手袋靴下安全靴!来勘って何ですか

「おーっす、みー坊。インナーくらい入れたよな?」

 軽やかな足音で、鉄が階段を上がってくる。

「少し入れました。こちらになります」

 いつか一号店で買っていたオリーブ色の立ち襟シャツに、オレンジの髪が映える。ダブダブのズボンはずいぶん見慣れてきたが、かっこいいと思ったことはない。

「あ、いいのいいの。今日は靴買いに来た。この前見たヤツ、いいなと思って……あ、二十七センチがない」

 美優が仕入れを決めた、辰喜知の黄色い安全靴。それを買いに来たという。はじめの晩に二足売れただけだったので、そのままサイズを補充していなかった。

「取り寄せでいいですか?」

「だから二号店って使えねえんだよなあ。欲しいもんって、すぐ欲しいじゃん」

 それについては、美優も異論はない。多分補充しなかった自分が悪い。だがしかし、がつく。だがしかし、客が皆目来ないのだから、そんなに張り切ってサイズを揃えても売れないのではないか。

「……だって、お客さん来ないんだもん」

 動きのない棚とハンガーを整理するのは、飽きた。


「聞き捨てならねえなあ」

 鉄が笑う。

「俺、何だよ」

「お客」

「だろ?客のニーズってやつだよ?それが満たされないって言ってんの」

「早坂さんのニーズ?」

 鉄は一瞬考えてから、まず呼び方を訂正した。

「親父とごっちゃになるから、テツでいいよ。鉄道オタクじゃないけど、てっちゃん」

 一号店の熱田も、そう呼んでいた。親父と、ということは、親子揃っての常連客なのだろう。

「お客さんに、てっちゃん?」

「いいじゃん、堅苦しくなくて。みー坊なんだし」

「それ、不本意」

「明るくフレンドリーな接客しなきゃ」

 フレンドリーと不作法は違う気がする。売り手と買い手は立場は対等でも、金と商品を交換する手順は決まっているのだ。美優の逡巡した顔を、鉄は曖昧な笑みで見ていた。


「ところでさ、客代表としての意見、伊佐治二号店の担当として聞く気ある?」

 美優の中で警報が鳴る。聞いても半分くらい、理解できないような気がする。

「店長、呼んで来ようか?」

「いらねえ。あいつには何回も言った。お取り寄せします、なんてバカの一つ覚えだ」

 一階の工具は作業服と動く金額が違う。忙しい松浦は、金額の大きい方を優先させているのだろう。時間的な余裕の無さと、本人がもともとアパレルにまったく興味がないことが原因だ。その証拠に、美優が二階で何をしていようが放置されっぱなしである。

「客の言葉だから、有難く聞けよ?伊佐治二号店の作業服売り場は、ダサい上に物が無さ過ぎ。着るもの買うタイミングって、ノリじゃん。生地触って気に入って、サイズありませんとか上下揃いませんとかって言われて、買う気なんて失せるっての」

 それはそうだろうなあ、と美優は思う。自分も服の取り寄せなんてしたことない。だけど、それを今自分に言われても困るわけで。

「おおおっと。ごめん、みー坊が悪いって言ったんじゃないから!」

 美優の困った顔に慌てる程度には、鉄は人が悪くはない。

「でもさ、客の大抵はそう思ってるって。俺もここが一番近いんだから、ここで買いたいわけよ」

 ちょっと打たれちゃった気分で、美優は頷く。


「じゃ商品増えたら、てっちゃんが買ってくれるわけ?」

 鉄はニヤリと笑った。

「それは約束できねえな。みー坊のセンス次第だね。だせーのばっかり入れたって、買わない」

「カッコいいのって、どんなのよ」

「お勉強しなさいね」

 結局手ぶらで、鉄は階段を下りて行った。


 カタログを見ながら入荷するモデルを決める。自分ではわからないので、二階に来た客の片っ端から声をかけた。若い客は大抵面倒そうにおざなりに返事をするが、見た目が怖そうな中年の男たちは親切だった。

「そうだなあ。俺は手袋使わないからわかんないけど、こういう薄手のヤツの方が手の感覚狂わなくていいな」

「ハイソックスの種類増やしてよ」

 そんな言葉を頼りに、発注書を切る。毎日の発注と品出し。手袋の棚は八割方埋まり、安全靴の種類も倍以上になった。そして嬉しいことに、美優に相談を持ちかけられたり商品の希望を述べたりした客は、自分の意見が通ったかどうか確認するために、売り場に顔を出すのだ。顔を出すと何か買わなくては悪いと思うのか、靴下ひと包み、タオル一本という具合に買ってゆく。面白い効果が出た。

 お姉ちゃん、コンチワーなんて売り場に来てもらうと、二階の退屈な売り場が急に華やいだ気分になる。それがゴム長靴の中年であっても。


 そんな風に美優が本格的に売り場の商品を揃えはじめようとした頃、松浦が一枚の紙を持って美優を事務所に呼び出した。

「予算、大幅オーバーです。発注控えて」

「はぁ?」

 予算があるなんて、聞いてない。売れそうなものを仕入れろと言ったのは店長だし、売り場はまだスカスカじゃないか。

「予算って、聞いてないんですけど。売り場にだって、売るものが少ないし」

「ああ、説明してなかった? 月毎の基本予算はあるけど、前年度比と前月の売り上げによって決まるの。作業服売り場はここ一年、月の売り上げ平均が五十万程度だからねえ。一気に二百万近く仕入れたって、商売としては大幅に赤字でしょ?」

「私、そんなに仕入れました?」

「発注金額の管理集計してないの?」

 初耳である。松浦が目の前に広げた紙には、日付毎の納品金額が記されていた。

「作業服売り場がスカスカなのは知ってるけど、突然売れるようになるものじゃないでしょ。様子見ながら仕入れしてください。とにかく、今月の仕入れはストップ」

 言い切って、松浦は美優に納品金額集計の紙を渡す。

「POSで本部のデータから取れるから、操作の説明だけしとく。後は自分で管理して」


 ぽんと丸投げされた売り場、聞いてもいなかった仕入れ予算、そして理解できない取り扱い商品。すでに半泣きだ。

「作業服売り場の仕入れ予算って、どれくらいですか?」

「先月の総売り上げが、ニアリイコールで五十万。だから仕入れ金額が四十万程度の筈なんだよ。利益の五十パーセントまで翌月の仕入れに上乗せしても良いってことだから、今月は四十五万くらい」

 ちょっと待て。それでは美優が今考えている安全靴と手袋の金額にも満たない。それを全部入れたって、売り場は埋まらないのだ。

「今月の予算使いすぎちゃってるから、来月からの年間計画の修正も必要でしょ。もっと減らされる可能性も高いよね」

 今ですら足りない商品の発注を、もっと減らせというのか。一号店の熱田の売り場、少なくともあれくらいには商品を揃えておきたいと思っているのに。

「でも、売るものがないんです!」

 松浦は面倒そうに言った。

「売り上げが上がれば、予算も増えるよ。あるもの売ってて。あと、客注は予算関係なく入れていいから」

 あるものを売る。売るものがない場合は、どうすれば良いのだ。おとなしく棚の整理とハンガーの整理をして、決まりきった手袋だけ売っておけとでも言うのだろうか。それでは、美優が売り場にいる必要なんてまったくない。それとも、辞めろとでも言っているのか。


 松浦が事務所を出て行った後、美優はしばらくそこに座っていた。叔父に相談しようかと思ったが、それでは職場で反感を買いそうな気がする。未経験者にはやっぱり無理なのかと思う。一階の修理担当の水田が弁当をかかえて事務所のドアを開けた。

「あれ、暗いなあ。どうしたの?」

「仕入れすぎだって叱られました」

 水田は独身の五十男で、今までいろいろな職場を転々としていたらしい。

「入れなきゃいいじゃん。商品がないって客に言われたら、店長が入れるなって言ったって答えれば?」

 そんなわけに行くか。美優が睨むと、水田はにへっと笑った。

「社長に直訴すれば?」

「それは、ちょっと……」

「強行突破しちゃうとか」

 強行突破して売れなくて爆死なんてしたら、親にまで叱られそうな気がする。会社が潰れた後、早く就職先を探せと散々言われたのだ。叔父の店だとはいえ、毎日出勤している先があるということで、両親は機嫌が良い。

 商品もないのに売り上げを上げるって、どうする?



 仏頂面でPOPをつけている美優に向けて、無駄に明るい声がした。

「はじめまして!私、アイザックの田辺と申しまーす!」

 推定年齢三十少し手前の女の人は、ほっそりとした身体つきをしている。

「えっと、はじめまして」

 人間相手が慣れない美優は、相手のハイテンションに呑まれてしまう。

「うわ、今度はずいぶん可愛らしい担当さんですね。ずうっと担当がいらっしゃらなかったから、お客さん喜んでるんじゃないですか?」

「あ、いえ、全然説明とかできなくて……」

「使う方が選ぶんだから、説明はいらないでしょう?今までは来ても店長さんに、新商品はわからないとか冷たく言われてたんだけど、担当さんがいてくれるんなら来る張り合いが出ます」

 そう言いながら、大きなキャスターバッグから靴を取り出した。

「今月発売の新商品です。スキッパーズのデザインですから、若干アメカジ風でしょ?」

 聞き覚えのあるブランド名が出た。


「スキッパーズって、下着メーカーじゃないんですか?」

 上質なコットンのポップな下着は美優も知っているが、安全靴もあったなんて、知らない。

「ライセンス生産してます。タウン用にも良さそうなデザインだと思いますが。」

 シンプルなハイカットスニーカーだが、靴紐を通す部分のくすんだシルバーが効いている。靴屋にこれが並んでいれば、自分でも手に取ってみるかも知れない。

「かっこいい、ですね」

 素直に言葉が出る。この場所で一目見て気に入るものがあるなんて、思わなかった。


 私、これ売りたい。この靴のデザイン好きだもの、これなら胸張って良いものを入れましたって言える。新商品入荷のPOP作って、階段上って一番先に目につく場所に置いて。

「いかがでしょう?白と黒、二色置くと映えますよ」

「両方入れたいです。一色だと選ぶ楽しみが半減する気が……」

 そこまで言ったとき、店長が持ち出した予算の件が頭を掠めた。今月の発注はしてはいけないし、来月の予算も削られてしまうかも知れないのだ。ここに売りたい商品があって、自分と同じ感性の人なら目に留めるって予感がするのに。

「でも、入れられないんです……」

 情けない声を出して、美優は肩を落とした。先刻確認した二号店の作業着売り場の売り上げは、先月の同日比で数万円しか変わっていなかった。降りてくる予算が限られていれば、優先するのは定番商品の充実だということは、美優にも理解できる。顧客の決まっている手袋や靴下を仕入れれば、靴を二種類増やす予算なんてない。

「今月の予算、もうないんです」

 そんな言葉をモノともせず、アイザックの営業はにっこり笑った。

「もう、二十日過ぎてますよね?ライカンにできますけれども?」

 ライカンって、何だ?


「ごめんなさい、知識がぜんっぜんないんですけれども。意味を教えていただいて、良いですか」

 ライカン、ライカンと頭の中で繰り返す。

「ごめんなさい、本当に入社したばっかりなんですね。伝票を翌月にまわして、商品だけ先に入荷させることができるんです。商品を先入れして月内に売ってしまって、請求が立つのは来月にすれば、先売りした分たけ当月の利益が増えるでしょう? 仮仕入れしていただいて、マイナス在庫が月跨ぎしないようにできるはずですよ」

 言っている意味は、やはり半分くらいわからない。翌月の経費を今使ってしまったら、翌月に仕入れることができないのではないだろうか。けれど当月でこれが動きはじめれば、少なくとも先月より売り上げが上がるはずだ。

「それって、他の店舗でも普通にやっていることなんですか?」

「はい。皆様仕入れ経費は計画予算に沿ってますから、月末に新商品が欲しいときや定番商品が欠品のときに、そうなさるお店は多いです。まあ、売れちゃえば結果オーライですしね」


 しばらく考え込んでいる美優を見て、営業の田辺は脈を感じたのだろう。ダメ押しをする気になったらしい。

「いかがですか?今月先売りして少し利益を稼いでおいて、来月の末にまた伝票を後倒しすれば、まるまる一ヶ月分の仕入れを四十日間で売ることになりません?」

 巧い理屈付けではあるが、それで商品が動く保証はない。けれど、美優はその安全靴を気に入ってしまっているのだ。

「もし良ければ、こちらでPOPも用意します。この靴ですから、展示台に背景を入れて思いっきりカジュアルにしても面白いですよね」

 その提案に、頭の中でイメージが出来上がってしまう。すぐにそれをディスプレイして、客に見せたくなる。

「入れます。来月の伝票にしてください」

 なんだか大それたことをする気分になって、声が低くなった。


 田辺がその場で受注票を切り、控えが美優の手元に残った。受注日付は当日だが、備考欄に『来勘』と書いてある。伝票の左上に当月・来月とプリントしてあって、来月の部分を丸く囲むのを、美優は見ていた。

 なんだ。はじめから書式でああなってるくらい、普通のことなのか。そう思えば気は楽だ。ライカンが来月勘定の略だと、その時にやっと気がついた。

「当社は二十日過ぎなら来勘にできますからね。月末に入荷させたくなっても、その旨連絡していただければ商品だけ先に届けます」

「ええっと。他の業者さんもそれってできるんでしょうか?」

 美優にしてみれば何も知らないのだから、聞いてみるに越したことはない。もしもそれが可能なのであれば、月末の予算を考えながら発注を組み立てなくて済む。

「うーん。できないメーカーさんもありますよ。システム倉庫とかと契約してたりすると、月末在庫と実数が合わないのはまずいでしょうしね。当社も棚卸し月と決算月にはできませんもん」

 ふうんと頷きながら、ライカンという言葉を頭に入れる。翌月の勘定に回して当月中に売ってしまえば、とりあえず月度の売り上げが増した分だけ翌月は大きく予算の請求ができる、はずである。

「いつ届きます?」

「商品は明後日に。POPは今日帰社してから早速作りますね」


 田辺が去った後、ワクワクしながら新入荷の靴を入れる棚を入れ替えた。スカスカな棚だから、場所を空けるのは簡単だ。絶対売るんだもん、そう思うと、二階に上がってくる客への声掛けも力が入る。階段から聞こえる足音に、元気良く挨拶をする。

「いらっしゃいませーっ!」

「よ、皮手買いに来た」

 見慣れたオレンジの髪にだって、機嫌良くしていられる。

「皮手、いっぱい買うんだね」

 一双ずつじゃなくて、一ダース入りの包みだ。

「鉄骨担ぐのに素手じゃねえし」

 鉄骨って担ぐものだったのか、なんて不思議に思いながら、美優は新しく入れる予定の安全靴のチラシを見せた。

「ねえねえ、これどう?明後日入るんだけど」

 ださいなんて、絶対言わせないと自信満々である。けれど美優は、現場のことなんて知らない。チラシを見た鉄が、口の端で笑うのが見えた。

「可愛いけどさ、これから夏だぜ?」

 安全靴の機能があり、センスが良ければ問題ないじゃないかと思っていた美優の考えは、そこでひっくり返された。

「夏は蒸れるから、メッシュのショートしか履かねえ。ま、溶接とかする人なら買うかもね」

 季節?作業用品にも季節があるの?

「ハイカット好きなヤツもいるから、一言では言えないけどな。健闘は祈っといてやるわ」

 えっと、すでに来月の経費使っちゃったんですけど!

「それよりさ、ショートの靴下と腕カバー入れといてよ。かっこいいやつね」

「かっこいいやつって、どういうのよ」

「みー坊の腕のミ・セ・ド・コ・ロ。ださいの入れるなよ?」

 来勘以前に、来月の仕入れ経費は足りるのか?

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