本を読むときは、あいうえおから覚えます

 一号店の熱田がやって来たのは、午後二時を回っていた。すでに昼食を終えて待機していた美優は、退屈の極みである。午前中に来た客は、ふたりだけ。ひとりは物馴れたように軍手を二包み持って、美優をチラリと一瞥して階段を下りて行った。もうひとりは売り場をぐるりと見て回り、作業着のハンガーをゴソゴソとしていたが、吐き捨てるように呟いて出て行った。言った言葉は、こうだ。

 ――相変わらず何にもねえな、ここは。

 美優の顔なんて、見もしなかった。尤も美優にしたところで話しかけられても困るし、何を訊かれても返答に困る自信がある。だから売り場をチェックしているふりをして、声を発さなかったのだ。何もないと言われたって、美優から見れば服はたくさんある。叔父は客が注文したものを発注しろと言ったのだから、向こうから欲しいものを言ってくるはずだ。あの客は異質なのかも知れない、気にすることはないと思おう。


「まず今日は、安全靴から行きましょうか」

 熱田は中年の女だった。聞けば三号店の作業服担当も女で、ミシンを使うからと女に決めているらしい。ミシンくらい男だって使うのだが、年配の店員たちは覚える気もないのだろう。

「安全靴、置いてるんですか?」

 美優が訊くと、熱田は軽やかに笑った。

「ここにある履物は、サンダル以外全部そうよ。これ、何だと思う?」

「ダサいスニーカーだと思ってましたけど」

 知らないメーカーの安価いスニーカーが、全部安全靴なのだという。爪先を押すように言われて確認すると、それは確かに硬かった。

「先芯、入ってるでしょう?正式にはJIS規格が安全靴で、それ以外は安全スニーカーとかセフティシューズとかって表示だわね」

 言われてみれば確かに、靴の箱にそう書いてある。道理で知らないメーカーばかりのはずである。

「種類については、ざっとしか説明しないわ。耐踏み抜きとか耐油とか、聞いても忘れちゃうでしょ?調べながら覚えて頂戴」

「あ、安全靴ってこんな感じかと思ってました」

 美優が指差したのは、黒い皮の編み上げ靴だ。

半長靴はんちょうかね、昔はそんなのばっかりだったみたいだね。私もまだ、そんなにベテランってわけでもないのよ。接客しているうちに、徐々に覚えるよ。カタログとか、ちゃんと見てね」

 カタログの棚を指差してから、熱田自身も呆れた声を出した。

「……何、この棚。去年のも今年のも同じとこに置いてあるじゃないの。五月に秋冬カタログをお持ちくださいって、どうすんのよ」

 とりあえずこれを片付けようと、熱田がカタログの整理をするのを美優が見て、その日の仕事は終わった。


 帰宅して風呂に入った美優は、ふぅ疲れたと呟いた。何をしたわけじゃない、言うならば暇疲れと気疲れだ。熱田について歩いている間、客はひとりも入って来なかった。階下には客が入っているのに、二階に上がっては来ないのである。楽勝じゃん、とか思う。

 まあ、工具店だしねえ。作業着って個人で買うものじゃないでしょ、会社が買って用意するものだもん。だから叔父さんも、注文が来たものを発注するだけで良いって言ったんだろうから。

 そう思い、頭をうんうんと縦に振る。熱田が一号店に戻るときに、やり残した仕事があると言っていたのだが、その言葉の裏側までは考えが及ばなかった。


 二日目は手袋で、やはり同じようなものだった。作業用手袋と一口に言っても素材も形もさまざまだと教えられ、ラベルを見て覚えてくれと言われただけだ。

「んん、売れ線商品が品切れてるね。店長に発注の仕方、教えてもらった?」

「何も、聞いてないです」

 午前中に少しだけ、バーコードを使う価格の確認は教えてもらった。高校生の頃にスーパーマーケットで品出しのアルバイトをしたことがあるから、その要領はわかる。そして確認したものにラベラーで価格シールを貼る、そこまでだ。

「えっと、お客さんからの注文を発注するだけって社長が……」

「声に出して注文してくれる親切な客ばっかりじゃないのよ。目の前に商品が無ければ、商品の揃ってる店に行くでしょ。スーパーマーケットに、マヨネーズがないから入れておいてくれなんて頼む?」

 ハタと考え込む。そういえば、ここに在庫があるってことは誰かが品出ししてるってことだ。まさか何年も前から、同じものがサンプルとして置かれているわけじゃないだろう。

「発注は、各担当者がするのよ。マスターは本部で作るから、新規商品はJANコードで登録申請するの。何分かで作ってもらえるから、POSで確認して値付け」

 言っている言葉の意味が、まるでわからない。


「発注は基本的にはファクシミリでね。電話だと何頼んだか忘れちゃうから」

「自動発注するんじゃないんですか?スーパーはそうでしたけど」

「こんな規模の店で、そんなことできるわけないじゃないの。ノートと鉛筆持って、毎日足りなくなりそうな商品を拾うのよ。そのときに売り場をチェックできるから、棚の乱れなんかも直せるでしょ?」

 そう言いながら、熱田は積んであった安全靴の箱をサイズ順に並べ直す。

「ほら、こうして並べておけばお客さんも探し易いし、自分にも欠品が見える。明日は来れそうもないから、午後から棚整理しておいてね。一号店、明日は納品が多いのよ。夏物をどどっと発注しちゃったから」

「衣替えだからですか?」

 企業の衣替えで、何社かに納めるのかも知れないと、美優は思う。

「時期だもの。タツキチさんの今年の新商品がちょっと良い感じだから、力入れて売ろうかなって」

 なんだかニュアンスの違う言葉が戻ってきた。カタログやサンプルで注文を受けたものを売るんじゃないわけ?


 階段を上がってくる足音に、熱田は声を張り上げた。

「いらっしゃいませーっ!」

 その明るく弾んだ口調につられて美優も口の中で呟くが、相手には届いていないトーンだ。

「あれ、熱田さん?二号店勤務になったの?本店じゃないの?」

 声の主は熱田の名前を知り、一号店を本店と呼ぶ。つまり、結構な常連さんか。

「ううん、新入社員の研修の助っ人。てっちゃんは今日はこっちで買い物?」

 てっちゃんと呼ばれた男は若い。多分、美優と同じくらいだ。ふたりが会話しているのに、熱田の横に立っているだけならば用はないと思い、美優は場を離れようとして呼び止められた。

「美優ちゃん。この子ね、結構しょっちゅう顔出すと思うわ。お得意さんだし、家もここの近所だから」

 美優は曖昧に頭を下げ、よろしくお願いしますと呟いた。


「熱田さんの娘?高校生くらい?」

 面白がっているような声が聞こえる。

「新入社員の研修って言ったでしょ。可愛いけど、成人してるわよ。彼女が二号店の作業服担当になるから、いろいろ教えてあげてよ」

 お客さんに教えてもらうって、何を?美優はぼんやりと男の顔を見上げた。

「ふうん。二号店の作業着って、おっさん臭いのばっかりだからなあ。カッコいいの入れてよ、トビはスタイルだぜ」

 張った筋肉をTシャツで覆い、裾が広がったダボダボのズボンは足首の部分で締まっている。足元に見える鼻緒は雪駄ってものだと思う。そして海賊巻きの薄手のタオルの下に見えるのは、オレンジ色の髪。美優の今までの生活に、こんなタイプとの接点はない。

「チョウチョウがこんなに少ないんじゃ、話になんないしね」

「蝶々?」

 美優の問い返しに、てっちゃんは爆笑した。

「熱田さん、教えちゃダメだよ。俺、二号店に来る楽しみにすっから」

 皮手袋(と、熱田に教えてもらったばかりである)の包みを掴んで、てっちゃんは笑いながら階段を降りていった。

「熱田さん、蝶々って何ですか?」

 頼りなげな美優の問いかけに、熱田は笑顔を返した。

「商品を把握すれば、すぐにわかるわ。教えたら、てっちゃんに怒られちゃう」


 翌日の午前中は店長が留守で、美優は仕方なく二階で棚の整理を始める。靴をモデル分けしてサイズ順に箱を並べるだけなのだが、思いの外手間がかかる。というのも、棚にサンプルが出ているものと実際の在庫量が違うのだ。棚にサンプルが出ていなければ、当然客はそのモデルは置いていないものと思う。だが実際にはフルサイズで揃っていたりする。逆に箱から出して本体だけレジに持って行ったらしく、軽いと思ったら空き箱だったなんてものは、いくつもあった。客にしてみればサンプルで出してあっても商品は商品だから、棚にあるものでもサイズが合えば買ってしまうし、その空いた部分がどうなろうが知ったこっちゃない。管理する人間がいれば気がつくことだが、生憎と担当者は不在だった。そして箱の表面は、うっすらと埃に覆われている。しばらく誰も手を触れなかったみたいに。

 本当に売れないんだわ、ここ。床や棚の表面に掃除が入っていても、商品の拭き取りまではされていないのだろう。美優の軍手はあっという間に薄茶になり、なんとなく髪が埃っぽくなった気がする。


 せっせと靴の整理をして在庫を積むと、棚の空きが穴のように見えた。十足程度の靴に、壁一面を使っているのはおかしいのではないかと思う。いくら客からの注文待ちだからといっても、靴は履いてみないと足の形に合うかどうかわからない。A社とB社では足幅も土踏まずの高さも違うというのは、安全靴でも同じなのではないかしらんと、美優はそこで考察する。スーパーマーケットの靴売り場ですら、これよりも種類も量も多い。カタログで気に入っても実際に履いてみると気に食わないってものも、存在するはずだ。それともメーカーもモデルも変えないで、何年も同じものを履いているんだろうか。

 うん、きっとそう。だって仕事なんだから、決まったもの履いてるんじゃないかな。


 階段を上ってくる音が聞こえて、美優はそちらを振り向いた。

「い……いらっしゃいませ」

 こわごわと挨拶をする。どこからどう見ても怖そうな男が、にっこりと笑った。

「どーもー。軍手ちょーだい。明治ゴムの270番、三双入りのヤツね」

「軍手なら、こちらに」

 美優が指し示したのは、木綿の軍手である。

「違う違う、背抜きの薄いヤツ。いつもこの辺に……ああ、これこれ。これのLL、五パックでいいや」

 男が手袋をフックから取ると、その商品はなくなった。

「新人さんだって?これね、一番使い易いから切らさないでね。ここの店、頼まないと何にも入って来ないんだもん。しっかり頼むよ」

 怖そうな男は実際には人の良い話しかたで、美優にどーもと礼を言って階段を降りていった。美優と言えば、ありがとうございましたの一言すら言えなかった。


 背抜きの三双って、何?男が持っていった手袋の、サイズ違いを手に取った。三双、つまり三組なのはすぐにわかった。背抜きの意味がわからなくて、他の商品のパッケージを手に取る。いくつか見比べて、手の甲にコーティングしていないものだと見当がついた。背がゴムや樹脂を被っていないから、背抜き。意味が理解できて、やっとほっとする。

 さっきのおじさん、切らさないでって言ってたよね?なくなったら、補充しとかなくちゃいけないんじゃない?そう言えば、熱田さんも売れ線が品切れてるって言ってた気がする。

 手袋のかけてある棚(これも三メートルくらいの幅に、縦横びっしりだ)を見渡す。改めて見れば、商品のまったくかかっていないフックがいくつもある。それも買われていったものならば、補充しなくてはならないのかも知れない。午後から店長に発注するのか相談してみることに決め、美優は昼休みをとった。


 午後から出てきた店長に発注の必要があるのかと問うと、当然だという返事が返ってきた。

「ええっと、どこに発注するんですか?」

「昨日、POSの使い方教えなかった?」

 教えてもらったのは価格の確認だけだと思うのだが、その中に発注先のデータがあるという。

「原価もマスターに入ってる。各業者、最低発注金額があるから、それに合わせて発注してね」

「えっと、それはどこを見れば……」

「ここに一覧表がある。ファックスの注文書は、これで手書き」

 ものっすごい説明不足である。ここに社員がいつかない原因の一端があるのだが、松浦は結構忙しい。美優にかまけてもいられないし、いちいち二階に上がって一緒に商品を数えている時間はないのだ。

「明日もあっちゃんが来るから、それからでいいよ。今日は欠品数えといて」

 他の社員は客の車に商品を積み込んだり、品出しをしたりしている。手隙なら品出しの手伝いくらい美優にもできそうな気がするが、建築金物の箱ってのは重いのだ。


 これじゃ、まったく埒が明かない。熱田が翌日も忙しければ、また放置されてしまう。そして客に、何もないとか呟かれるのだ。手袋の欠品をチェックしながら、ぼんやりと不安な気分になる。大体チェックするといっても、それをいくつ発注すれば良いかも見当がつかないのだ。

 階段をのんびり上がってくる音が聞こえ、美優が振り向くと、知った顔があった。

「お、みー坊、働いてるか?」

「叔父さん!」

「ここでは社長って呼んでな。どう?続きそう?」

 続きそうかと聞かれても、全然何もわからず、客の来ない売り場にいるだけなのだ。

「わかんないもん。お客さん来ないし、売り場の意味ないんじゃない?」

 社長は豪快に笑った。

「ここな、前は下と同じに三店舗の中で一番の売り上げだったんだ。担当者が次々辞めちゃってなあ。松浦君も作業着はわからないって言うし、みー坊に頑張ってもらうしかないなあ」

「お客さんの注文聞いて、発注するだけじゃなかったっけ?」

「ああ、そうしてるうちに何が売れるかわかるだろ」

 そんなことじゃ、遅いのだ。少なくとも午前中の客は作業着を注文したんじゃなくて、手袋を切らさないでくれと言った。社長も結局、売り場のことなんてわかってない。


「まあ、売り場のことは松浦君に相談して。熱田も大変そうだから、そんなには動かせないし」

 あの店長の舌足らずな説明だけで、何をどうやって発注しろと言うのだ。おいおい覚えるとは言っても、何を覚えたら良いのかがわからない。

 あいうえおもわからない子供に、本を読めとか言うな。作業服の売り場に何が必要なのかも、知らないんだから。

「熱田さんが来ないんなら、できない。辞めちゃうからね」

 まだ三日目で社長の身内が逃げ出したとあっては、社内にも恥ずかしいだろう。叔父はあっさりと前言撤回した。

「松浦君に言っとくから、これから一号店に行ってみるか?熱田の売り場、見せてやるから」

 どうせ美優がいてもいなくても、商品の動きは変わらない売り場だ。

「行く!他の売り場、見てみたい!」

 スカスカの棚と色味の汚いハンガーは、本当はどうなっているもの?本に興味を持てば、文字を知りたくなる。好奇心は、進歩の原動力だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る