結果が出るのは当日とは限りません

 一月の朝六時は、暗い。時間を聞いた父親が、朝早くに自転車はあまりに寒いと出勤に車を出してくれた。全店を上げての売り出しで、本日は正社員アルバイト共にオープンからクローズまでの勤務だ。何かの基準に引っ掛りそうな勤務時間だが、メーカーや他店舗からのヘルプがあっても、主体は二号店なのだからやむを得ないと説明は受けている。どんな状態なのだか、美優には想像がつかない。車の助手席で間に合わせのパンなど齧って、きっついなあと呟くのが関の山だ。


「おい、停められないぞ」

 伊佐治の店舗に曲がる角を見て、父親は道をひとつ外した。驚いて振り向いた美優は、警備員が持つ『臨時駐車場』のプラカードを確認する。曲がり角までいっぱいの車を、警備員が近所の倉庫会社の駐車場に誘導している。

「何、これ。何かやってるの?」

 美優の頓狂な疑問に、父親が苦笑する。

「美優のところの開店待ちだろう。電動工具とか刃物が安くなるんなら、職人は並んでも欲しがるんじゃないか? 消耗品の商売道具なら、数が必要だろうし」

「そういうのって、会社の経費で買うんじゃないの?」

 父親は呆れたように笑った。

「職人ってのは基本、道具まで一式で働きに行くんだよ。自分で確定申告する人も多いし、会社で揃えるとしたって経費節減で代表者たちはやっぱり金額を見るだろ。そんなことも知らないで働いてて大丈夫なのか、美優は」

「だって、私は作業着担当だもん!」

「自分が働いてる会社の客を知らないのは、アルバイトだとしても情けないぞ。よし、しっかり働いて来い」

 行ってきますと車を降り、職場へ向かう。


 店舗前の駐車場には車は入れず、テントが並べられている。その下の長机には、もう各種メーカーが商品を並べてPOPを貼り、まだ閉じている入り口フェンスの向こうからそれを覗きこんでいる人もいる。限定何台と書かれている目玉商品が目当てなのかも知れない。もうフェンス越しに、メーカーの営業に対して予約だと叫んでいる声が聞こえる。

 え、やだ、こんなに客数があるの。作業服売場、そんなに大層な準備してない。私ひとりで大丈夫なのかな。


 タイムカードを打刻してすぐに、朝礼がはじまる。駐車場の真ん中、客がフェンス越しに見ている前で店長が大声で檄を飛ばし、それぞれが売り場に入っていく。開店三十分前には慣れた常連客が搬入口から入って来はじめ、なし崩しに正面入り口を開いて売出しがはじまった。

 階下の店員たちの威勢の良い声が聞こえて、三十万入りまーすなんてレジ係が活気づく。それがどんなにお得な工具かは知らないが、諭吉さんが走り回っているらしい。予想外な混みっぷりに、美優は呆気にとられるのみだ。

 つまり美優には、呆気にとられる時間があるのである。階下は歩くのが困難なほどの混雑なのに、作業服売場は数人のみ。しかも美優が前の晩まで一生懸命揃えた防寒インナーや、お買い得商品になんて目もくれない。普段の手袋や靴下を持って階段を降りていく。


 なんでぇ? 階段を上がったらすぐに、お買い得商品が見えるでしょう? 注目コーナーなんて派手なPOPのインナーだって、見えないわけないじゃないの。なんで誰も見て行かないの?

 ウロウロしていた客が興味なさそうに割引した商品を触り、階段の下をひょいっと覗いたなと思ったら、降りて行った。どうも混雑を一時的に避けていただけらしい。階下ではひっきりなしにレジ係の声が聞こえるのに、作業服売場だけ取り残されたみたい。

 せっかく売出し準備したって、誰も来なかったら意味がないじゃないかと、美優はぶすったれてカウンターに寄りかかった。ひとりで仕度して、朝早くから眠いのに出勤して、バカみたい。


 ぼつぼつとしか来ない客に挨拶しながら、二時間過ぎた。不機嫌絶好調なとき、階下から華やかな声が聞こえた。

「作業服売場にも、お買い得商品を揃えてまーす! この機会にご利用くださーい!」

 一際高い女の声は、どうも一号店の熱田のものらしい。手伝いが来るとは聞いていなかったが、話し相手ができるのは有難い。

「いらっしゃいませーっ! 本日はすべての売り場にお買い得商品がございます。合わせてご覧くださいませーっ!」

 階段の下で賑やかな声を出す熱田につられたのか、客が何人か上がってくる。そして階段上のPOPを、やっと見てくれる人が出た。

「お、三割引きだって。辰喜知も朱雀もある」

「サイズが合えばとか書いてあるぞ。とんでもないヤツしかないんじゃないか?」

「あるよ、俺のサイズ。よし、これ買ってこ」

 偶然その客のサイズで上下揃ったのが幸いしたのか、そのやりとりを聞いていたらしい客がサイズを探しはじめる。客が数人作業服や靴を抱えて降りたときに、やっと熱田が顔を見せた。

「美優ちゃん、がんばってる?」


 おはようございますと頭を下げ、声を出してくれたことに礼を言う。

「午前中だけ行ってくれって社長が言うから。美優ちゃんははじめてだもの、大きい声なんて出ないよねえ」

「呼び込むなんて、考えてませんでした……」

「伊佐治は工具店なんだから、基本的にお客さんは工具を買いに来てるの。ついで買いを狙うんだから、積極的にありますよって言わないと」

 そうか、ここはたくさんの商品を扱う店舗の一角でしかない。スペースは小さくないが、見過ごしてしまえる商品と言えばその通り。気がついてもらうために、アピールしなくちゃならない。


 午前中は熱田に助けられて、客がいなくなるたびに一緒に声を出してもらったり、見るだけのつもりだった客に話しかけたりできた。昼休みをとってくれと言われ、休憩室で仕出しの弁当を食べ終わって売り場に戻ると、熱田は交代のように自分の職場へ戻っていく。午後から夜までの長丁場、美優は売り場にひとりだ。一度度胸づけしてしまったから、呼び込むために声を出すのは平気だ。ただ、客が欲しいと思っていないものを積極的にアピールする力はない。

 熱田の売り場ではないのだから、熱田と同じ販売方法でなくとも良いのだ。店員から話しかけられるのを嫌う人も多いし、売り場を全部チェックしなくては気が済まない客もいる。美優がそれに気づくのは、もっと後のことになるが。


 階下の客も落ち着き限定激安商品がすべて捌けたころ、今度は目当てがあるわけでもなく値引きされている商品は何かないかと覗きに来る客が訪れる。半分ヒヤカシ暇潰しの類だが、店の目的はこちらのほうにある。目玉商品はメーカーにも無理をさせ、販売するほうも利が薄い。通常の商品を少々の値引きで販売し、店の品揃えのピーアールと売上増加が一度にできるチャンスだ。実は美優の扱う商品もそちらの客狙いだが、売出し未経験の美優にそれを言われたら、却って混乱したろう。知らないことが幸いな場合もある。


 呼び込みしなくても客が入って来るなー、なんてちょっと充実して接客をする。割引した商品の売れ行きはイマイチだが、もともと半端な作業服なのだから仕方ない。揃えて置いた防寒インナーも、ちゃんと説明を乞う人が出てくる。やっと売出しらしい仕事だ。

「美優ちゃん、来たよ」

 女の声に振り向くと、初詣のときに甘酒を配っていたユカだ。

「本当に来てくれたの? 嬉しい!」

「早坂がスノボで着てたインナー、良さそうだったもん。あれ着たら、寒い思いしなくて良さそう」

 スノーボードには、ユカちゃんも一緒に行ったのか。そういえば、てっちゃんとは高校から一緒だって言ってた。この前コーヒー飲みに行ったときも、ユカがとか言ってた気がする。ちょっと待って、まさかの?


「おい、ユカ。ここ、結構種類あるじゃないか」

 後ろからの男の声に振り向くと、ユカは嬉しそうな顔をした。

「じゃ、新しいの作る?」

 ユカの視線の先にいるのは、少々ワイルドなイケメンさんだ。早坂興業の社員みたいにゴツゴツして日焼けしているわけじゃないが、ネクタイを締める人じゃない。けれどフラフラ遊んでいる人とも絶対に違う。職人さんなのだなと一目で判別してしまう。

「新しいのったって、おまえのサイズないだろうが」

「いいよ、一番小さいヤツでベルト締めるから」

 会話の内容で、ユニフォームの相談をしているのだと聞き耳を立てる。鉄との関係はひとまずお預け、売出しで実績を作るチャンス!

「作業服、揃えるの?」

 つい、口を出した。


「今まで買ってたとこより、こっちのほうが種類多い! カタログで選んでも生地の感じとかわかんないけど、見たいって言えば取り寄せてもらえる?」

「もちろんもちろん、試着しないとわからないもの。辰喜知も今年は、レディースライン出したよ。カタログ見せるね」

 いそいそと何冊かカタログを取り出している間に、ユカは当初の目的のインナーを籠に入れている。連れの男性にも勧めてくれているようで、彼が最初に持っていたネックウォーマーと一緒に、籠には複数の商品が入っている。やはり売り場をウロウロしていた客がそれを見て籠を持ち出し、靴下ひと包みだけを入れながら棚を物色しはじめる。たくさん買う人がいる、イコール買うべき商品が揃っていると判断するらしい。良いサクラになってくれている。


 カタログでモデルを選び、入荷したら連絡すると頭を下げると、次の客が並んだ。やはり取り寄せ依頼で、売出しで注文するのだから値引きしろと言う。

「じゃ、連絡してね。待ってる」

 ユカはそう言って去って行き、次の客に少々値引きするなんて言ってると、他の客も安くしてくれるんなら注文するなんて言い出す。美優に値引きの権限は与えられてはいないが、常識の範囲内の交渉ならばと指示はされている。

「え、俺はここにあるの買うから、安くしてよ」

「レジで伺いますから、値引きしろって言ってくださいな、宍倉がサービスしますよ」

 そう客に返事して、階下のレジに客を投げてしまう。ひとりの売り場で何人も相手にできない。


 やだ、急に忙しくなっちゃった。一階の混雑と比例してないよね。なんで? 答えは簡単、金額が違うから。電動工具の目玉商品は美優の売り場の目玉商品と二ケタ違うのだから、買い手も必死なのである。着るものに気を遣うのは余裕の産物だから、同じ工具店の中とはいっても客の動きは違う。

 大幅値下げした作業服は、数枚しか動いていない。けれど揃えたインナーは枚数が必要なものだし、階下で値の張る買い物を決めて気の大きくなった客が、普段よりも財布の紐を緩めているのだ。予算を考えながらの仕入れで、サイズの揃いきらない自分の売り場が情けない。


 三時過ぎにお茶休憩をもらうと、七時の閉店まで通しだ。普段の倍くらいの客数だが、売出し当日に品出しや商品の発注の仕事はないので、走り回るほど忙しくはない。

「なぁんだ、半額とかにはならないの?」

「そんなことしたら、伊佐治が潰れちゃいます」

 客と頭を使わない冗談を交わせるようになったのは、売り場での緊張が客に伝わらなくなったからで、何故緊張しなくなったかといえば、いかつい見かけよりも繊細で思慮深い部分が見えてきているからだ。確かに言葉も仕草も乱暴で、商品の置き場にさえ気を遣ってくれない人は多い。だから階下から持ってきたコンベックスが靴下の上に放置されているなんてことは、日常茶飯事だ。けれどスーパーマーケットで冷蔵品を菓子売り場に放置するのと、サンプルの皮手袋を床に投げるのはどちらが非常識だろう? つまり、身綺麗にしている人が居住まいまで身綺麗だとは限らないのだ。


 早坂社長が売り場にあらわれ、美優は嬉しくなる。鉄と強く繋がっている人で、骨格も持つ雰囲気も本当によく似ていて。だからどうだと言われても困る。鉄も年齢を経るとこんな人になるのだろうかと、想像できるだけで楽しい。新しいデザインの安全靴はスポーツ用品と同じようにリール付きのワイヤーレースだとか説明して、詳しくなったねなんて褒められて余計に嬉しい。

「ひとりで先に来るなよ、クソ親父」

 後ろからの声に驚いて振り向くと、鉄とリョウがいた。

「あ、いらっしゃいませ」

 挨拶しながら、美優の胸は早鐘を打つ。目の前に立つと、当然だが早坂社長と鉄はまったく別のものだ。そして自分が顔を見たかったのは鉄なのだと、改めて認識してしまう。

「リョウのオベンキョーは終わったのか」

「もうちょいで終わらせるから、待っててって言ったろ?」

「ガキじゃないんだから、待ってても仕方ない。まあ、リョウにだけ何か買ってやるわ。好きな服選べ」

「俺のは?」

「おまえは見習いの給料じゃねえ。稼ぎがおまえの実力だろ」

 うわあ、稼ぎが実力って言いきった! そういう仕事なのはおぼろげに察してはいても、直に耳にすると迫力だ。


「みーさん、これのMってある?」

 買ってもらえると決まるとリョウは嬉々として試着してみているが、一番人気のブランドである辰喜知には手を出さない。

「バカだな。どうせ買ってもらうんなら、欲しいって言ってたのにすりゃいいじゃん」

 鉄が笑う。その顔を見て、美優の鼓動はまた大きくなる。一度繋がってしまったシナプスは、きっちり活動しちゃうのだ。

「だって高価いし」

 遠慮するリョウの希望を早坂社長が聞き出し、美優にさっさと注文してしまう。その間に鉄は鉄でカタログを開き、新しいモデルのシャツを決めていたりする。金銭感覚が違うのは知っていたが、やっぱり不思議になってしまう。三千円のシャツ一枚を買うのに悩む美優には、そうやってカタログから商品をポンポンと選んだり、これが欲しいと言っているから買ってやるんだなんて、金額も確認せずに取り寄せることはできない。所得の多寡じゃなくて、多分お金の使い方が違う。欲しいと思ったときの、決断が早い。欲しいけど他に良いものがあるかも知れないから、それを見てからにしようとかって考えていない。

 育った環境が違うって、こういうことだ。どちらが良い悪いじゃないから、違うのだと認識するだけだが。


「そろそろ終わり時間だろ?」

「今日はオープンからクローズまでなの。終わったころ、お父さんに迎えに来てもらう」

「大変だなあ」

 早朝からとなると、走り回るほど忙しくなくてもヘトヘトだ。

「あと一時間半だもん、がんばる。思ったより成果出なかったから、せめて時給分働いてく」

 目の前の品物が飛ぶように売れていくわけじゃない。売出し用に揃えた商品だって大して減っていないし、靴も手袋も棚に穴が開いてるわけじゃない。

「みーって、そういうとこでマジメっていうかカタブツっていうか……」

 リョウと早坂社長が、階段に向かう。鉄もそれに倣いながら、まだ美優と話し続けている。

「いいよな、そういうの。楽しようってばっかり狙うヤツ、キライなんだ」

 後ろ手に手を振って、鉄も階段を降りる。二階に残る美優の顔なんて、振り向かずに。


 やだ、嬉しい。誰に褒められるより、がんばろうって気になっちゃうじゃないの。私って、こんなに単純だった?

 ぼーっとしている間もなく、売り場を歩く客の後姿を確認する。

「何かお探しですか?」

「サイズがないから、買わない」

「次に見えたときに買っていただけるように、揃えておきます! ウエストいくつくらいですか?」

 楽しようって狙ってるヤツになんか、絶対ならない。だっててっちゃんが、そこを褒めてくれたんだから! あと一時間と少々、微々たる売上だって伊佐治の売上なんだから。


 そして相沢家の車の中の七時半は、社員への労いのための鰻弁当を抱えたまま、口を利くことすら億劫になった美優が座っていた。



 売出しの翌日は、一息なんてつけない。朝早くからPOP類を取り払ってくれた早番の従業員たちに感謝しつつ、売り場を通常レイアウトに戻して少なくなった商品の補充をしなくてはならない。疲れてるから翌日お休みーってわけにはいかないのである。

 注文を受けた商品は、最短で客に渡せることが望ましい。売り場を戻すのは後回しにして、美優はカウンターに貼りついている。客注だけで最低発注金額に満たないものは、売場を見回して適当数の在庫分をプラスして発注書を記入していく。あと三百円なんて呟きながら、シャツを一枚余分に発注したりする。売出しの来客数であったため客注もいつもより遙かに多いが、企業採用ではないので一件当たりの金額は低い。


 昼過ぎに前日の集計が出たらしく、客がいない時間を見計らって手の空いたものだけと昼礼が行われた。担当ごとの売上金額を読み上げられ、電動工具類の金額にびっくりする。一日で二千万近く売るって、どういう計算なんですか。

「作業服、三十八万四千円」

 他の売り場と桁が違い過ぎる。頑張ったのに役に立ってないんだなー、なんて思わず下を向く。

「これは伝票を通った金額だから、商品の受け渡しは今日からです。入荷したら速やかに客先に連絡してください」

 そんな言葉で締めくくられ、しょげたところで珍しく松浦からフォローが入った。

「二階は前年比で三百パーセントだから、担当者を置いているだけの売上はあったってこと。階下したは伝票商売だから商品がなくても先に売り上げちゃってるけど、二階の昨日の客注は計算に入ってないから月トータルで考えないと一概に言えないよね」

 だからって言ったって、作業服自体の単価は安価い。本日発注した金額を考えたって、せいぜいプラス十万ってところだ。

「次回、要対策ってことですよね」

二階うえの商品と階下したの商品は、同じにならないよ。利益率だけならアパレルは機械の倍以上あるの。その辺も覚えたほうがいいね」

「え? 機械ってそんなに利益率低いんですか?」

 小人数だから、昼礼の最中でも質問できてしまう。

「六百円で仕入れたシャツは千円で売れても、六十万で仕入れた機械を百万では売れないでしょ。それぞれの適正な価格はあるからね、余裕があるときに他の商品のマスターも見てみるといいよ」


 わずか半年前に聞いても、店長のこの言葉は理解できなかったろう。でも今なら理解できる。商品によって掛け率は違う、そして自分は作業服専門店の店員ではなくて伊佐治の従業員なのだ。

「はい、ときどき階下の商品も見に行きます」

「どこに何があるのかざっくりでも把握しとくと、何か聞かれたときに楽だしね」

 一階にいるときにうっかり客に売り場を訊ねられ、慌ててレジに助けを求める美優である。少々耳は痛い。

「まあ、慌てなくていいけど」

 あ、今、まだこの店にいていいんだ、役に立ってるんだって認めてもらったような気がする。慌てなくていいってことは、じっくり覚える時間があるってことだ。

 流されて続いてきたような仕事が、認められるようなものになりつつある。そんなことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。もう新人とかアルバイトだからなんて括りじゃなくて、戦力だって言われてる!


 張り切って売り場に戻れば、売出しのレイアウトになったままのフロアだ。可動式の什器をガタガタ動かし、補充できる在庫を補充し始める。前日の足の疲れはまだ残っているが、普段通りの呑気な(客の少ない)売り場なので気は楽だ。翌日に商品が入って来はじめれば、開梱・品出し・客注の入力と連絡が待っているのだから、先に片付くものは片付けてしまわなくてはならない。

 商品の補充をはじめると、意外なものが減っていることに気がつく。普段はあまり動かないショートの靴下や、売れないなと思いながらずっとフックに下がっていた高価な鹿革の手袋が動いている。普段とは違う客が二階を見に来たってことだ。

 今回購入したのは微々たる商品かも知れないが、その客たちが売り場を覗いてどう思ったのか知りたい。次に必要なものがあったとき、伊佐治に置いてあったと思い出してもらえば、足を棒にした甲斐がある。伊佐治の作業服売場は、そんな風に思い出してもらえるだけの整い方をしているだろうか?

 慌てて売り場を見回し、今の自分には精一杯だと落胆しつつ満足する。本当はたくさんのモデルの色もサイズも揃えた作業服を置きたいし、ホームセンターで見るようなバッグ類も置きたい。でも現在の売上に対する仕入れでここまでできたことは、満足だ。売出しは去年の三倍以上、通常の売上だって倍にはなっている。


 ヨタヨタで、わけわかんなくて、だけど売出しだって自分で考えて用意できたんだから。疲れてるけど、今日だって売り場に穴開けてない。楽しようとなんて、してないよ。

 そう考えながらも正直なところでは、定時きっかりにタイムカードを打って、のんびり風呂に入って早寝しようと決める。作業服と伊佐治に青春を捧げる気は、まったくない。


 翌日に入り始めた商品を整えて、揃った順に客に連絡する。三時休憩を狙うか仕事が終わった頃連絡するか、平日の携帯電話は意外に繋がらない。複数枚の場合は紐で括って所定の置き場に置かないと、美優の勤務時間外に引き取りに来た客に渡せない。すなわち客注は確実な売上に繋がる分、電話による接客と紙仕事のセットだ。一日で入荷する商品ばかりではないし、連絡した当日に客が取りに来るとは限らない。けれどそれの売上見込みだけでも、普段と違う数にワクワクする。

 最後の便で辰喜知が入荷し、鉄のSNSに報告した。即座に既読のマークがつかないのは、運転中なのだろうか。


 定時近くになって帰り仕度をしようとすると、売り場に数人の客が入ってきた。

「おお、まだあった。良かった、売れてなくて」

「俺も何か買おうかな。ちょっと見てくる」

 そんな会話を聞いてしまっては、売り場を離れることがためらわれる。サイズが無いから買わないって客でも、そこに店員がいれば気軽に次の入荷なんかを質問するのだ。尤もらしく数日後の日付を答えておけば、タイミングを合わせて買いに来る。

「お姉さん、これは出てるだけ?」

「来週入荷しますよ。色はこれとこれ」

「じゃ、入ったころに来る。着てみないとわかんないしなぁ」

 これだけの会話で客を呼べるのだから、逃す手はない。売れるかどうか疑問な商品なら、はじめから入荷すると言わなければ良いだけの話。それでも欲しい人は取り寄せを希望するだろうし、複数の客が見ている商品ならば数を増やして注文しても大丈夫。

 これは商売慣れしたってことだろうか。それとも小賢しくなったかな?


 客が切れたのを見計らって、上着を羽織る。まだ工業団地は動いているので、真っ暗にはならない。寒い中自転車で帰るの、いやだな。こんな時にお迎え彼氏が来てくれるといいのにな。そんなことを考えながら店を出ると、目の前をトラックが通り抜けた。見覚えのある早坂興業のロゴだ。

 運転手の顔、見なかった。てっちゃんが乗ってたのかなあ。さっきの返事はまだ来てないし、注文したものはいつ取りに来るの? 今日じゃなくて、私がいる時間に来てくれるように言っておけば良かった。なんだか損した気分だ。

 てっちゃんに会うために出勤してるんじゃないよ。


 寝るような時間になってから、鉄のメッセが入った。帰って入浴したら眠ってしまって、今確認したという。寒いと身体が強張るから、入浴した途端にほぐれて眠くなるっていうのは理解できる。

 今やっとメシ食ってる。風で乾燥して、顔も手もボロボロ。

 今日みたいに風のある日に寒い中でお仕事して、おなか空いてるよりも疲れの方が上回っちゃうなんて。私たちが住んでるマンションも楽しくお買い物してるファッションビルも、たくさんの職人さんたちが手を掛けて作っている。乱暴そうだとかホワイトカラーじゃないのは努力が足りなかったのだろうとか、本当に失礼な思い込みだった。少なくとも私がこれまで知り合った職人さんたちは、全部そうじゃなかった。

 鉄とメッセをやりとりしながら合間につらつらとそう考え、気がついたらスマートフォンを握ったまま寝ていた。



 なんかね、夢にてっちゃんが出てきた気がする。嬉しい夢だったのかも知れない。だって朝から調子良いもん。

 店頭に出している防風ネックウォーマーと防風手袋は、思っていたより優秀だ。優秀さに思わず愛用してはいるが、色気も素っ気もない。ニット帽を思い切り引下げ、口許をネックウォーマーで覆って自転車を走らせる。オシャレは気合だと知ってはいても、寒さにあっさり負けた。

 幅の広い国道は、トラックが何台も走っていく。別に早坂興業の車を見つけたわけじゃないが、この中の何台もに積み込まれた資材とそれを運び組み立てる職人さんたちに、挨拶したくなる。

 みなさま、寒い中をお疲れさまです。私も少しでも快適な商品を案内できるように、もうちょっと勉強します。


 タイムカードを打刻して自分のレターケースをチェックすると、数枚のメモが入っていた。サンプルの取り寄せと客注と。

「なんか多くありません?」

「美優ちゃん、売出しでカタログをいっぱい渡したでしょ? それ見て、現物見せろって電話が来たよ」

「昨日コンプレッサー引渡しのお客さんが、二階チェックしてサイズないって騒いでた」

「朝来た人がね、売出しのときにあったかそうなジャンパー見たって言って」

 売出し当日に注文すれば良いのに、安価くなってはいないのだから次で良いとばかりに帰宅して、やっぱり欲しくなって連絡してきたのだろう。普段から使っている店だから、短期間で何度も来店するのは苦にならないらしい。

「あれ? これ、三枚?」

「字ぃ汚くてごめん。十三枚ね。サイズは裏に書いた」

 売り場だけチェックしていった、見ただけじゃ金にならないと思っていた客が、実は後から重要になってくる。美優の売出しの結果は、月計算を集計しないとわからない。

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