卸し店と小売店の休みは、同じじゃありません
十二月に入ると、美優の書類ケースに入れられる紙の量が増えた。各メーカー及び工務店から、次々と来る年末年始休業のお知らせだ。大手総合メーカーの休みを見れば、羨ましくもなる。ただし時給で働く美優が同じだけ休めば、次の給与は惨憺たる有様だが。
やっぱり正社員がいいなあ。福利厚生が変わらなくても、安定感が違う。休業の予定を見ても考えつくのはそれくらいなもので、伊佐治の店内は何も変わっていない。訪れる客も慌ただしそうな様子はないし、年末だからって走り回ることないんじゃないのー、みたいな。
月が変わったくらいで年末を自覚できるのなんて、一部の計画性のある人だけだ。たとえばトップがそれを強く主張しても、そこから伝わる緊張は人数が増えるごとに分散していき、言葉だけの伝達になって霧散する。そして師走の緊張感なんて、月初には欠片もなくなっちゃう。まあ、人間なんてそんなもんだ。
そんな概念だけの月末より、オトメにはもっと重要なクリスマスなんてものがあるのである。別に予定なんてなくても、華やかなウィンドウディスプレーに浮かれて買ってしまった可愛いパンプスが歩く場所を、与えてやりたいものだ。
女の子同士でだって、集まって食事くらいできるもん。みんなでイルミネーション見に行って、ちょっと良いお店に行くっていうの、どうかな。SNSで流して、プラン考えようっと。
もう一通りの冬服は入荷して出るだけ出てしまったから、あとは消化することだけを考えれば良いのだ。揃わないサイズは買い足さずに、足りない分だけ客注で取り寄せて行く。神経質に在庫のサイズを揃えると、春に大量に売り残してしまう可能性が高い。定番商品を翌年に持ち越すのは構わないが、仕入れる分の予算を考えれば、翌年の仕入れまで今年の予算を注ぎ込む必要なんかない。在庫は資産だから、保管場所を圧迫して利益にもならないとすれば、次シーズンまで邪魔な箪笥預金になってしまう。箪笥預金は利益を産まない。
松浦が大きな段ボール箱を持って階段を上がってきたとき、何も発注していないのにと不思議に思ったのだが、中身は商品じゃなかった。
「上手く飾ってね。手が足りなかったら、男を呼んで」
箱を開ければ出てくる、作り物のクリスマスツリーと各種のオーナメント、キラキラのモール類。作業服売場に、これをどうしろと。置いてあるものは、どこをどう見てもクリスマスになんか着るものじゃないだろう。まして階下の商品に至っては、その日は見たくもないのではないか。美優はそう考察する。考察したところで目の前の箱が消えてなくなるわけじゃないので、仕方なく中身を取り出した。
普段の美優のセンスでは考えられない、派手派手しいモールとオーナメント類と安手な作りの置物。見ただけでうんざりした顔になる。しかも全体的に古臭く、埃臭い。
これを上手く飾れと言われたって、どう頑張ってもダサいことになっちゃう。でも無視するわけにもいかないだろうしなあ。
しぶしぶ脚立に登り、キラキラのモールを天井から下げる。もちろん引っかけるために金具を付ける手間なんてかけたくないから、両面テープでべたべた貼った。棚のあちこちに、モールでできた安っぽいオーナメントも貼った。どうやったってダサいものはダサいので、かなりおざなりで投げやりだ。配置なんかどうでも良いとばかりに、安手な置物も棚の隅っこに置いていった。
そして一通り渡されたものを消化した成果を見回すと、意外や意外、売り場は華やかになっていた。
通常の作業着売り場とファッションブティックの大きな違いは、機能性優先かデザイン優先かだ。作業服は機能性が重視されるが故に、華やかさに欠ける。そこに色味が加われば、売り場全体のくすみが緩和される。そんな効果に美優が気を良くしても、不思議はないだろう。
ディスプレーももう少し派手にしちゃおうかな。階段の前の一番目立つ場所に、マネキンを置こう。クリスマスカラーでペアにして、その横に展示台で帽子とかネックウォーマーとか置けばいいかも。
考えているうちに嬉しくなってきて、マネキンを着せ替えた。モスグリーンのデニムとワインカラーの鳶装束を一体ずつ着せて、階下に助けを求める。女の子ひとりでは動かせないものは、そうやって助けてもらえば良いと学習した。
機材を動かしてもらっている間、もう一度マネキンを確認した美優は、ふと赤面した。別にいかがわしいことを考えたわけじゃない。モスグリーンのストレッチデニムに、ふと顔が浮かんだだけだ。数日前に見た細身のパンツ姿、あれ似合ってたな、なんて。そしてこの地厚なデニムでも、あの肩幅なら問題なしに着れるな、なんて思い浮かべちゃったのだ。
最近は鳶装束じゃなくて、カーゴパンツの鳶さんも多いって話だ。今度来たときに、ちょっとプッシュしちゃおっと。
その辺に商売が混ざるのは、まだ理性ってことにしておこう。
まさか作業服をクリスマスプレゼントにする人がいるなんて、思いもしなかった。
「これ、取り寄せるのに何日くらいかかりますか?」
「メーカーに在庫があれば、中一日で入ります」
「あ、そんなに早いんだ? クリスマスまでに来ればいいんですけど」
「……プレゼント、ですか?」
返事に妙な間が空いてしまったのは、ちょっと意表を突かれたからである。
「はい。ダンナが辰喜知好きなんで、今年のモデル揃えてあげようと思って」
クリスマスプレゼントは作業服の最新モデル! 仕事するための服なんだから、プレゼントはもう少し粋なものにしようよ、奥さん。
そんなことを口に出せるわけはなく、ただ笑顔で注文を受けつける。いくら人気ブランドでも作業服は作業服だし、彼女が購入しようとしているものは、織り柄が入っているとはいえニッカとベストのセットだ。そんなものは普段のおしゃれ用にならないから、受け取った側が喜ぶとは思えない。
それがあくまでも美優の感覚でしかないことは、数日後に理解することになった。
やけに家族連れが多いなと思った翌日に、ゴム手袋がいきなり減っていた。雑巾にするウエスも手袋も扱っているのだし、階下には大容量のゴミ袋やエアダスターみたいな家のメンテナンスに必要とされる商品が売っているのだから、スーパーマーケットや大型のホームセンターよりも安価だと知っている人がやって来るのだ。そんなことは考えもつかない美優は、首を傾げるばかりである。大掃除を暮れにする家が多いことは知っていたって、自分が主導権を持って行うことじゃないので、手渡されたもので手伝いをするだけ。つまりゴム手袋も小さな手箒も家に当然あるものだと認識していて、それを購入することは考えつかなかった。自分が販売しているものの用途は、一体何だというのだ。
なんだか最近、軍手とゴム手の動きが早いなあ。皮手は買い込んだけど、そっちは在庫ないんだよなあ。あとさ、インナー類を多めに入れたから、それ買ってって欲しい。
非常に呑気な見解である。
クリスマスには友達と集まろうって話ができつつあり、スマートフォン片手に近場でイルミネーションを楽しむ場所を検討したりする。
「あのさ、それ二十三日にしない? イブ当日だって言ったら、拗ねられちゃった」
「そういうこと言う? リア充なんて爆発してしまえ」
「まあまあ、いいじゃん、二十三なら休みだし」
「あ、それなら当日は私もデートにしよっと」
「ちょっと、いつ相手ができたの? 聞いてない!」
ファミリーレストランの女グループは、かしましい。あーでもないこーでもないと脱線に次ぐ脱線で、軌道修正した先でまた脱線。相談ごとなんて、ぜんっぜん進まない。
美優の対面の視点が、美優を通り越した向こうで止まった。
「ね、美優の知り合いじゃない?チラチラこっち見てるけど」
「振り向いていい系? どんなの?」
「ヤバイ系かなあ。イカツイっぽい感じで、頭がオレンジ……」
最後の一言で大きく打った鼓動を、無理に押し殺す。
「あ、知ってるかも」
まったく気にしない顔を取り繕って、ゆっくり振り向いてみる。たった一カ所の特徴だけで誰だか理解しちゃうのが悔しい気はするが、オレンジ色の髪なんてたくさんはウロウロしていない。
地元のファミリーレストランで、しかも週末。別に知っている顔があったって、おかしくはない。男の子の集団だって居酒屋ばかりとは限らないし、もしかしたらこれから車で出るのかも知れない。
美優が振り向いたことに気がついた鉄が、手を振る。仕方なく振り返すと、席を立って美優に向かって歩いてきた。リアクションに迷う。
ちょっと、なんでこっちに来るのよ。友達になんて説明すればいいの? 迷惑なんですけど。
派手な刺繍のサテンのジャンパー、つまりスカジャンが思いの外高価なのは、知っている。足元のスニーカーも、多分とても値の張るものなんだろう。けれどもそんなスタイルは、少なくとも美優の周囲にはいなかった。見慣れた美優ですら、違和感があるのだ。
「よお、偶然」
かけられた言葉に、曖昧に笑う。実は結構どっきどきなのだが、それを鉄にも友人たちにも悟らせたくない。
「偶然ですね。お友達とお食事ですか」
鉄に返事してから、友達に向かって店の客だと言った。
「ずいぶん他人行儀じゃねえ? ま、いいけど。俺らはこれから車でぐるっとすんの。みーは?」
「クリスマスに夜景見る打ち合わせ」
鉄は小さく笑った。
「女の子って、イルミネーションとか好きだよなあ。男にはちっともわかんねえけど」
そんなことを言うだけ言って、邪魔してごめんと席に戻った。本当に知っている顔があったから来ただけ。あんなに人懐こいのに、硬派なんて信じない。
「お客さんに、みーなんて呼ばれてるの?」
「ううん、あの人だけだよ」
「ちょっと怖いとか思ったんだけど、いい感じじゃない? 喋ると普通っぽい」
そうか、やっぱり見た目が私の周囲と合わないだけで、普通だよね。良かった、ヘンだとか思われなくて。
「あの人だけ、名前で呼ぶんだ? 仲良いじゃない」
「ああいうキャラクターなだけだよ」
明後日のほうを向いてみる。確かに個人的に仲は良いのだけれど、ちょっとビミョーなの。
結局二十三日に集まるってことで話を決め、(決めなくたって、なんだかんだと集まってるのだ)それぞれに自転車やら歩きやらと帰る途中に、後ろから来た車がすっとスピードを緩めた。慌てて脇に小さく纏まった美優たちの横で、助手席の窓が開いてオレンジ色の髪が見えた。
「気をつけて帰れよ!」
掛けられた言葉に胸が高鳴っちゃうくらい、実に良い笑顔だったわけだ。冬の夜だっていうのに、真夏の空みたいにスコーンと抜けた色に見えた。こういう顔するから、認めちゃいたくなるんだ。
そう見えたのは美優だけだったのは、当然である。何の予備知識もない友人たちには、ただ人懐こいヤンチャな兄ちゃんが面白がって声を掛けただけに見える。贔屓目だっていうのは、美優もまだ気がつかない。
「バイト、変えようかな。ショップ店員とかやってみたい」
そう言う友達に作業服も面白いと言うと、結構否定的な意見が戻ってくる。
「お客、おじさんかガラ悪いかじゃない? もっと仕事にトキメキが欲しいよ」
美優だって叔父に呼ばれて始めるまでは、そう思っていた。どうせツナギだし楽そうだし、適当に良い勤め先を見つけたら辞めちゃおう、なんて。
客はおじさんばっかりじゃないし、一見ヤンチャで言葉の悪いお兄ちゃんたちも、喋ってみれば気持ち良く楽しい人が多い。イヤな奴もいるがイイ奴もいるのは、どこに行っても同じだ。
「面白いって。作業服って、業種によって着てるものが違うんだよ」
「興味なーい」
話を切られて、またねと別れる。説明したって、体感しなくちゃ面白さは伝わらないのだ。華やかな職場にも裏方仕事はあるし、地味な職場でも飛び上がって喜ぶような出来事がある。オシャレな職場でオシャレな人間関係だけを築けるはずもなく、覚えが悪いと叱られればへこむし褒められれば高揚するのも同じ。まあ、若い女が憧れる職場でないのは確実だろう。
玄関の鍵を開けると、身体の冷えを自覚した。改めて年末が近いのだと思い直し、ちらっと今年のことを振り返る。
四月に伊佐治に入って、入った翌日にてっちゃんに会った。ちょっと待て、それが一番重要なとこ? 違うでしょ、じゃなくって覚えたこと多いでしょ。
てっちゃんのお母さんは亡くなってて、エプロン大好き。鳶さんの会社の跡継ぎで、町内会の青年部で結構なカオらしい。スポーツは万能だって聞いた気がする。御神輿のときの先頭、カッコ良かった……違うってば! 私が四月から覚えたのって、それだけじゃないでしょう?
払えば払うほど、鉄の情報だけが頭の中で反芻されてしまう。部屋着に着替える最中に手が止まってしまい、美優はぶるっと肩を震わせた。
最近、こんなことばっかり考えてる。
自転車を漕ぐ美優の息は、白い。ニットの手袋では風が通ってしまうから、サンプルで貰った内綿入りの革手袋を使ってみた。暖かく軽いので自転車には助かるが、色気はまったくない。装飾より実用を選んでしまった敗け感はあって、これではいけないと少しだけ思う。友達が言ったトキメキのない仕事ってやつに一直線だ。
連絡用の書類ケースの引出しを確認する。自分が帰宅したあとの客注のメモや、業者からの連絡が入っているはずだ。
「ああ、美優ちゃん。手袋の客注ね。ニトリルのゴム手で、薄手のだって」
朝の挨拶のあと、レジの宍倉が注文伝票を片手に言った。
「メーカーは?」
「どこでもいいらしいよ。二階うえにあるのだと、厚すぎるって」
「薄手って、炊事用みたいな?」
「いや、あんなに薄いやつじゃなくて、車洗ったりするみたい」
どこのメーカーの何番なんて指定は、期待するだけ無駄だ。客のイメージと自分のイメージが合えばラッキー、程度の考え方で揃えなくてはならない。サンプルを取り寄せて検討しなくてはとカレンダーを何気なく見て、ぎょっとする。
十二月も十日を過ぎている。これからサンプルを取り寄せて検討して、改めて発注するとすれば、少なくとも一週間程度かかる。普段ならばまったく気にならない期間で、お待ちくださいと平気で言うだろう。けれど今現在、手袋業界は繁忙期なのだ。そして年末に向けての掃除のために必要なのだとしたら、そんなに待たせることはできない。必要な期間は決まっているのだ。
手袋のカタログなんて捲ったって、質感や手入れの感覚なんてわからない。カタログを睨んで考え、仕方なく松浦に相談に行くと、単純な答えが戻ってきた。
「評判良さそうなのを、二つ三つ入れてもらってよ」
「え、どこのメーカーのですか?」
「そういうのは業者のほうが知ってるから、手広く扱ってる問屋さんに電話して、適当に入れてもらっちゃったほうがいい。どうせ暮れだから、ゴム手なんて下げておけば売れちゃうから」
そんなテキトーな発注で受けてもらえるだろうかとビクビクしながら、話し易い担当のいる卸し会社に電話する。薄手のゴム手袋が欲しいと告げると、軽い用途と価格帯を確認されて気軽に受けてもらえたことに驚く。今まできっちり品番を書いて発注書を作っていたのだ。
『じゃ、伊佐治さんのフックにないモデルで、スーパーマーケットくらいの価格のやつ、三種類見繕って送ります。サンプルつけますんで、動きが良いようでしたら継続して入れてくださいね』
内容をファックスしますとか見積って決定なんて話にならないのは、繁忙期だからなのだろうか。何が来るのだろうと思いながら、プロフェッショナルにまかせてしまう外ない。どうせ説明されたって、美優にも理解できない。あ、納期確認してなかった!
納期確認の電話を入れて、年末だから普段より少し遅くなると返事をもらう。年末なんて半月も先なのにな、まだ流通は混雑してないし、なんていうのは事情を知らない者の言い分だ。お歳暮の配送だけで、流通業のてんやわんやは始まっている。伊佐治の年末も、じわりじわりとやって来る
発注時間に間に合ったはずの商品が届かなかったのが、はじまりだった。通常中一日でご用意できますと客に告げてあったので、当然メーカーに連絡を取る。
『申し訳ありません、出荷が追いつかないんです』
申し訳なさそうに謝る流通の担当者に、大声で文句を言うわけにはいかない。通常は翌日に届くってだけで、別に当日出荷と契約書に謳っているわけじゃない。出荷しないなら出荷しないと一言あれば、先に客に了解を取っておけたのにと思いながら、顧客に一日遅れると電話をした。急ぎじゃないから入ったときに連絡くれればいいよ、なんて言葉に安心して、今日はメーカーさんも注文が多かったんだなーと考えた。
そして翌日、やっぱり荷物が来ないのである。ウェブでメーカーの出荷実績を確認して、今日こそ間違いないと思っていたのに、午後便でも配達がなかった。送り状ナンバーをもらって運送会社の荷物を追う。持出し中にはなっているが、それでも美優の手元に届かないうちに定時になった。気がつけばそれ以外にも、今日届く予定だった靴が入っていない。
あれ? 発注が間に合わなかったかな? まあどうせ在庫だし、明日でもいいけど。
渡す相手が待っていないものなら、店頭に並んでいないことへの言い訳はいくらでもできる。元々大雑把な在庫管理であるから、余程気の短い客でなければ、一日くらいフックが空いていたって怒り出さない。
だからまあ、少々の遅れは気にしようと思わなければ気にならないのだ。仕方ないなあと思いながら、帰宅前に刺繍店に電話して翌日の引取りを確認しようとした。
『ああ、すみません。急ぎが大量に来ちゃってねえ。明日の夕方までにはどうにか』
「出したの、金曜日ですよね? 今日はもう水曜日ですよ」
『ごめんなさいね。こっちも人力なもんで、フル稼働はしてるんですけど』
普段なら四枚や五枚のジャンパーの名入れなんて、一日で仕上がっているのだ。
商品が上手く回らないなと思いながら帰宅し、夕方のニュース番組を見るともなしに見ていた。年末の街は華やかに彩られて、工業団地の中にいる自分は、置いてきぼりを喰らったみたいだと思う。忘年会とかクリスマスセールとか、季節行事からすっかり遠のいちゃったみたい。
ニッカにオトメの青春を埋めるなんて、まっぴらごめん。今週はクリスマスセールに行って、ついでにスイーツブッフェにも行っちゃうんだから。女子力高めておかなくちゃ。
「美優のお店は、年末忙しくならないの?」
兄も父も深夜帰宅が当たり前になっている時期なので、母親だけとの食卓だ。
「年末に作業服買い換えようなんて人、そんなにいないと思うよ。階下の工具だって、そんなに景気よく売れてるわけじゃなさそうだし」
「ふうん。小売業って言っても、それぞれねえ」
母親にも未知の仕事なので、それ以上のことはない。十二月の慌ただしいテレビ番組を、食事しながら眺めるだけだ。
スマートフォンが軽やかな音を立てたとき、美優は連ドラの最終回に夢中になっていた。話題になっているドラマだから、美優の周りはリアルタイムで見ていると思われる。だとすれば、このメッセの相手は。
確認するまでもなく、オレンジ色のアイコンに吹き出しがつく。直の声でないのに高鳴ってしまう胸が悔しい。
――今週の土曜、ヒマ?
土曜日は仕事だから時間があるとすれば夜で、そんなことは鉄もわかっているはずだ。二人で出掛けようなんて誘いを、わざわざ事前にすることのない男だ。それを確認って、もしかしてデート―――な、わけないよね。
――仕事終わってからなら
――ヒマ人倶楽部で忘年会するから、来ない?
ほら見ろ、期待しちゃダメなんだから。自分に対して舌打ちしながら、野球の応援で一度だけ会った人たちをもう一度見るのも悪くない、と思い返す。靴のサイズが二十九センチの男も来るのだろうが、他の人たちも職人系だったと思う。殊更に伊佐治を売り込むつもりはなくとも、客として来店したときに挨拶すれば、仕事が楽になる。それプラス社会人になると仕事以外では難しくなる、新しい知り合い作りとしては良いかも知れない。仕事場に他の女の子はいないし、高校時代の友達もずいぶんバラけ気味だ。女の子とだけでも、友達になれるかも。話し相手がいなくても、てっちゃんはいるわけだし。
――行こうかな
自問自答して返信したところで、ドラマのクライマックスを見逃したことに気がついた。なんだかとても悔しい。
てっちゃんのバカ!
美優には未知の人たちであるが、気の張った人たちの集まりじゃない。だから一生懸命ファッションについて、考えたくはない。けれど女の子もいるはずで、その子たちから見劣りしたくない。野球の応援に行ったのはまだ上着が必要じゃない時期で、少々派手目の女の子を除けばフツーだった。
え? フツー? デニムのショートパンツとかヒールのあるサンダル、薄着の時期ってのは着る枚数が少ないから、よっぽど奇異なスタイルじゃなければ単品アイテムの組み合わせだ。突拍子もない化粧をしている女の子はいなかったから、美優のセンスとはかけ離れてはいないだろうと思う。じゃ、フツーに可愛くしていかなければ確実に浮く!
そしてやはり、クローゼットを漁る時間がやって来るのだ。
頑張っちゃった風じゃなくて可愛く見えるってコーディネートは、着飾るよりも頭を使う。自分が持って行きたいイメージへの足し算と、流行は知ってるけど意識してないよーってポーズの引き算の配分は、センス勝負だ。曲がりなりにも(正に言葉通り)アパレル販売員である。趣味が違うと言われるのは仕方ないが、ダサいとは言われたくない。特に、半魚人には。
夜更けまでクローゼットの前でファッションショーを繰り広げ、そういえば、てっちゃんはどんな感じが好みなんだろうなんて考えて、別に趣味を合わせる気なんてないもんと自分に言い聞かせる。頭もベッドの上もカオスなのに、一点夢見がちな部分が花開く。
女の子同伴とかって決まりのない場所に、部外者の私を誘ったのは、どうして? ダメだってば、てっちゃんなんか、なーんにも考えてないに決まってるんだから!
そして当日、定時を過ぎて入室禁止の札を出した休憩室のドアが、ノックされた。
「美優ちゃん、早坂さん来てるけど」
着替えは済んでいたので、ドアを開けた。待ち合わせはしていないし、迎えに来るとも言ってない。待たせておいてくれと言おうとして、重大な間違いに気がついた。
「社長の方? 今行きます!」
早坂社長から頼まれていた安全靴の入荷が、遅れていた。すっかり忘れて、連絡をしていなかったのだ。慌てて事務所から出て、売り場に出た。
「すみません社長、まだ入荷してなくって」
ぺこりと頭を下げると、笑顔が戻ってくるのがありがたい。
「いいよいいよ、階下の品物取りに来たついでだから。履くものはあるから、入荷したら連絡してくれれば……」
早坂社長の言葉の途中で、ドカドカと階段を上がる音がした。
「あ、いたいた。ちょっと取り寄せてくれないかなあ」
ユニフォームを着ていようがいまいが、そこに店員がいるのだから客は頓着しない。仕方なく注文書を開き、カタログを確認する。早く済ませてくれと念じながら注文を受け、ありがとうございましたと頭を下げる。
タイムカードは打刻した後なんだけどなあと思いながら顔を上げると、まだブラブラと遊んでいた早坂社長が階段の前で止まった。
「あ、うるせえのが来た。今日は忘年会とか言ってたのに、ここには寄るのか」
出先が一緒なのだと言えないでいるうちに、鉄の全身が見えた。父親の顔を見て、一瞬鼻の上に皺を寄せる。
「もう出られるんだろ? 行こうぜ」
「あ、みー坊ちゃんも一緒に行くのか。悪かったなあ、仕事させちゃって。こっちは構わなくっていいから、仕度しといで」
早坂社長に促されて、美優はやっと売場から解放される。顔を直さなくちゃならないし、髪もクリップで留めたままで行きたくない。余計な時間を食ったので、慌てなくては……
「あんまり時間ねえから、急いでな」
鉄の追い打ちに頷くと、車で送ってくれるという有難い申し出があった。駅から徒歩三十分の工業団地の中、それはとても助かる。心底イヤそうな顔をした鉄を見ないことにして、少しは時間に余裕ができたと安心して、休憩室で仕度を済ませた。
小走りで車に走り寄ると、助手席を示された。セダンの後部座席には鉄が面白くなさそうな顔で乗っている。開口一番は、これだ。
「遅えよ」
ごめんと謝る間もなく、早坂社長が返事する。
「俺が時間取らせた後に、客まで入ってきちゃったからね。仕事だったんだから、仕方ないだろ」
車が発進し、美優は助手席に座って恐縮していた。
「すみません、急いだつもりなんですけど」
「ああ、そっちの若いのはまだ知らないから。女のいない職場だしな、修行は足んねえし」
早坂社長はハンドルを握ったまま笑う。
「女はさ、見てくれじゃなくて、綺麗に見せようって心意気が可愛いんだ。顔かたちの造作が良くても、ギスギスした女じゃ触る気にもなんねえ」
「触るって、どこ触んだスケベ」
「そりゃもう、いろいろあるってもんだ」
親子の会話に混ざってしまったが、これって結構女殺しの言葉だ。綺麗に見せようって心意気とか言われたら、好きな男のために頑張っちゃおうって気になる。
駅のロータリーに入る手前で停まった車を降り、礼を言った。さっさと歩きはじめた鉄を追いかけ、会場になる居酒屋まで歩く。
「社長、やっぱり素敵だよねえ」
「みーって、オジサマ趣味?」
「え? そういう意味じゃなくって……」
「ま、いいわ。確かにいい男なんだと思うよ、普通のオヤジだけど。ただ、俺の方がいい男になるけどな」
何その自信、そう笑おうとして止めた。親父と似ているからと髪を染め、似ていることは嫌がるくせに同じ仕事に就く男。すさまじいライバル意識が底にあって、本人は意識しているやらしていないやら。
チェーンの居酒屋の前で、鉄が知り合いを見つけた。声を掛けて一緒にエレベータに乗り、簡単に自己紹介をする。
「ふうん。テツが女連れてきたの、はじめてじゃねえ? いつも見せたがんないのに」
「うるせえよ」
「連れてきたってことは、見せてもいいって思ったってことだろ?」
「そうじゃねえってば」
美優は沈黙のままに、一緒に靴を脱いだ。
一度しか会ったことのない顔ばかりだから、なんていうのは杞憂だった。数人の女の子を含めた集団はフレンドリーで、見覚えのある美優の顔は気さくに受け入れられた。派手に見える子ほど気遣い上手で、自分の普段の交友が偏っていたことを知る。美優は自分は普通だと思っていたけれど、そもそもの基準はサラリーマン家庭で可もなく不可もなく育ち、電車に乗ってお勤めに行くってことだった。
違うんだな。普通って一口に言っても、いろいろな普通があるんだ。標準的なって言葉は知ってるけど、その標準って何を意味したものなんだろう。学校なら成績だけど、社会人は何? 年収? そしたらアルバイトの私なんて、基準にも満たないじゃないの。
足が二十九センチの男は、作業服のままで登場した。知らない顔があると思ったのか、美優を見ておとなしく頭を下げる。店ではあんなに嵩高かったのに、女の子に近寄ろうとしないのが妙におかしい。気安い雰囲気に押されて、からかいたくなるのは人情ってもんだろう。
「先日は行き届かずに、失礼いたしました」
バカ丁寧に頭を下げると、ひどくうろたえた顔になった。事情を知っている鉄だけが、やけにニヤニヤしている。
「……誰、だっけ?」
「伊佐治の相沢でございます。ご要望の靴のサイズは、ワーカーズさんで見つけられましたか」
そこまで聞いて、やっと美優に思い至ったらしい。突然目線が上からに変化するのが、ちっとも可愛くない。
「ああ、あの役に立たない作業着売場」
聞き捨てならないが、知り合ったばかりの人たちの前で喧嘩はしたくない。だから一言発するだけに留めておく。
「巨人みたいな足ですもんねー。ワーカーズにはありました?」
実は前回取り寄せようか迷った末に、最寄りのワーカーズに客を装って問い合わせてみたのだ。イレギュラーサイズだから取り寄せはできるが、店頭には置いていないと返事をされた。
「あったよ、さすがワーカーズだよね。伊佐治とは品揃えが違うよなあ」
半魚人の厚い唇がスラスラと嘘を吐き、美優は腹の中で溜飲を下げた。そんなとこで自分は正しいって見栄張って、何か得するとでも言うの。
「美優ちゃんって作業服屋さんなの?」
「うん、そう。てっちゃんはお客さん」
「あ、そうなんだ。お客さんとつきあってて、お店で何か言われない?」
美優の顔に血が上った。乾杯で飲んだビールのせいじゃない。
「つきあってないよ。友達になっただけ」
大きく手をパタパタして否定する。ここにいる人たち、みんなそう見てるのかしら。
「ふうん。ヤツも成長したかなって思ったんだけど」
話し相手は面白そうに笑った。どうも鉄とはずいぶん前からの知り合いらしい。
「早坂って面倒じゃん。高校のときだって男子と下級生には人気あったけど、同級の女の子たちはぜんっぜん」
それは、とても簡単に理解できる気がした。男女の扱いの区別ができないのに女の基準が母と祖母なんだから、感覚が派手に食い違う。男に囲まれてリーダーシップを発揮していても、中身が甘ったれ。考えるとマジで残念なヤツである。
「どこの作業着屋さん? 辰喜知とか置いてるんなら、今度オヤジ連れて買いに行く」
女の子の言葉に、喜んで頷く。
「伊佐治って工具店の二階なの。お父さんの作業着?」
「やあだ、オヤジって親方のこと。私がクロス職人なんだよ」
驚いて、顔を見返してしまった。女性の職人が存在することは知っていても、美優の売り場ではお目にかかっていなかった。
長い髪にウェーブを施して綺麗にアイラインを入れた彼女は、企業の受付にいても違和感はない。言葉遣いがラフなのは気の置けない場所だからだろう。
「女の職人さんって、かっこいいですねえ」
本当に職業って、いろいろだ。伊佐治でアルバイトをしたからこそ鉄と知り合い、知り合ったからこそ世間が広くなった。
酔いが回ってくるにつれ、鉄の席が近くなってくる。
「みー、飲んでる?」
「飲んでるよ。楽しい」
「そっか、良かった」
それだけの会話で放置されてしまって、話の中心にいるらしい鉄は美優を気に留めてはいなさそうだ。代わりみたいに新しい作業着を買いに行くって話が、他の男から出た。
「先にネットで選んどいて、取り寄せてもらうってのもできる?」
「できるよ。品番とサイズ言ってくれれば、手配する」
「じゃあさ、電話番号教えといてよ」
美優の会話を聞いていたのか、たまたま耳にしたのか。スマートフォンを出していざ番号をってところで、鉄が割って入った。
「俺に言えよ。みーに伝言してやるから」
よく知らない男に番号を教えるのもなんだかなあと思っていた美優は、少しだけ安心する。店から持たされている携帯電話じゃなくて、個人のスマートフォンなのだ。
「テツなんか通さなくても、直接言えば早いじゃん」
「いや、おまえ趣味悪いからさ、俺が選んでやるっつってんの」
会話に紛れて番号交換は有耶無耶になり、あっという間に散会の時間になった。二次会には残らずに帰ると言うと、残念そうな顔をしてもらえたのがありがたかった。
「俺、みーのこと送ってから戻るわ」
そんなことを言っている鉄も酔った顔をしていて、戻る道のほうが心配になる。いいからいいからと別れて帰りながら、美優には充実した忘年会だった。
送らなくていいと振り切ったはずの鉄が、何故横を歩いているのだろう。ひとりで乗った電車の別の車両から移動してきた鉄は、酔っぱらいの笑いだ。
「誘った女くらい、送んないと」
とても紳士的な言い分だとは思うが、送られる方が危険な気がする。もちろん鉄に下心があるとは思っていないけれども、酔っているうえに暗い道だ。
「ってか、逆に心配なんですけど」
「なーにーがー。俺は襲われねえから。ケツ、死守」
「何それ下品っ!」
「俺がおじょーひんなわけ、ねえだろ」
へらへらと笑い、一緒に電車を降りる。酔っぱらい相手に何を言っても無駄である。
駅前のコンビニエンスストアで暖かい缶コーヒーを買い、飲みながら歩く。十分程度の道のりで、別に大した話題があるわけでもない。
「おうちの仕事継ぐのって、どんな感じ?」
美優も親戚の会社が勤め先ではあるが、普段は顔を見合わせるわけでなく、現場には自分しかいない。階下の他の従業員だって、大抵の場合は美優が社長の身内だと忘れているだろう。
「あの親父が、息子だからって楽させると思う? 却って俺が一番きつく当たられてると思うよ。まあ、ガキの頃から知ってる社員さんも多いから、馴染むのは早かったけど」
前を向いたまま、鉄が言う。
「この業界は、結構入れ替わりが激しいんだ。身体壊して辞めるのも多いし、覚えたころに他の仕事に行っちゃうやつも多い。そのたびに親父がガッカリしてる顔、見てるからな」
酔っているからか、やけに素直な言葉だ。
「てっちゃん、お父さんのこと好きだよねえ」
からかったわけじゃなく、本当にそう思う。仲の良い親子だなと、微笑ましい。これには即座に否定が入った。
「いや、俺はあれより上だから。俺が世界で一番かっこいい男になる」
世界で一番かっこいいと、鉄の父親を表現したのは誰だ。結局のところ、鉄の根源はそこなのだ。
「一番かっこいいって、誰が認めるわけ?」
「俺がそう思って欲しいと思うヤツが」
鉄が言いかけたところで、乱暴な車が狭い路地に入ってきた。反射的に美優の肩を抱いた形になった鉄が、道の端に寄る。
うわ、てっちゃんの肩だよ肩。何この接近、どうしたらいいんでしょう。そう思ったのはどうも美優だけだったらしく、車が行き過ぎると鉄の手は離れた。ドキドキして損した気分だ。
「てっちゃん、これから二次会に戻るの?」
「ああ、どうしようかな。一応出席して義理は果たしたから、帰るかな」
そちらこちらで活動しているのは、本人が騒ぎ好きだとは限らない。義理を果たしたって言葉を額面通りに受け取れば、少なくとも前の晩から楽しみにしていた類のものではないだろう。
少し歩けばマンションの前まで到着してしまって、外には何もない。自分だけが別れ難い気になっているみたいで、美優は少しだけ悲しい。
「やっぱりちょっとカラオケに顔出して来る。またな」
そう言う鉄に送ってもらった礼を言えば、酔いの残った顔が正面から美優を見ていた。
「みー、俺ってかっこいい?」
頭の中を感嘆符が舞う。この質問に、どう答えろと言うのだ。真面目に答えるには照れくさくて笑ってしまいそうだし、否定するには顔が真面目だ。曖昧に笑うしかない。
「ま、いいや。おやすみ」
エントランスの中から、後ろ向きに歩いていく長身を見ていた。
翌週、美優のカウンターは大変なことになった。
「どれくらいかかる?」
年末が目の前だというのに、防寒着十着。普段ならば一週間あれば出来上がっているが、刺繍店は普通の家で営業している。少々お待ちくださいと言いながら、電話で確認する。
「申し訳ありません、年明けすぐくらいなら」
「そんなにかかるの? 急がせてよ、伊佐治さんなら余裕でしょ」
「刺繍屋さんが混んでいるみたいなんです。小さい店なので」
少し考えるなんて言って階段を下りた客は、考えもせずに店長に話をぶつけたらしい。
「美優ちゃん、時間がかかりすぎるってお客さん怒ってるけど」
「ネーム刺繍ですよね? 年末なので、刺繍屋さんが混んでるんですけど」
「十枚なら相応の金額動くんだからさ、頼んで年内に納めてもらってよ」
「頼んでみますけど……」
「頼んでみるじゃなくて、やらせてよ。そういうのも仕事のうちでしょ」
客のために無理を通すのも仕事のうちだと言われれば、半泣きで頼み込むしかない。電話でしぶしぶ引き受けてもらったもののダメ押しで、客注で入荷したものを持ち込むときに一緒に頭を下げに行くしかない。
「この靴、サイズは出てるだけ?」
「はい、申し訳ありませんがお取り寄せになります」
「年内に入る? 俺、二十七日には実家帰っちゃうからさ、その前に」
「今ならまだ間に合うと思うんですけど」
翌々日に入る計算で答えて、メーカー在庫が切れていたりする。そうして、もういいやと切り捨てられる。
「ビニ手、いつ入る?」
月末に在庫を入れろとか言うな。メーカーは月末には休みに入ってしまうのに、来勘が効くタイミングは平常月と同じだ。つまり、日数が短くなっちゃうのだ。当月の予算は残り僅か。
「掃除に使うから、使い捨てる安い軍手ちょうだい」
「はいっ! 申し訳ありません、明日入荷予定です!」
二十三日に友人たちとお出かけして日頃希薄になりそうな女子要素を吸収したら、年の瀬が押し寄せる。もう注文なんか受けたって、年内には納められない。出荷してもらっても、引取りには来ないだろう。
「年末セールしてよ」
「定番ですから、一年中手配できるんですよ。ってか来年値上がりしてるかもですから、今年の内に買って置いたほうがいいと思います」
客との軽口も慣れたもので、値引き交渉の権限は与えられていなくても、どれくらいの見当までなら引けると判断してレジに伝えられるようになった。
「あいっかわらずサイズ揃わねえなあ!」
大上段な客にビクビクしながらも、階段を降りていく後ろ姿に舌を出してみせるくらいはお手のものだ。
誰も助けてくれないし、客の言いなりになっていると予算なんか絶対に足りない。年末ギリギリの客は手袋と靴下ばかりになり、正月用だと下着類を購入する人がぼちぼちと入ってくる程度だ。さすがに休み前に作業服を買いに来る人は少ない。だから普段は手の届かない棚や、前からあって意味不明の在庫をチェックしたりしてみる。
失敗仕入れだと思っていたカーゴパンツは、いつの間にかずいぶんと減っている。服には色とサイズがあり好みがあるのだから、短期間で全部ペイなんかできないのだ。逆に客全員が同じ服装をしていたら、美優の仕事はいらなくなってしまう。
焦ったって、いいことないよね。予算に余裕ができれば、売り場が空いた場所に次々出せるもの。付け焼刃の思いつきで在庫を抱えるんじゃなくて、計画的にお買い得商品を回せるようにしなくちゃ。
暮れの仕事は三十日までで、さすがに大晦日は休みになる。ホームセンターのように年中無休ではなく、来店の見込み客数を考えても光熱費を含む運営費のほうが嵩んでしまう。
鉄は早々に冬休みになったらしい。日帰りでスノーボードだのっていう非常に気楽なメッセが入り、まだ仕事の美優は面白くないこと甚だしい。
やっぱりオフィスワークを探そうか。今のうちならまだ、紙仕事の知識は古くなっていない。周囲が遊んでいる時期に仕事してるってことが、なんとなく損してるみたいな気になる。
仕事がなくなって家にいたときは、何か楽な仕事がないかなぁと考えていた。伊佐治に入ったのも親に働けとつつかれただけで、何か目的があったわけじゃない。けれどこれから転職するのなら、ちゃんと自分の責任と裁量を図れる仕事がいい。友達が辞めたからってつまらなくなっちゃう仕事って、本当は面白くなかったのだとリアルにわかる。自分の適性が小売業にあるかどうか、わからない。ってか、はっきり言って向いてるとは思えない。
だけど伊佐治でしている仕事が、無駄な知識を蓄えているだけだとは思えない。どんどん更新していく新しいアパレルの知識じゃなくて、それ以外に多分蓄えたものがある。だからきっと、今辞めたら後悔する。
何度目かの堂々巡りで、自分がまだアルバイトを続ける意思があることを確認する。つまり、客が薄くてヒマなのである。
何人かで外に出ているから一緒に夕食はどうかというメッセがあり、自分だけ仕事帰りだとぐったりしながら了承の返事を返す。父親はもう休みに入っているが、金融業の兄がひどく大変な時期なので、家の中の年末ムードは薄い。
そっか、てっちゃんは休みに入っちゃったんだから、店になんか来ないよね。そうすると、次に顔を合わせるのは年明けかな。
寂しいとか思うと、本格的に負けた気になる。それはどうしても悔しい。
俺ってかっこいい? あの言葉は、どういう意味だったんだろう。私にかっこいいって言って欲しいんだろうか。それとも自分が外からどう見えるか確認したいだけ? 何が言いたいのか、ちっともわかんない。
自分への期待だと受け止めてしまいそうな気持ちを、押し殺そうとしては失敗する。認めてしまえば楽になることは知っていても、鉄の気持ちを勘違いしていた時のショックと苦痛を思い浮かべることができる程度には、片思いの寂しさも知っている。
もう少し、踏み込んでくれたらいいのに。そうすれば、私も態度に出したっていいと思うの。美優から近づくには、鉄は未だに未知のタイプ過ぎる。
スマートフォンがまたメッセの着信を告げる。オレンジ頭のアイコンを、反射的に頭に思い描く自分が癪に障る。
土産買ったから、明日渡しに行く。
思い描いていたアイコンからのメッセに、しかめっ面をしてみせる。仕事仕舞いまであと二日、がんばっちゃおっと緩んで来た頬に喝を入れ、手にハタキを握りなおして売り場のメンテナンスに戻るのだ。
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