりの客がそちらを選んでしまい、結果的に売り残しを増やしてしまうことになる。

 今月大きく仕入れ経費を使うものは、考えられない。デイリーに売れていく手袋や地下足袋は揃えなくてはならないが、それ以外は前月までの仕入れを消化すれば良いのだ。


 二月の予算はちゃんとある。差し当たって目を惹くものを買う必要はない。けれど目を惹きはしなくとも、確実に流れる商品はある。

 定番と呼ばれ流行に左右されない基本モデルでも、ブランドによってイメージは違う。たとえばプレーンなネイビーのパンツだって、素材や微妙な色味も違えばカッティングだって違うのだ。だから辰喜知の上着にアイザックのパンツなんて組み合わせでは着ない。ブランドごとに定番はあり、それには別々の顧客がついている。


 定番、揃えとこう。二月は定番の充実を重要項目にして、確実に売れるものを増やしておこう。自分の思いつきに満足して、美優はハンガーラックのチェックをはじめた。片手にノート片手にペンで、不足している商品の品番と色とサイズを拾っていく。

「やだ、ぜんぜんないじゃない」

 思わずひとり言が出る。何枚もハンガーに掛かっているからと安心していた商品は、中間サイズがすっぽり抜けている。ブルゾンだけが何枚もあって、パンツのないモデルがある。同じサイズのシャツばかり、五枚も下がっている。


 ちょっとチェックが甘すぎないかと自分にツッコミを入れつつ、とりあえず一社分の不足数を数える。品出しをするのは美優ひとりだから、一度に大量発注をすると自分が苦しむことになる。



 ウキウキしているのは、今晩友人たちに誕生日を祝ってもらうからだ。誕生日当日に女友達と約束できちゃうってのは若干悲しいものがあるが、親だってケーキを用意してくれるわけでもなし、何か特別感が欲しい。

 仕事が終わったら大急ぎで帰って、着替えなくちゃ。女ばっかりっていっても、仕事用のカーゴパンツじゃいやだし。


 実はSNSのプロフィールに誕生日を入れていたりするので、鉄から何か言ってきてくれるのを、秘かに期待しちゃってたのだ。それが都合の良い妄想だと気がつかないほど子供ではないし、鉄の性格を考えれば期待なんか無駄だってことも知っている。

 だからこれは、美優の頭の中だけのお話。美優だって恋するオトメなのだから、夢くらい見る。誕生日当日に恋仲になる、なんてね。

 それはそれと頭から抜いて、終わり間際に時間のかかる接客が来ませんようにと祈りつつ、発注処理をする。


 もともと在庫の少なかった売り場だ。以前から置いてあった商品をベースに美優が選んできた定番ものは、驚くほど揃っていなかった。ブランドは一つでも仕事内容によって服装は違うのだから、定番商品は一モデルじゃない。まだ一社分しか計算していないのに、月予算の五分の一に軽く届いてしまう。

 それだけ売り逃しが発生してたってことだ。声の大きな客にばかり気を取られて、何も言わずに売り場を観察する人がいるのを忘れていた。

 言わない客はいない客じゃない。あれば買おうと思った商品を探したとき、一度目はたまたま在庫していなくとも、二度目にもう一度なければ、その店には置いていないものだと刷り込んでしまう。刷り込まれてしまえば、もうその店で買うことを諦めてしまう。探したってないものを、探したりしない。

 やだ、気にしなくちゃいけないことが増えてる。


 在庫を増やせば売り逃しは減っていくが、過剰な在庫は場所も経費も管理の手間も喰う。定番商品だけでは客が飽き、流行ばかりを考えると商品に落ち着きがなくなる。そのへんの兼ね合い割合を決めるのは美優の役目で、それが売り場のイメージを決めるのだ。売り場担当が複数の人間であれば、相談して決めることもできる。けれど伊佐治の作業服担当は、美優だけ。

 腕組みをして売り場を見回し、このフロアに満足しているのかと自分に問う。そんなに深く突き詰めて考えるつもりはないけれど、けして満足じゃない。


 別に一生伊佐治で働く気はない。しかもアルバイトなのだから、売上の伸びが悪かろうが趣味のよろしくないフロアになろうが、一定水準さえ守っていれば知ったことじゃない。

 そんなことは関係ないんだ。一年にもならなくても、ここは私が作ってきた売場だもん。私が作ってきた売場が成果を出せないんなら、それは私じゃなくてもいいんだってことだ。

 これが売り場を仕切るための美優のプライドで、半年前ですら持っていなかったものだ。


 それでもまだ『まったくの素人じゃない』程度の知識なのだ。どんな職業の人が何を着ているのか。合成皮革の手袋を使う人と天然皮革の手袋を使う人は、どう違うのか。靴底の白いものを求める人がいるのは何故なのか、細かいことを言い出せば覚えるべきことは山のようにあり、しかも覚えているだけじゃ意味がない。

 たかが作業服、されど作業服。底は見えない。



 定時に売り場に人がいないのを確認し、急いで店を出る。自転車の上でコーディネートを組み立て、帰宅後慌ててメイクを直せば、待ち合わせ場所に出発する時間になる。平日の夜に遊びに出るって、けっこうハードだ。大層に飲酒するわけでもないが、自転車ではいけない。


 駅に向かう道の途中で、現場作業員の集団を見た。ドカジャンに超超ロング八分のお兄ちゃんたちは、確かに威圧的に見える気がする。その中に知っている顔がないかと探しても、店の外で伊佐治の店員顔したいんじゃない。

 本当はあの中に、てっちゃんがいるといい。それでさ、今日お誕生日だからって私が言ったら、俺も明日祝ってやるなんて言ったりしてね。

 自分から誕生日を祝って欲しいと要求するほど、まだ近くなった気にはなれない。自分から距離を詰めれば、何か変わるだろうか。どうやって詰める?


 そうして始まった友達との食事で、テーブルの上をスマートフォンで撮影している人がいる。つられて美優も写真を撮り、なんとなくSNSのタイムラインに流した。お誕生日祝いに集まってもらってます、みたいなコメントをつけて。普段からスマートフォンで遊ぶのは普通のことだし、情報を制限していれば怖いものじゃない。

 わいわいとお喋りを楽しんで、そんなに高価じゃなくとも嬉しいプレゼントが贈られる。カップルで祝うんじゃなくても、これはこれで幸福だ。


 店側にお願いしていたケーキが席に届いたとき、美優のスマートフォンがメッセージを受信した。アルコールで少々気分をハイにしながら、画面を確認する。

『誕生日だったの?』

 見慣れたオレンジ頭のアイコンに、胸が高鳴った。タイムラインは制限を掛けていないから、繋がっている人全員が確認できる。鉄もその中のひとりだ。

『そうだよ。お祝いしてもらってる』

『おめでと。俺も今度、おごるわ』

 友達と一緒なのだから、普段ならそこでメッセは途切れるものだ。けれど今日は、アルコールの助けがある。チャンスだよ、と美優の中が囁く。


『誕生日プレゼント、ちょうだい』

 マジで返信が来たら、冗談にできるギリギリのラインのはずだ。何故俺がと突っ込まれたら、私とてっちゃんの仲じゃないかと笑える。コンビニエンスストアのチョコレートを希望して、イヤだと断られればケチと返信しよう。いつもなら間髪入れずに来る返信が来ないので、ヘマしたかなと心配になったころ着信音が鳴った。

『日曜日、欲しいもん買ってやるよ』

 画面を見て固まったところで、友達に覗き込まれて慌てて胸に隠す。買ってやるって、もしかしたら一緒に出掛けて選ばせてやるってこと?

「さっきからスマホばっかり気にして。彼氏が迎えに来るとか言うんじゃないでしょうね?」

「言わないよ。このあとカラオケとかって言ってなかったっけ?」

 友達に返事しながら、まだ心臓がドキドキする。中途半端なやりとりのメッセは、まだ確約じゃない。


 二次会のカラオケで騒ぐだけ騒いで、帰り道歩きながらスマートフォンの画面を表示させた。着信音に気がつかなかったけれど、もうひとつメッセージが残っていた。

『午前中はばあちゃんのお供だから、午後からでいい?』

 今まで二人で外出したことがないわけじゃない。仕事帰りに夕食に連れて行かれたり、お茶を飲みに行くこともある。スノーボードのお土産だって、わざわざ渡すために出てきてくれてた。

 でも、こんな風に前もって約束して一緒に出掛けたことなんて、ない。普段との僅かな違いに緊張して、淡い酔いが醒める。

 日曜日、どんな顔をしてたらいいんだろう。



 朝に出社して一番最初にするのは、フロアのチェックだ。乱れた靴の箱や試着したままの形になっている作業服。ハンガーから落ちそうになっている商品を整え、棚からなくなっている商品を補充する。在庫が切れていれば発注書を起こし、埃っぽいなと思えばハタキをかける。

 紙仕事としては入荷した商品の納品書をまとめ、当月の予算を睨みつつ次に何を売ろうかと考える。午前便の入荷があれば検品し、その中に客注があったら担当者が留守でも引き取れるように取り置きの伝票をつけて置く。このへんで、午前中が終わる。

 昼休みにバラバラ来る客をさばきながら、話し相手が欲しそうな客とは世間話ついでに好みのリサーチを入れ、その間にまた乱れてくるフロアを整える。


 走るほど忙しくはない。けれどヒマかと問われれば、否定したいところだ。それでも客の少ない売り場は呑気に見えるらしく、店長の松浦からはときどきイヤミとも受け取れる口調で、もう少し売り場の管理を徹底すれば客が呼べるとか言われちゃうのだ。

 言われたって、いちいち反論なんてしない。少々思うところはあるものの、自分にできる範囲で変えていけば良いのだと開き直ることも覚えた。大真面目に考え込むと、売り場を維持するだけでストレスになってしまう。それくらい馴染んだというべきか、それとも気を抜くなと叱られるべきか。

 そうやって大きな波風は立たないが比較対象のいない職場で、自分の成長は測りようがない。


 階段を降りて帰りの挨拶をしようとすると、カウンターに早坂社長が見えた。

「あ、まだいたね」

 その言葉が自分に向けられたのを知り、つい嬉しくなる。ちゃんと店にいつもいると認識してくれてるんだな、なんて思う。

「はい、パス」

 何かが放り投げられたのを見て慌てて手を伸ばすと、掌の中に小さな包みが落ちた。チェーンの洋菓子店の、焼き菓子の箱らしい。

「誕生日だったんだって? さっき駅まで出たから、ついで」

「え、てっちゃんが言ったんですか」

「いや、リョウが。六歳も上に見えないって笑ってたから」

「……ときどき、年下扱いされてる気はします。ものっすごく心外です」

 ぷくっと膨れた顔をしてみせる。その仕草が余計子供じみて見えることは、自覚済みだ。


「確かにそんな顔してると、リョウより子供みたいだな」

 早坂社長がふざけて人差し指を美優の頬に向けたとき、後ろから声が聞こえた。

「あ、社長セクハラ! クロガネさん、社長がみーさんにセクハラしてます!」

「シロウトさんに気安く触んな、スケベオヤジ」

 毎度お馴染みのコンビの登場に、ドキドキする。特に後ろ側に立っている方に対して。

「僻むな、ガキが。女の子に避けられないで触るのも、年季がいるんだ」

 早坂社長はニヤリと笑って、指を進めた。指先が触れることに嫌悪感を抱くわけでもない美優も、そのままだ。

「やだね、機微もわからんガキは。ね、美優ちゃん」

 早坂社長の言わんとする意味は美優にもわからないが、とりあえず鉄とリョウをからかっているらしい。


 まだ三人の買い物は時間がかかりそうなので、名残惜しいけれども自分は帰ることにする。

「社長、プレゼントありがとうございます。大切にいただきます」

 愛想良く挨拶をすると鉄が首を傾げるので、包みを見せびらかした。

「社長から誕生日プレゼントいただいちゃった。愛されちゃってるから」

 鉄が一瞬微妙な顔をする。

「俺と美優ちゃんは、相思相愛だからね」

「ねーっ」

 調子を合わせて早坂社長と顔を見合わせていたから、そのときに鉄がどんな顔をしていたかは、知らない。



 帰宅して夕飯作りの手伝いをしていると、SNSのメッセを受け取った。手がハンバーグの肉ダネだらけだからと放置すると、立て続けに三回音が鳴る。ようやっとフライパンで焼きはじめてスマートフォンを見れば、鉄だ。

 日曜日は郊外型ショッピングモールがいいのか、それとも街に出るのかの確認が一通。何が欲しいのか考えておけってのが一通。それから、返信がないことへの不満が一通。

 別に急ぐような内容じゃないし、返信ができないことだってあるのだ。そう思いながら画面を閉じようとすると、もう一通着信した。

『親父から何もらった?』

 焼き菓子だと返信し、時間は前日に決めようと提案する。着る物だってこれから検討しなくてはならないのに、天気の予測ができない日に決められない。

 てっちゃん、せっかちだよね。


 たまには電車で移動するのも良いと、土曜日の連絡で行先は決まった。一駅だが利用駅は違うので、電車の時間だけ決めておいて乗り合わせる形だ。

 服装が鉄とアンマッチなのは仕方がない。鉄はそういう部分は無関心そうだし、美優も鉄のファッションに合わせるつもりはないから(っていうか、合わせるコーディネイトは持ち合わせていない)、せめて自分がいつもより可愛く見えれば良いなと思う。

 ユニフォームのポロシャツとカーゴパンツよりは、ずいぶん華やかだと思う。バッグもブーツも全部身に着けて、姿見で全身チェックする。髪を持ち上げて、普段と違う纏め方をしてみたりする。

 やっぱり口紅ルージュよりもグロスにしとこうかな。ますます幼くなっちゃうけど、こっちのほうが似合う気がする。


 いろいろ迷って夜が更ける。何を欲しいって言おう。ただのお友達なんだから、せいぜい三千円くらいなものか。布のバッグと春用の髪留め、どっちがいいだろう。それとも部屋に置いておける物がいいかな。あんまり迷ってると、女の買い物はとか言われるかも! どうしよ!

 浮ついたままベッドに入り、ドキドキして眠れない。一緒に食事をすることだってあったし、店でなんてそれこそ何回も会っているのに、何なのこれ?


 そんなこんなで寝坊した日曜日、いい加減に起きろと揺すられたのは十一時だった。約束は十三時三十分ごろ、まだ時間はある。とりあえずシャワーして、髪を乾かさなくちゃ!

 間に合わせの食事をしてコーヒーなんて飲んでいると、兄が起きだしてくる。

「お兄様に目玉焼きは?」

「自分で焼いて! 私は出かける支度するんだから!」

「男とじゃあるまいし、大層な仕度したって変わるもんじゃないだろ」

「変わるの! それに女ばっかりって決めつけないでよ」

「実際そうじゃないか」

 うるさい兄を放置してパジャマのまま脱衣所に直行すれば、母親が洗面台の掃除をしている。

「あ、お風呂使うんならついでに掃除して。洗剤だけ撒いてある」

 洗剤が撒いてあるのでは、そのままシャワーに突入できない。余裕ある時間は、どこに行った。


 大慌てで浴室の床をこすり、浴槽にスポンジをかける。ちょっとこの泡、なかなか流れてくれないんですけど!

 焦ってシャワーなんて、色気のないこと甚だしい。髪にあんまり時間をかけると、化粧の時間が足りなくなりますから。走って待ち合わせ場所に行きたくないですから!

 身なりを整えてから化粧をし、最後の仕上げにアイラインってところで手がブレた。家を出るにはまだ三十分もあるっていうのに、泣きそう。

 そんなにてっちゃんに、可愛いって言われたいの? うん、言われたい。普段と違うって思われたいよ。それで、好きだとか言われたいわけ?

 ―――うん、言われたい。


 全身チェックを繰り返しているうちに家を出る時間になり、駅で電車待ちの最中に、また鏡を覗き込む。汗浮きテカリなし! 大丈夫!

 到着した電車は約束の時間。二両目の車両に胸を押さえて乗り込んで、キョロキョロする。


 いない! てっちゃん、いないじゃない! 時間間違えた? 慌ててスマートフォンを握ったと同時に、メッセージを着信した。

 乗り遅れたのかとの確認に、打ち合わせ通りに乗ったと返信する。いくつかのやりとりをして、乗っている車両が違うだけだと判明する。美優は後ろから二両目、鉄は前から二両目にいる。

 ドアを開けながら移動してきた鉄を見たら、緊張が解けておかしくなった。鉄は普段通りの鉄なのに、自分だけがとても気を張っていて、しかもプラスに働きそうもない緊張だ。

 何かあるわけじゃない、大丈夫。プライベートだろうが職場だろうが、てっちゃんはてっちゃんだ。


「どこ行くか決めてる?」

「大体。あとはモノ見てから決めていい?」

「時間はあるから、みーのあとに着いてく。どこでも好きな店行って」

「じゃ、おシャネル」

「見るだけタダだもんな」

「欲しいもの買ってくれるって言ったじゃない」

 軽口を利きながら歩く。こんなのがいい。こんな時間がずっと続くのがいい。


 雑貨店でさんざん迷って、日常用の布バッグに決めた。お値段二千九百八十円のリーズナブル商品を鉄に渡し、お礼を言う。

「こんな安いヤツでいいの?」

「これがいいの。ありがとう」

 そして鉄が会計に向かっている最中にまだ売り場をウロウロして、自分の通勤にいい感じのリュックを見つけちゃうんである。これ、欲しいかも。自分で買おうっと。


 レジの前は結構混んでいて、女の子の列に並ぶ鉄は居心地悪そうだ。数人あとに並んだ美優は、興味深くそれを観察した。

 背は高い、プロポーションはいい。可愛い雑貨店で浮き上がる黒のナイロンコートも、周りが男ばかりなら細かいディティールには目が行かないだろう。目立つオレンジの髪はキャップで大部分隠れている。まったく悪くない。


 突然振り向いた鉄が美優の姿を認めて、手に持ったものを指した。

「それ、買うの?」

「うん、気に入っちゃった」

 自分で買うつもりだから、ちょっとだけデザインをかざして見せる。

「一緒に買うから、渡して」

 そう言われてひったくられても、それはちゃんと会計後に支払うつもりだった。


 会計が終わって紙袋を渡され、手に握っていた数枚の札を鉄に渡そうとすると、鉄は頑として受け取らなかった。

「それっくらい遠慮すんなよ。他の誰かにやっちゃうってんなら御免だけど、みーが使うんならいいんだ」

「じゃ、せめてお茶代出す! ケーキもつける!」

 美優の背をぽんぽんと二度叩き、鉄は笑った。

「気にすんなって。あ、俺は四月生まれだから、花見の弁当でも用意してもらおうかな。味噌のおにぎりみたいなの、また作ってよ」

 一万近く使わせて、お弁当で良いのだろうか。なんだか申し訳なくて嬉しくて、美優は紙袋を胸に抱えて歩いた。

 そして結局お茶代まで、鉄は負担してくれちゃうのだ。


 買ってもらってお茶までご馳走になったけれど、他に何かあるわけじゃない。映画を見たりするのには中途半端な時間だし、別に一緒に何をしようって言うんじゃない。ただ並んで歩いていたって気詰まりなだけで、大体一緒に何をウィンドウショッピングするって趣味の合い方じゃない。

 夕ご飯まで一緒だと、すっごくデートっぽいんだけどな。そう思いながら、それを提案するのに臆病になる。鉄が美優と同じように思っていれば問題はないが、実は退屈して帰りたがっているかも知れないと想像すると、腰のあたりが冷える気がする。


 お茶を飲み終えた鉄が、背中の筋を伸ばしながら言う。

「さて、帰っか」

 もう帰るのかとがっかりしながら、一緒に立ち上がるしかない。勘定書きを持つ鉄の後ろに従って歩く。

「お茶くらい払う。プレゼントもらっちゃったし」

 レジの前でそう言うと、鉄は出口を指した。

「レジ前で誰が払うとか、ババくさいこと言うなよ。出てて」

 そう言われてしまうと、お礼を言って出るしかない。店を出た後に美優が財布を出しても、きっと鉄は受け取らない。

 てっちゃんの誕生日、忘れないようにしなくちゃ。お花見のお弁当って言ってたけど、他にも何か贈り物を考えよう。四月までなら、あと二ヶ月ある。考えなくちゃ!


 二月の駅は結構寒い。鉄と立っている位置関係が変だなと思っているところに、電車が入って来た。当然ひどい風が吹きつけるはず、だ。

 あ、てっちゃんが風除けに立ってくれてる! すごい、顔に風が来ない!

 些細なことといえば些細なことなのかも知れない。他の人と出かけるときも、鉄は無意識にそうしているのかも知れない。けれど、こんなことをされたら余計に期待してしまう。

 私、てっちゃんのトクベツだって思っていいんだろうか。今日のことも、これからのことも。


「これからちょっと飲むんだけど、みーも来る?」

 電車が動きはじめてから、鉄は今晩の予定を告げた。

「誰と?」

「いつもの奴ら。男ばっかだけど」

 男ばかりの場所に、どんな顔をして出たらいいと言うのだ。何度も会って気の置けないつきあいをしていたって、あまりに敷居が高い。

「ううん、帰る。忙しいのに、こんな時間までごめんね」

「ばあちゃんの付き添いじゃない買い物って久しぶりで、わけわかんなかった。気に入ったのがあって、良かったな」

「あしたから早速使う」

 見上げれば、鉄は満足そうに笑みを浮かべている。それは結構大人の顔で。


 リョウ君に向ける顔だ、これ。庇ってやる対象っていうか、守ってやる対象っていうか、そんな顔。私もリョウ君と同じなの?

「伊佐治に行くと、みーは半分仕事だもんな。今日は仕事以外のみーで、面白かった」

 電車の音が邪魔なので、少しだけ顔が近くなる。長身の鉄が美優の方向に、身体を傾けているのだ。合わせて美優も背伸び気味になる。

「私も面白かった。てっちゃんって、意外に普通だった」

「普通ってなんだよ」

 上手いたとえが見つからなくて、美優は少し考える顔になる。


「だってさ、伊佐治に入らなければ、職人さんなんて知らなかったもん。お父さんもお兄ちゃんも会社員だし、友達だって学生か会社員かフリーターのどれかで、仕事自体が想像つかないっていうか。だから今でも知らない人って感じ」

「家も親父も知ってるじゃん」

「顔は知ってたって、普段何してるのかなんて知らないよ。仕事だけが違うのか、全部違うのか、わからないじゃない」

 この説明で正解なのかどうかなんて、わからない。

「ああ、俺は職人に囲まれてるのが普通だからな。考えてみたらサラリーマン家庭がどんなんだか、想像できないわ」

 鉄は声を上げて笑い、その話はそこで打ち切りになった。


 美優の降りる駅で、鉄は一緒に降りた。冬だから日は落ちているが、時間はまだ早い。

「これから出かけるんじゃないの? まだ早いから、送ってくれなくても大丈夫だよ?」

「女をひとりで帰したら、親父に何言われるかわかんねえ」

 鉄が父親にどこまで張り合うつもりかは知らないが、固辞するのも見当が違う気がする。


 暗い道を歩きながら、鉄は急に言った。

「親父、みー坊って呼ばなくなったろ」

 あまり意識しなかったが、前回確かに美優ちゃんと呼ばれた気がする。

「親父がみーって呼ぶのは、外にいたから。みー坊って呼んでるうちに、なんか申し訳なくなったらしいよ。珍しく仏壇に花飾ってた」

 仏壇に花ってことは、お母さんなのか。

「俺がみーって呼ぶのは、みーだけどな」

 意味深な言葉で、家の前に到着した。


「またな」

 駅までの道を引き返す鉄の後姿を、美優は見送っていた。仕事の顔は重要、だけどプライベートの顔も重要。

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