休みの日に作業服は着ません
朝から篠突く雨だ。暇つぶしに工具を見に来る客が、ぼちぼち二階にも上がってくる。梅雨に合わせて揃えた長靴と合羽は、早々と品切れてしまっている。予算に限りがあるからといって仕入れないと、売る機会を逃すことになる。伊佐治の二階に長靴を置いてあることが当然だと客に刷り込むためには、是非とも切らしたままにしておいてはいけない。
「店長、長靴と合羽が切れました」
「発注すれば?」
「それを発注すると、今月の予算がまたオーバーしそうなんですけど」
まだ月半ばだというのに、五十万の予算の三分の二は使ってしまっている。
「何が一番重要か考えてよ。今一番動いてて、切らしちゃいけないものは何?」
「全部、です」
定番の軍手と皮手袋と靴下、これは切らしたらクレームが来る。動き始めた安全靴もサイズは揃えておきたい。
「そこまで動いていないでしょ。先月もそんなに増えてないし」
松浦の言葉に、何か言い返したい。売るものがなくては、売れないじゃないか。けれど確かに、美優の目から見ても売り場が大きくは動いていない。
熱田から借りた作業服を、手に取る人は多い。カーゴパンツ二色は合計四十本、他に鳶用作業服がサイズごとに三セット。試着までしてハンガーに戻す。大きく期待外れで、売れたのは一週間でカーゴパンツが三本だけだ。
――何で?見る人はいるのに、買って行かない。
たとえばブティックで、自分が興味を惹かれれれば手に取るのと同じだ。見たものを必ず買うとは限らない。美優から見れば同じようなカーゴパンツでも、使い手から見れば素材も形も違う。タックが入っているのかいないのか、綿なのか混紡であるのか、ポケットはボタン留めかベルクロか。そして、シャツやベストとセットになるのかどうか。
そこで問題になるのが販売力ってやつだ。何故買わないのか観察あるいはコミュニケーションで探り、欲しい物つまり人気のある物の傾向を読んでいく。もっと上手く誘導して、客から欲しい物を口に出させてしまえばしめたものである。こんなものが欲しいと言った記憶が残れば、その場で注文しなくても次に入荷しているのではないかと期待して、次の機会に立ち寄ってみようと思う。商店などで使われる、次までに入れておきますねという言葉は、あながちお愛想だけではないのだ。声を拾って資料を開き、回転する商品か否かペイするか否かと検討材料にする。(だから皆さん、小売店では希望を伝えた方が良いですよ。便利なお店が増えます)
美優には売り場で圧倒的に不利な部分がある。年が若いことと、作業服を日常的に着ている知り合いがいないことだ。若い女と気軽に話せない層は意外に厚いし、美優から年齢が上の人に話しかけるには、言葉が硬くなりがちになる。そして日常的にそういう人間との交流がないから、ポケットが何故重要なのか、みたいに単純な理由を理解するのに時間が必要になるのだ。それを乗り越えるには客に積極的に話しかけなくてはならないのだが、美優は接客経験に乏しいのである。
向いてないのかな、この仕事。熱田さんは上手く売場回してるのに。
始めたばかりで向き不向きなんて判るはずはない。接客っていうのは調子の良いことを言って客に合わせるのばかりが正解じゃなくて、必要な部分だけを勧めて黙っているのが正解な場合もあるし、ぎこちない説明に好感を持たれたりもするのだ。
「お昼休憩、行きまーす」
一階のカウンターでそう告げ、美優は傘を広げた。店の近所のコンビニエンスストアは、工業団地の中らしく手袋や安全靴も売っている。こんなに少ない品揃えの中で選ばなくったって、自分の売り場に来てくれればもっとたくさんの種類があるのにと、思わず売り場を横目で睨み、おにぎりに手を伸ばした。
「なんだよ、シカトかよ」
隣から、聞いたことのある声がした。
客に外で会った場合、どんな態度をとるべきだろうか?無難なところでは、愛想笑いで挨拶だけするってのが一般的だろう。ところがその相手が、挨拶だけで済ませたくない顔をしていたら?
白いワッチキャップは目深だ。シンプルな黒のTシャツも普通だと思う。問題は下半身を覆うデニムパンツとキーチェーンだ。長身なので、下半身に視線を持ってきても問題はない。問題はないが、太腿に龍の巻いた刺繍のデニムパンツなんて、どこに売っているというのだ。それが鉄の言うところの鳶はスタイルってのなら、美優とはまったく相容れない。
「……コンニチハ」
「昼メシ買いに来たの?俺もだけどさ」
カゴの中には弁当二つと清涼飲料水のペットボトルが入っているのに、鉄は更におにぎりに手を伸ばしている。
「雨だからお休み?」
「伊佐治は満員だろ。雨降ると行き場所ねえから、工具でも見るかって話になる。二階にも人来てんじゃねえ?」
来てることは来てる。長靴はあっという間に売れたし、合羽も残り少ない。出て当然なものが出ているだけで、梅雨なんだから在庫ぐらい置いておけとは言われた。在庫を置くと仕入れ経費が、なんて話は客にはできない。
「みー、それしか食わねえの?」
鉄が美優のカゴの中を覗く。
「み、みー?」
その馴れ馴れしい呼びかけは、一体なんだ。
「みー坊のみー。猫みたいでいいじゃん」
猫みたいで可愛いとか、そういう問題じゃない。ベテランの、レジの宍倉と店長こそ客に姓で呼ばれているが、ニックネームで呼ばれている社員なんていない。客よりも親しい間柄みたいじゃないか。
こいつとプライベートで親しくなったことなどあったろうか?いや、ない。思わず反語で考え鉄の顔を見上げると、呑気な笑みを浮かべていた。
「どうせタメくらいだろ?敬語で話されっと背中が痒くなんだ、俺」
「てっちゃんって、社会人何年目?」
自分が童顔であることは、美優も自覚している。高校を卒業してからも時々会う同学年の男の子たちは今、学生と社会人の狭間あたりだ。(つまり就活中だったり、就職したばかりで学生気分だったり)こんな風に、自分の職業を全身で主張するようなタイプは知らない。鉄の外見はどう見ても勤め人じゃないし、学生にも見えないし、フリーターって感じでもない。その職業に入ったことは最近ではないようにも見えるけれど、職人って言葉は熟練したオジサンにしか当て嵌まらないような気がする。
社会人ねえ、と鉄は一瞬笑った。
「高校卒業してから、外で修業したのが三年、親父の下では一年ちょい。つっても高校のころから休みには下回りのバイトに入ってたから、他のヤツよりはちっと長いかも」
下回りって何だろうか。とりあえず高校を卒業してから四年働いてるってことは、美優より一歳上らしい。年上なのかと不思議に思う一方で、自分よりもはるかに世慣れているようにも見える。言葉遣いの怪しさは幼げだけれど、自分の立ち位置を知っている人間に見える、気がする。
「みーは酒飲めるようになったばっかり、だろ?」
「プラス一年だよっ」
こんな風に客とプライベートな会話は、どこまで許容範囲なんだろう。
おにぎりとサラダを入れた袋を持つ美優の隣を、鉄が歩く。共通の話題はないので、なんとなく気詰まりな気がする。
「辰喜知の夏物入れた?」
「何入れていいかわかんないし、予算少ないし」
入荷の話になるとぶすったれてしまうのは、美優にとってもどうしようもない。
「熱田さんに協力してもらったのに、動かないんだもん」
お客に愚痴を言っても仕方ないのだが、職場以外の場所で会うと心情的に許される気がしてしまう。店の前で別れるとき、鉄はひらりと手を振って言った。
「あとで行くわ。ひまつぶし」
五時を回った。来ると言っていた鉄は来ないし、階下の大きくなっていくざわめきとは裏腹な、閑古鳥の声を聴く。
「辰喜知のカタログ、貰えますか」
そう言う客にカタログを渡すのは構わないが、カタログだけ持って行って注文は来ないことの方が多いのだ。ファッション雑誌でも見るようにカタログを楽しんでいるのか、それとも他の店で買っているのかは定かでない。一つだけ言えることがあるとすれば、客はしっかりと作業着を着ているってことである。どこかでは買っているのだ。
「これ、夏物?」
熱田から借りた鳶服のハンガーを指差して、客が質問する。生地を見ればわかりそうなものだと思いながら、精一杯の笑顔で肯定の返事をした。
「はい、今季の新モデルです!」
「チョウチョウしかないの?ニッカは?」
えっとあの、ニッカって今触ってるものじゃないんですか。チョウチョウ?自信満々で新モデルとか言ってしまった手前、質問を返すことは気後れがする。
「ごめんなさい、それしか入れてないんです。お取り寄せはできますが」
慌ててカタログの該当ページを開くと、ズボン形状のものが三種類あった。一つの名称は知っている。カーゴパンツだ。もう一つは足首にベルトがあり、裾を絞めたニッカポッカ。美優の目の前に下がっているものとは違う。
ん? 違う? 私、今までこれをニッカだと思ってたんですけど!
「あ、この生地のベストもあるのか。そしたらさ、セットで取り寄せてよ」
後ろから覗きこんだ客の声に、気持ちを無理矢理切り替える。頭の中ではズボンが絡まっている。
「はい、サイズと色を伺います」
受注伝票を出してサイズと色の確認をし、連絡先を聞く。梅雨の湿度と気温だけではない、ヘンな汗を腋に感じた。もう一度カタログを確認して、正式な名称を確認しなくては。
超超ロング八分、カタログにはそう記載されている。蝶々でもなければ、町長でもない。八分とは何ぞやと他のページを捲れば、ニッカズボンとロングニッカという記載がある。同じものじゃないのだ。他にも乗馬ズボン、七分ズボン、八分ズボン、ロング八分、超ロング八分……
ちょっと待て。売り場のズボンを整理したとき、私は何故長さと形に気が付かなかった! 呆然とカタログを眺めること約十分、そしてハンガーラックを眺めること五分。全部ニッカポッカだと思っていた。鉄のようにブカブカなのは一頃のストリートダンサーのように、オーバーサイズのものを着用しているのだと思い込んでいたのに、違うデザインだったのだ。
ハンガーにかかっているズボンの裾を見る。ベルトで止めてあるものと、ブカブカズボンが途中から細くなりファスナーで裾を締めるものがある。言われてみれば、違う形だ。人間の思い込みっていうのは、怖い。全部一絡げに、現場の人が着るものと仕分けしていた。
「てめえが遅ぇからだろうがっ!」
階段をドカドカ上がってくる音が聞こえて、我に返る。そう言えば、鉄はまだ来ていなかった。美優の勤務時間は残すところ三十分だ。
「クロガネさんが寝てたんじゃないっすか」
「待ちくたびれて寝ちゃったんだよ! てめえ、三時に来いって言ったろ?」
賑やかしく階段の上に立ったのは、鉄と十代も半ばの少年だった。
「い、いらっしゃいませ」
鉄の勢いに呑まれて、ハンガーをチェックしていた手が止まった。
「まだいたか。みーは上がるの早いから、帰ったかと思った」
鉄が顔をくしゃくしゃさせて笑うと、隣の少年が美優を意味ありげに眺めた。
「クロガネさんが急いでたのって、そういう理由ですか?」
途端に少年の足に蹴りが入る。
「ここはな、在庫ねえのっ! 担当者に直接注文しねえと、いつ入るかもわかんねえのっ!」
大層な言われようだが、否定はできない。
「ウチの新人。二ヶ月持ったから、親父が作業服一式揃えてやるんだと」
そう言いながら鉄は、熱田から借りたシャツのハンガーを持ち上げ、少年に突き出した。
「リョウ、これどうだ?」
リョウと呼ばれた少年がハンガーを受け取り、タグを改めてからラックに戻す。
「辰喜知じゃないんすか?」
「バカヤロ、いきなり辰喜知なんて百年早え! てめえなんか朱雀でも勿体ねえ!」
他人の頭を殴るとか足を蹴るとかが、こんなに気安く行われても良いものなのだろうか。しかも殴られているほうは、気にしている様子もない。
「だってクロガネさんなんか自分だけカッコ良く……いてっ!」
「下回りがカッコつけてどーすんだ。みー、こいつに試着させてな?」
鉄に押し付けられたズボンを数本持ち、リョウは試着室に入っていった。
「あの子、いくつ?」
試着室に入った男の子はあまりにも子供子供していて、高校生以上には見えない。
「十六になったばっかじゃないかなあ。中卒で預かったから」
「まだ十五っす!」
試着室の中から、元気な返事が聞こえる。
「早生まれなんで、一年お得でー」
「十六になるまで、単車の免許取れねえだろうが」
鉄の言葉と同時に、試着室のカーテンが開いた。
服装って不思議だ。キャラクターのTシャツとビーチサンダルの時には、リョウは十代半ばの頼りない男の子に見えた。着慣れていない初々しさはあるが、身に着けてしまえばちゃんと鳶職の人に見える。美優の好みの問題じゃない。たとえば大学生からスーツに着替えて会社員になるように、作業服を着て職人になるのかも知れない。
「いいじゃん」
鉄が褒めるのを、不思議な気分で聞いた。
「シャツ出すなよ、ベルトは紺でいいだろ。ベージュとグレー買って、洗い替えにすれば?安全靴は自分で選べよ」
嬉しそうにリョウが頷くのを見ると、美優も少し嬉しくなった。
私って、結構重要な仕事してるのかも。外で会えば趣味の合わないオニイチャンでも、ここで服装を整えれば頼もしい職人さんになる。
見た目に惑わされるなって言葉は、見た目は重要だって意味だ。重視しなければ惑わされることなんてない。らしくしなさい。男らしく、女らしく、学生らしく、社会人らしく。反発のモトでしかなかった言葉は、ここでは誇らしさを持って受け入れられる。職人らしくなる、職人の仲間だと自己主張ができる。
「トビー! って感じしますかね?」
リョウの質問に、鉄が答える。
「見習いだろ? 百年早え」
荒い言葉が、妙に優しかった。
幸い、リョウに必要なものは全部その場で揃った。熱田に借りた作業服と、前月に仕入れた安全靴で事足りる。
「二号店で全部揃うなんてことがあるから、大雨なんだな」
憎まれ口を利きながら籠を持った鉄の横に、リョウが立つ。
「これからどんどん、商品だって揃うもん。てっちゃんのお財布じゃ間に合わないくらい」
合計六点お買い上げですっかり気を良くした美優は、ぽんぽんと返事する。考えてみればその、気を良くする要因は鉄の(正確に言えば鉄の父親の、だが)購入である。
「みーの趣味じゃ、期待できない」
「どういう意味?」
思わずむっとした声に、鉄の笑い声が重なった。
「まあ、ちょっとは使えるようになったんじゃないの?リョウも新しい作業着で出勤できるし」
階段の上から鉄たちを見送れば、もう就業時間は終わりだ。
ユニフォームから着替えて階段を下りると、まだ鉄とリョウは階下で商品を見ていた。この店は工具店なのだと、改めて自覚する。自分の売り場は二階フロアだけで、基本的には一階で何をどう売っているのか知らない。小型の機械や金物を扱っていることは知っていても、その客層まで考えたこともない。ショウケースの前であれこれと松浦に質問している鉄は、二階で美優をからかう時とは別の顔をしている。
あれが仕事の顔なのか。どちらかと言えばきつい表情で、隣に立つリョウは口を挟まずに、神妙な顔をしている。顔つきを見れば、鉄と松浦のやりとりの半分も理解していないだろうと予測はできるが、勝手に他の売り場を見たりキョロキョロしたりせずに説明を聞いている。これが多分、このふたりの本来の関係性なのだ。指導のできる立場の人間と、指導されなくては動けない人間の組み合わせ。
ふうん、そっか。着るものだけで仕事するわけじゃないもんね。
「ありがとうございましたー。お先に失礼しまーす」
カウンターに声をかけて傘を広げようとすると、リョウが走り寄ってきた。
「みーさん、駅まで歩くんですか?」
朝からひどい降りで自転車は使えず、工業団地の真ん中って立地のために、バスの便はない。駅まで約三十分歩くために、短いレインブーツを履いていた。
「そうだよ。他に帰る方法はありませんもん」
「じゃ、駅まで乗せてくってクロガネさんが言ってます。ちょっと待っててください」
とても有難い申し出なのだが、美優にとって鉄は客としての顔しか知らない存在なのである。
「え? 大丈夫ですよ、そんな」
断ろうとすると、レジの宍倉が話に入った。
「送ってもらっちゃいなよ、こんな雨で歩くの大変だし。早坂さんなら大のお得意さんだから、信用してて大丈夫だよ」
取引先として信用のおける相手ならば、人間的にも信用できるってことだろうか? 戸惑った顔のまま鉄に背中を押されて、美優はステーションワゴンの後部座席に収まった。
車の後部座席で、鉄とリョウの他愛ない話を聞くともなしに聞いていた。
「……だからよぅ、フルハーネスなんかヤダっつったんだけどよ。親父の奴、蹴り入れやがって」
「でも腰紐一本より、安心感あるんじゃないっすか?」
「フルハーネス、ダサいじゃん」
ちんぷんかんぷんの会話の途中で、駅までの道じゃないことに気がついた。
「ねえ、どこに向かってるの?」
知らない場所に連れて行かれたら、困る。そんな不安が声に出たが、それを鉄は笑って否定した。
「悪い悪い、先にリョウの家に送ってく。曲がり損ねたから」
ってことは、そこから駅まで鉄とふたりで車に乗ってるってことか。
リョウの家は、そんなに遠い場所ではなかった。と言うよりも、ここからなら駅に行くよりも、まっすぐ美優の家に向かったほうが早い場所だ。すっかり腰の落ち着いてしまった美優は、歩くのが億劫だ。このまま送ってもらっちゃおうかなー、なんて気分にもなる。安手のアパートの前で、鉄は車を停めた。
「おい、リョウ、宿題」
鉄がリョウに差し出したものを、つい見てしまったのは好奇心だ。仕事関係の何かかと思ったのだが、それは小学校の時に散々見た記憶のあるものだった。漢字ドリル、小学四年生。
「え?」
見ていないふりをするつもりだったのに、つい声が出てしまう。
「俺、バカっすから」
リョウは明るく言い、ドリルをヒラヒラして見せた。
「ベンキョーなんて全然したことなくって、行ける高校なくって。でも、字ぃ読めないと免許も取れないぞってクロガネさんが……いてっ」
べしっと音がして、リョウの頭が沈んだ。
「早く降りろ、後ろから車来るから。明日までに二十頁やっとけ」
車を降りたリョウは九十度の角度で深々と頭を下げた後、腹からの声で挨拶した。
「ありがとうございました! お先に失礼致します!」
鉄に指示されて助手席に乗った美優は、どう返して良いのかわからずにあたふたしたが、鉄自身は慣れているらしく、軽く手を振っただけだ。
「すっごく元気な挨拶だね」
「はじめに仕込むんだ、ああやって。挨拶と返事は大声で、自分の上司には絶対服従。勝手な判断には鉄拳制裁」
鉄の声はフラットだが、軍隊みたいな言葉を聞いた気がする。
「鳶さんって、そんなに厳しいんだ……」
なんか品の悪い仕事っぽいし、やっぱり古い感覚で乱暴なのかな、なんて生返事だ。
「勝手な判断とか指示を中途半端に聞くとかだと、死ぬからな」
そんな大袈裟なと一瞬思ったが、鉄の顔は大真面目だ。
「他人も巻き込んで死んだら、シャレになんねえよ。自分も他人も殺したくなきゃ、守るしかねえんだ。そういう職場だから」
死なんて言葉は、二十代の日常ではあまりリアルでない。
「お仕事で、死ぬような怪我することがあるの?」
「あるさ。新聞なんかでも、現場事故って載ってんだろ?」
そういえば、見たことはある気がする。
「みーの家、どっち?」
「えっとね、次の次の信号右に曲がったとこで大丈夫。ありがとう」
結局家の近くまで送ってもらい、別に危険でも気詰まりでもなかった。客であることは確かだが、今はお互いにユニフォームじゃない。まるまるプライベートな事柄で、親切な知り合いに送ってもらっただけだ。
「リョウの宿題、笑うなよ?」
鉄は思い出したように言った。
「あいつ、バカじゃねえんだ。わかんねえこと放っといて、わかんねえことが積み重なっただけ。本人、やる気満々で大真面目にオベンキョーしてっからさ、可愛いだろ?」
「それを見てあげてるんだ? てっちゃん、面倒見いいね」
案外と面倒見が良いと言っていた、叔父の言葉を思い出した。
「漢字も書けねえ奴に何か教えたって、ノートに平仮名並ぶばっかりだろうが。意味わかんねえし」
確かに平仮名ばかりのメモ書きなんて、読み返すと意味は繋がらない。
「それにな、知識がなきゃ、他人の仕事も知らん奴からバカにされると腹が立つ。俺らがいなきゃビルが建たねえのも知らねえのに、ビルの中にいる仕事がエライと思い込んでるバカは、ゴマンといるんだ。こちとら由緒正しき職人だからよ、バカは相手にしたくねえさ。バカだって言われたって、自分がバカじゃないの知ってりゃ腹も立たねえ」
そういう理屈だけじゃ、他人の学力を上げてやる手助けする理由には、当たらない気もする。
「あ、ここで大丈夫。ありがとうございました」
さすがに自宅前まで送ってもらうのは、やめておく。ほんの数十分の会話だけで相手を信用してしまうほど、警戒心は薄くない。
「ついでついで。またな」
思いの外イイ奴で、ただ口だけが悪い。鳶職っていうのがどんな仕事なのかなんて興味もなかったし、今でも厳密に言えば興味はない。けれどなんとなく自分が展開する商売とそれは、密接な関係があるらしい。鳶職だけじゃなく、他の作業着さんについても。
実は、少々侮っていたのだ。言葉も素行も荒く、学歴の無い人間が流れ着く仕事だと思っていた。曲がり角の先で建築中のマンションには、大手の建築会社の札が立っている。札や看板が建物を建てるんじゃない。建てるのは、人間だ。
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