失敗仕入れも時々あります

 調子良く前山被服が営業に訪れたとき、まだ当月の予算に余裕があったのは幸いだったのだろうか。二階に運び込まれた大箱三個に、ぎっしりと入っているのは作業服である。納品書に記載されている数量は、カーゴパンツが三色で百五十着。捨て値で出せる廃番品でサイズが揃っていると聞き、商品の寂しい売り場にと、美優が自分の判断のみで決めた。普段仕入れる物は任されているのだから、慣れつつある今、掘り出し物で利益を上げることも考えたいと思った。

 特価でPOPを作りちょっと目を引くレイアウトにすれば、一日三本売れるとしても二ヶ月で全部捌ける。何でも良いからズボンが欲しいなんて言う人は多いから、そんな人には絶好のお勧め品だと思える。セール用に作られたチェックの甘い商品ではなくカタログ品だったものだから、お買い得だっていうのは間違いない。


 十万くらい、勝負に出たっていいよね。先月業績は上げてるんだし、階下の機械を一台在庫したら、十万どころじゃないもの。どうせ誰に相談したって明確な返答はないのだし、(美優に任せたと言われるだけだ)当たり外れは店頭に並べないとわからない。

 だから話を持ちかけられたとき、少々迷いながら入荷を決めた。今までよりも数量は大きいが、現在までで美優が決定して入荷したものは、大きく外したことはない。大丈夫、これくらい売ってみせるってなもんだ。


 運び込まれた商品の量を見て、呆気にとられた。在庫をカウンターの内側に置いたら、邪魔になってしまうような数だ。そして考えてみれば、そんなにハンガーの数だってない。可動式のハンガーラックに下げるつもりだったのだが、サイズにつき一本ずつ掛けたって、箱は減らない。

 なんだか向う見ずなことをしたんじゃない? そう不安になったところで、松浦が更に追い打ちをかけた。

「美優ちゃん、今日いっぱい届いた荷物、客注?」

 言いながら松浦の指した先には、カーゴパンツの大箱がある。

「あ、いえ。出物なんです。安価く仕入れられたので、目玉にしようと思って……」

「ふうん? どんな価格帯で売って、どれくらいで売り切れる?」

 あれ、仕入って私に一任されてるんじゃないの? なんか、雲行きが怪しい。

「イチニッパーで、ハンガーラック房掛けです。大体三ヶ月完売を目安に……」

 自信満々で二ヶ月なんて言えなくなった。自分が考えていたより大量の商品が、ここにあるのだ。頭の中では楽勝だと思っていたのに、目の前のボリュームに怖じ気てしまう。

「美優ちゃんが独断で仕入れたんだから、美優ちゃんの責任で売り切ってね。責任って、辞めることじゃないよ。わかる?」

 つまり松浦も、無茶な仕入れだと思っているってことだ。美優は情けなく上目遣いになる。


 紺・シルバー・チャコールの地味な色味は、派手なPOPをつけたくらいじゃ映えない。目立つ場所に置くといっても、そうすると季節物を飾るスペースが小さくなってしまい、季節感の薄い売り場になる。

 けれど手に取り易い価格設定で、量販店と競争しつつ良いものを提供できるはずだ。ビクビクしながらもハンガーラックの場所を決め、納めてしまえば売れるような気もする。デザインはごくごく一般的なものだし(って言っても、美優はいまだにカーゴパンツのデザインの良し悪しなんてわからない)生地の肌触りも悪くない。たとえば濡れたときや汚れたときの替えズボンに、便利に使えそうな感じだ。

 大丈夫、売れる、と自分に言い聞かせて、安価な商品と訊かれたときの心構えをした。


 ところが。二階の客はまっすぐに防寒着と防寒用インナーをチェックし、通常の作業服なんか目もくれない。寒さが増した現在、身体を冷えから守るのが一番重要で、そのための被服を購入すると満足してしまう。ときどきハンガーに目を留める人はいるが、ほぼスルーだ。

「これ、上下で揃わないんですか」

 たまにそんな質問は来る。

「下だけのモデルなんです。良い商品ですよ」

 そう返事すると、セットアップで安価な商品はないのかと質される。

「やっすい作業服でいいんだけどさ、とりあえず揃えて来いって言われたから」

 引っ越しや倉庫のアルバイトに、それらしく形を作りたい人もいるのである。そうなると、上下揃えて着たいと思うのも納得できる。夏なら上は薄いシャツ一枚だが、いかんせん冬なのだ。しかも、これからますます寒くなるっていう。


 毎日在庫をチェックして、一週間で売れたのはたったの二本。値の張る防寒ジャンパーは、ちゃんと動いているのに。

 カウンターの中に座るたびに、背中の段ボールがとても邪魔だ。在庫の分だけ、物理的にも心理的にも自分の場所を圧迫されている気がする。なるべくそちらを見ないように気を付けながら、まったく減る気配のないハンガーラックを、毎日チェックする。一号店や三号店に分配することも考えたが、美優から言い出すことは、なんとなく気が引ける。

 三ヶ月でなんて、とても売り切れない。



 ハンガーラックをチェックしては溜息を吐き、視線を走らせる客に買えと念じても、カウンターの中を圧迫する在庫は減らない。責任をと言われたって、売れないのなら買い取れとか言われるわけじゃないことはわかっている。服には色とサイズがあるから、一生懸命考えた仕入でもあぶれるものは出てくるのだ。それは突拍子もない色やサイズってわけじゃなくて、たとえば偶然にもMサイズの人はそれを欲しがらなかった、みたいな。

 商品は流動して一定はしないし、在庫を数えるのは人力で、大手のスーパーマーケットやホームセンターのようにPOS管理はされていない。目の前に積み上がっているのは、あまりにも精神衛生上よろしくない気がする。

 売場のどこかに纏めて吊ってしまおうかとも思ったが、限りあるハンガーの数を考えれば、それにばかり使用できない。カッコいい作業服を探しに来る客に、同じモデルばかり見せても飽きられてしまうだけ。


 詰みましたね、美優さん。いや、詰んだじゃなくて、積んだでしょう。自分にツッコミを入れて箱を睨んだところで、商品が売れるわけじゃない。下げておけば捌ける商品なのには間違いないらしく、微量に一本とか二本とかって動きはある。だからぎっしり詰まっていたはずの箱の上辺に少しだけ空きができて、積み上げると潰れて見苦しい。纏めれば少しはすっきりするだろうかと、箱の中身の整理方法に迷った。三色のカーゴパンツと言っても、色も数量も同じで入って来たんじゃない。中間サイズは出易いから、箱の底の方に入れると出し入れに苦労しそうだ。

 ってか、同じサイズばっかり出るのなら、中間サイズは複数枚出した方が良くない? そうすれば毎日チェックしなくたって良さそう。少なくなったなって時に注ぎ足せば。毎日本数をチェックして時間を潰したって、販売数量が変わるわけじゃない。それならいっそのこと、考えなくても良いようにしたほうが楽ってものだ。

 サイズ毎に分けて箱に詰め直し、数量を書いた紙を横から見える位置に貼った。それを二段段積みして、入りきらなかったものは無理矢理ハンガーラックに吊った。ギシギシに入っている商品は、いかにも安物叩き売りっぽく見えて、うんざりする。


 カウンターの一番奥にカーゴパンツを押し込み、手前に今月買い込んだ手袋と靴下を置いた。こちらはデイリーに動くものだから、少しずつでも毎日減っていく。長期戦の構え、完成である。自分の目から遠くなったことに、ちょっと安堵の息を吐く。やっちゃったことはやっちゃったこと、自分の懐が痛むわけじゃない。自分が思ってるより時間がかかるかも知れないけど、大丈夫売れるっ!



「なんかさ、そこ、すっげー狭そうじゃねえ?」

 カウンターに寄りかかった鉄が言う。後ろにリョウが控えている。リョウは半年で、ずいぶん顔が大人びた気がする。

「うう。もっと売れるかと思ったんだもん」

「何入ってんの、その箱」

「カーゴパンツ……百本以上ある」

 自分で決めて仕入れたのだから、誰にも転嫁できない。たとえば本店から割り当てで来たものだったり、店長が入荷を許可したものだったりすれば、八つ当たりもできるのに。

 美優の情けない顔を見て、鉄も何か理解したらしい。

「ああ、全然売れないの? だっせーモノ入れたんだろ」

「ワーカーズとかの路線、狙ったんだけどなあ」

 リョウがハンガーラックをチェックしに行き、鉄の口許が緩んだ。

「ああやって、安物狙ってチェックする客もいるけどな。伊佐治って安いものを大量に置いてるイメージがないから、警戒するよな」


 ああ、そうか。今までの商品とイメージが違うのか。

 安価な出物を量販して利鞘を稼ぐことよりも、それを管理する人間の手間が今まで考えられなかった売り場なのだ。それができるようになったと浸透するまで、まだ時間がかかるかも知れない。手袋も靴も靴下も、数か月前より今の方が回転が早い。伊佐治には商品があるのだと認識させるまでに、長い期間がかかったのだ。

 リョウが見ていることで気を引かれたのか、二階に上がってきた客が一緒にハンガーをチェックし、試着室に入って行く。それを見て、美優も場所を移動した。

「サイズ、いかがですか?」

「これでいいや。どうせ汚れるものだから、安価いのでいいんだ」

 試着室からの返事に、小さくガッツポーズをした。


 出てきた客は、丸めたカーゴパンツを手に持っていた。

「何本か欲しいとこだけど、下がってる分しかないんでしょ? 紺で何本か欲しいんだけど、こっちの黒いの貰ってくかな」

「在庫あります! 出しますので、少々お待ちください」

 積んだ箱から在庫を引っ張り出し、客に手渡して、階段まで笑顔で送る。そして少し考える。


 汚すことが前提の安価なものなら、複数枚で欲しがるのか。そうしたら、ぎっしりの房掛けはアタリなのかも知れない。今まで目立つカタログ品ばかり扱っていたので、一度に複数枚買う人のことなんて考えなかった。

 カウンターに戻ると、意識せずにサクラになったリョウと美優のガッツポーズを見ていた鉄が、ニヤニヤ笑っていた。


 たかだか三本のカーゴパンツでも、売れれば嬉しい。帰り時間直前に、いきなり上がるモチベーション。

「いらっしゃいませーっ!」

 次に来た客への挨拶も弾むってもんである。

「なんかさ、俺らが来たときと態度違わねえ?」

「そうっすよね。また来たの、みたいな顔してましたよね」

 背中でボソボソ聞こえる声は無視し、いそいそと新しい客に近づく。何度か来店している客は売り場の配置を覚えているので、案内の必要はない。慣れていなくても店員の案内を嫌う客もいるので、少々間を開けて案内の必要性を確認するのだ。


「サイズは出てるだけ? 相変わらず役に立たないねえ」

 毒々しい言葉でも、表情が笑ってさえいれば苦痛じゃない。在庫がないものはないのだから、反発したって言い訳にしかならないのだ。

「すみません、次に揃えておきますので。お色はネイビーで?」

「じゃあ、次に来たときに買うよ。売場に出しといて」

「たくさんは在庫できないので、出しとくと売れちゃうかも。入荷したら連絡しましょうか?」

 買わないかもよと念を押しながら、客は電話番号を残す。そう言いながらも自分で入れておけと言った手前、知らんぷりできる人は少ない。しばしば訪れる店では尚更だ。

 頭を下げて客を見送りカウンターを振り向いた美優は、小さくサムアップした。


 カタログをパラパラ捲っていたリョウが指差すものをメモに取り、試しに取り寄せてみると約束すると、美優の定時が来た。

「私、もう時間だから帰るよ」

「ひっでえ店員。客がいるのに帰るとか」

 鉄が笑う。

「時給のアルバイトでございますから。注文があれば、下のカウンターにお申しつけください」

 ざっくり言い置いて名札を外す。利益にならない客と、いつまでも遊んでいるわけにいかない。まだカタログを開いている鉄とリョウを放って、事務所に引き上げた。


 リョウ君と一緒じゃ、ごはん食べに行くってわけじゃないだろうし、何しに来たのよ。下唇を突き出し気味にタイムカードを押し、上着を羽織る。

 何しになんて考えることが変で、作業服売場を訪れるのは、作業服や安全靴や革手袋に用事があるに決まっている。客を客扱いしないことが特別扱いなのだと、美優はまだ気がついていない。いわゆる公私混同ってやつなのだが、気楽な小売店の気楽な接客なので咎められたりはしない。

 今度は一階で遊んでいる鉄とリョウに挨拶しようとしたところで、二人の横に工具店では珍しい姿の人がいた。メーカーの営業ですら作業ジャンパーメインの店で、普段はほとんど見ない背広姿である。もの珍しくて、つい顔を確認してしまう。


 会社勤めのころ社内で見る中年男の背広姿は、くすんでいた。丸まり気味の背中と薄い胸で、着ているのは紺茶灰の暗い色。まるでお仕着せを身に着けただけの、個性も何も見当たらないものだと思っていた。通勤電車の中で目が行くのは自分より少し年上の男たちだったが、全身をじっくり見てたわけじゃない。他に目にするのは兄だが、金融の男は遊びを取り入れたりできないらしい。

「素敵ですねぇ」

 思わず近寄って声をかけると、早坂興業の社長はにっこり笑った。がっしりした体躯で背をまっすぐに立て、日焼けした肌に映える淡い黄色のシャツだ。仄かにコロンの香りまで漂うのだが、着慣れていないものを着るときの野暮な感じはない。

 中年の男が素敵だなんて、思ったことなんてない。三十代から五十代は十把一絡げのオジサンカテゴリに区別していて、興味範囲外だったのに。うっかり目がハート形になりそうになり、ふと我に返った。

 てっちゃんのお父さんだよ、これ。何うっとりしてんの。


「今日はどちらかへ、お出かけですか」

「ちょっと大きい物件取れそうなんでね、こんなカッコして出なきゃなんなくて」

「じゃ、気が張りますね」

 相槌を打つ声も、どことなく浮かれ気味になる。自分の父親がこんな人だったら、嬉しいなあ。

「酒飲んで、お姉ちゃんのいるとこ行くんだろ。迂闊にアドレスなんか教えんなよ、自分で迷惑メールフォルダに入れられないんだから」

「最近の機種、操作がわかんねえんだ。おい、終わったから駅まで送れ」

 親子のやりとりを聞きながら、自分も自転車の鍵を握る。ぼうっと見惚れていても仕方ないし、売場に鉄とリョウが来たことすら、父親の用事の最中の暇潰しだったのだ。美優には何の用もない。


 あ、なんだかすっごく面白くない。てっちゃんが売り場に来ただけで、何かの誘いかもって思っちゃうのって、一体どうよ? 私だけ余計な期待してない?

 とても負けた気分で、自転車のペダルを踏む。手袋で守られている指先が、もう冷たい。鼻の頭も冷たい。暗くなった道を走るのもイヤになり、仕事へのモチベーションまで下がりそうな気がする。

 バカみたい、私。てっちゃんは、ただ少し仲の良いお客さんなだけなのに。



 相次いで帰宅した父と兄のスーツ姿を見て、改めて鉄の父の肩の線を思う。職業柄の体型だとすると、鉄も中年になったらあんな姿になるんだろうか。骨格は似ていそうだし、持つ雰囲気は本当によく似ているし、鉄のほうが背が高い。

 なんで嬉しくなっちゃってんのよ。私に何か関係があるっていうの。ってか、さっきから何を考えてるの?

 早坂家の父を思い出してるんだか息子のことを考えてるんだか、入浴中の美優の頭の中は多忙だ。翌日発注するものと、次の休みに誘われたアウトレットモールの情報の間に、鉄がひょっこりと顔を出す。安定の悪い精神状態にうんざりしながら、口許まで湯に浸かった。


 もしもそんなことになったとして――ですよ? どうだと思います? つきあってくださいとか言うんですか? それとも向こうから、好きだとか言ってくるわけですか?

 お気に入りだった筈のフローラル系の石鹸の香りが、やけに甘ったるく感じる。兄のミント系のシャンプーのほうが、今の気分を引き締めてくれそうな気がする。洗い場でそちらに手を伸ばしかけて、ひっこめた。うすぼんやりと形になっていく期待が、逆に自分を不安に導いて行きそうで。

 まわりに女の子がいない。それがこんなに不安だなんて、思ってもみなかった。美優は鉄がどんな人だか半分くらいは知っているつもりになっているけれど、それは主観だけだ。いい子だよと褒める人たちは、客としての鉄の顔しか知らない。客観視した鉄を、美優に伝えてくれる人がいない。

 自分の気持ちがそちらに傾いていくのを自覚しているのに、この先どうしたら良いのか見当がつかない。


「風呂長いぞっ! 後がつかえてんだから、早く出ろ!」

 ドア越しに兄が大声を出す。途端に思考はぶつ切りになり、ヤケクソな気分で湯をかぶった。とても浅い経験だけれど、考えたって何の足しにもならないことは知っている。

 悔しいじゃない。私だけがそんな風に期待したって、てっちゃんは仕事や買い物の用事で店に来てるんだから、私じゃなくても仲良くなったのかも。私だって一番最初に気安く口を利いたのが、てっちゃんだったってだけかも知れない。たまたま手近にいたからなんて、悔しいじゃないの。

 頭にタオルを巻いてパジャマを身に着け脱衣場から出ると、待ち構えていた兄が入れ替わりに入って行った。居間に残されたビジネスソックスを指先でつまんで退け、なんとなく癪に障って睨みつける。ただの八つ当たりだから、そのまま自室に入って髪も乾かさずにベッドに腰掛けた。

 どうしようっていうのよ、美優。どうしようもないじゃないの。



 そして翌朝、美優が出社と同時に見たのは、資材を荷積みしている鉄だった。防寒ジャンパーを着ないまま、トラックの後ろで腕組みをしている。フォークリフトで持ち上げた資材を見上げ、積み込みの確認をしているみたいだ。

 顎を上げたときに出る、無防備な首のライン。隆起する喉仏が見たこともない生き物のようで、美優の視線はそこに吸い寄せられる。男の喉仏が珍しいわけもなく、それをクローズアップしてしまうのは特定の個人であるからに外ならない。

 口許を押さえ、美優は早足で店舗に入った。鉄が気がつかなかったことを幸いに、朝の挨拶はしない。否、できなかった。

 早鐘を打つ胸を宥めながら、タイムカードを打刻した。見てはならないものを覗いたような、見たかったものを目の当たりにしたような気分だ。たかが顎と喉仏に。こんなことで動揺してしまう自分が、とても情けなくなる。


 自分のカウンターに入って、通常業務に使うファイルを出した。過剰仕入した箱が自分の場所を圧迫して、とても狭い。同時に浮かび上がってくる鉄の顎のラインを手で払い、前日の客注を纏めて発注書を書いた。なんだか泣きそうだ。

 どうしよう。このままこんな気分が進んで行っちゃったら、もうてっちゃんの顔を見て話すことなんて、できやしない。

 ほどなく来店した中年の客に朝の挨拶をし、安全靴のサイズの話なんかをする。自分の気分を顔に出して接客して許されるほど、小売業は甘くない。感じが悪い店だと印象づければ、安かろうが品揃えが良かろうが客は二度と来ない。自分が客の立場ならば、そうなのだから。


 夕方にメッセの着信音の鳴ったスマートフォンは、聞こえないフリをした。仕事の話もプライベートの暇潰しも、今はしたくない。事務所に入って上着を羽織り、タイムカードを打刻する。なんだか疲れた一日は、家に帰って母親の作ったご飯を食べて、とっとと寝てしまうに限る……ってつもりだった。

 一階のカウンターの前に立った鉄は、襟のあるシャツの上にざっくり編んだニットを着て、細身のパンツ姿だった。普段は見るからにサラリーマンと違う職業を持つ人の鉄の服装が、何故今日はこんなにフツーなのか。

 足、長いな。一瞬誰だかわからない顔をした美優の表情は、鉄に思い切り晒されていた。


「朝、シカトしやがって」

「忙しそうだったから、遠慮したんだよ」

 返事しながら、鉄のニットに目を向ける。太い糸で編んであるそれは、既製品にしては少々編み目が緩く、手編みらしい。

 手編み? 誰の手編み? 一瞬でそう考えてしまう自分が、ますます情けない。

「珍しいカッコしてるね」

 そう言うのがせいぜいで、その場から逃げ出したくなった。店の外に出ると、鉄は自転車置き場まで一緒に歩いて来た。


「明日休みだろ? メッセも既読ついてないし、なんだよ」

 これに答える義務はあるのか。仕事中だったのだから、メッセの未読を責められる筋合いはない。誰かの(と美優は勝手に思い込んだのだが)手編みのセーターを見せびらかしに来ただけなら、もう見たのだからとっとと帰れ。

「まだ時間あるから、一回帰るだろ? どれくらいで迎えに行けばいい?」

「何が?」

「読めよ、メッセ!」

 鉄の勢い込んだ言葉に、思わず顎を引いた。

「駅前のライトアップの点灯式、今日だろ。ラストにジャズの生演奏があるから」

 ジャズと鉄っていうのは、どうも思いつかない組み合わせだ。ってか、まったく似合わない。

「てっちゃんがジャズ聴くの?」

 鉄は曖昧に笑った。

「聴かねえ。親父が出るのが最後なだけ」


 自転車置き場で開いたSNSの画面は、とても説明不足だ。父親がピアノを弾くから、三十分だけつきあえと書いてある。早坂興業の社長とピアノの組み合わせは少々意外で、それをわざわざ見に行く息子も意外だ。

 セーター、誰の手編みなんだろ。そう思うだけでざわめいてしまう心を持て余して、帰途につく。


 市のホームページで確認すると、仕度時間は結構タイトだった。悠長にシャワーを浴びている暇はないらしい。食事するかどうかはわからないから、帰宅時間は未定だと母親に告げた。

「あんまり遅くまで遊んでいないようにね」

「明日は休みだもーん」

 言うだけ言って、クローゼットを開ける。タイツを穿けばスカートでも寒くないかな、それとも普段見慣れてるパンツスタイルのほうが違和感はないだろうかなんて考えながら、何故自分が誘われたのかとも考える。

 てっちゃんのお父さんが出演するのなら、社員さんたちが応援に来るんじゃないの? そうしたら私なんて、ただのオマケじゃない。行く必要なんて、全然ない。

 それなのに、出て行かないという選択肢は考えられない。誰かにこの感情をどうにかして欲しくて、けれど底に見え隠れする甘さを手放したくなくて、気持ちばかりがぐらぐらする。もうじき着くという連絡に応えて靴を履く美優の表情は、重い。



 すぐに到着してしまった駅前広場は、別に大した賑わいじゃない。商工会が先導したイルミネーションに期待する市民なんか少ないから、駅の利用ついでに足を止めるか義理で見に来ているか程度の混雑だ。小さく設えたステージがダムになり、人間が溜まっている――そんな感じ。

 ささやかな屋台で購入したコーヒーとホットドッグを手に、空いていたパイプ椅子に座る。もうエライサンの口上は終わったらしく、小さな子供のダンスチームが踊っていた。ステージの音に邪魔されて会話は耳元でしか成立しないから、黙って演目を観ているしかない。

 プログラムの最後は、どこかの高校のジャズ研OBによるビッグバンドだった。日常的にJ-POPしか聴かない美優は、プログラムの曲目もわからない。


 ガタガタとバンドのメンバーが席に着きはじめると、フライドポテトを買いに席を立っていた鉄が戻ってきた。

「鉄パパの席、ないね」

「ああ。バンドの正規メンバーじゃないから」

 ずいぶんと冷え込んできたのに、鉄は上着の前を大きく開いた。

「どうせ一曲しか弾けねえし、音楽の趣味があるわけじゃなし。ただ、あれだけは敵わねえと思う。ドレミなんか読めないのにな」

 楽譜の読めない人が、ステージに立ってどうするというのだろう。告げた鉄の声が思いの外硬質で、質問はできなかった。


 華やかにイン・ザ・ムードで始まったミニコンサートの最初の二曲の間、早坂社長は舞台の隅で座っているだけだった。三曲目の前にステージの右袖にあった演目台が中央に引き出された。

「さあ皆さん、一緒に歌いましょう」

 司会者が声をかけると、早坂社長は立ち上がって客席に頭を下げ、ピアノの前に腰掛けた。同時に美優の隣で、鉄は上着を脱いだ。

「てっちゃん? 寒くないの?」

「ラスワンの演奏、なるったけクリアに聴かせてやろうと思って。世界で一番かっこいい人だったらしいから」

 リトル・ブラウン・ジャグ、誰でも知っている曲だ。演目台に下げられている歌詞は子供向きで、簡単な歌詞を子供が楽しそうに歌っている。その横で、鉄は身じろぎもせずにステージを見つめていた。父親のステージを観るなんて理由じゃない、他の意思が見えるようだ。


 父親の演奏が終わると、鉄はあっさりと上着を着て立ち上がった。

「最後までいないの? 鉄パパのこと待ってなくていいの?」

 慌てて一緒に立ち上がると、ニヤッとした笑いが戻る。

「みーもうちの親父、大好きだもんな。あんなおっさん待ってたって、しょうがないだろ。メシ行こ」

 さっきまでの真剣な顔は一体なんだったのか。質問もできないままに後ろをついて行き、近場で見つけた手軽そうなイタリアンレストランに入った。

 店内に入って上着を脱ぐと、自分の身体が思いの外冷えていたことに気がつく。もうすっかり冬なのだ。


「これな、母ちゃんの手編み」

 聞きもしないのに、鉄は自分の着ていたニットを指した。

「ハタチの母ちゃんが、二十七の父ちゃんに編んだもんだって。物持ち、いいだろ」

 どう返事していいかわからず、美優は鉄の顔を見返した。

「今年で十三回忌だから、親父が母ちゃんの代理をするのも終わり。潮時ってやつかな」

「お母さんの代理?」

「プログラム、見てみ」

 自分の知っている名前などないのだからと、イベントのプログラム表は畳んでバッグにしまっていた。開いて演奏者の名前を確認する。

 『pf.早坂みどり』

 どきどきする胸を宥めながら、鉄の顔を見た。

「ガキだったから、どういう経緯いきさつか知らないけど。再発した母ちゃんの代わりに、父ちゃんがピアノソロをやった。一年こっきりで復活できるって、少し期待してたんだろうな。だけど翌年の演奏者にも母ちゃんの名前を入れたって言われて。で、まあ、何年も続いてたみたい。母ちゃん、いい友達持ってたんだな」

 病名は入っていなかった。それを訊ねる気も、なかった。


 その人が手を掛けたものを身に纏い、その人がいただろう場所を見に行く。そしてそこで目にするのは。

「うちの母ちゃんさ、本当に父ちゃんのこと好きで。なんだか子供みたいに好きで。俺が母ちゃんの言葉で記憶してんのって『父ちゃん、かっこいね』だよ。あとさ、意識なくなる前に言ったのが『明日も父ちゃんに会えるかなあ』だぜ。まったくねえ、子供にまで恋愛脳垂れ流してどうすんだって」

 笑ってるけど今でも悔しいんでしょう、てっちゃん。鉄パパとてっちゃんのイメージが似てるのって、てっちゃんがどれだけ観察してるかってことだよね。


 そのあとの鉄は普段の鉄で、美優は夜半前には帰宅していた。何故自分を誘ったのかという疑問は、ひとりで居たくない場所だけれど男同士のノリには繋がらない場所だからと、無理矢理自分に言い聞かせる。髪を乾かすためにドライヤーを使っていると、ふと耳に蘇る声がある。

 やばい、過剰仕入だ。いつ捌けるのかわからない在庫を、ここにも抱え込んでしまった。

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