第14話

 数ヶ月が経った。

 平日の朝。いつもより早くに目覚めた倉前は、いつも通りの簡素な食事を摂り職場へ行く身支度を始めた。ズボラに放り出された作業服に袖を通し、くたびれた鞄を提げてため息を吐き玄関を開いた。すると見慣れない包みが一つ。玄関脇に立て掛けられていた。長方形で薄く、それなりの大きさがある。倉前が巻かれている布を取ると、それは一枚の絵であった。


 よく見ると知っている風景であるが、抽象的な、あるいは強調された部分が力強く世界を彩っている。倉前が見たことのない、不可思議な日常。現実と虚構が入り混じった、神秘的であり不気味な作品。倉前は跪いてそれをじっと見つめ、不意に涙を流した。自分でも意外だったのか頬を伝う雫に困惑しているようだった。

 しばらく呆然としていた倉前であったが、濡れた目元を手で拭って立ち、絵を持ち上げた。すると、はらりと手紙が一枚の倉前の足下に舞い落ちた。一先ず絵を玄関に入れた倉前は、その手紙を読んだ。


 差出人は花梨であった。手紙には倉前への感謝の言葉と、以前、絵が完成したら話すといった自分の夢というのは、世界中を観てその風景を絵にしたいというもので、決心がついたから旅に出る。と、簡素に書かれていた。


 倉前は駅に向かって走っていた。この町を出るには、鉄道を使うしかないからである。あの絵がいつ置かれ、花梨が何時の電車に乗るかは分からない。しかし、彼は走ったのだ。安い作業着とスニーカーで。息が上がり、苦痛に顔を歪ませながらひたすらに道を行く。それは異様な、異質な光景であった。それを老人や登校中の学生が見ている。普段の倉前ならば、絶対に我慢ならない事であろう。しかし、彼ははばからず走ったのである。花梨の元へ、自らの人生に咲いた、一輪の花の元へと!





 さびれた駅。一陣の風が植えられた銀杏の葉を揺らす。さっと奏でられる針葉樹の細い音が、静まる空間に色を付けていた。

 剥げたベンチに一人の女。切り取られたような一片。物憂げな瞳の先には一本のレール。どこまでも続いているような、終わりの見えぬレール……間も無くこのレールを伝って電車がやってくる。遠くへ、知らぬ街へと人を運ぶ……


 そうしてまた一吹き強い風が訪れた。砂埃や落葉を舞わせる風が。そして、風の音に混じり聞こえる息遣い。荒々しく、熱を持って息を吐き出しているのは倉前であった。無人駅の改札を突っ切り、彼は狭く小さなプラットホームで肩を上下させながら花梨の前に立っていた。


「倉前さん……」


 切な気な表情で倉前を見つめる花梨。なんと言ったらいいのかまるで分からない様子である。ただ、なんとなしに未練があるように思えた。旅立つ前に不都合な人の情が、彼女にもあったのであろう。


「いい絵だった!」


 倉前はそう叫んだ。呼吸は未だ乱れていた。声の調整ができておらず、息を吐くのと同時になんとか発したという様子である。流れる汗も、震える膝も構わずにただ、彼は花梨に言った。


「ずっと待ってる……いや、帰ってこなくてもいい。ただ、俺はずっとここにいるから、だから、もし何かあったら……いつでもここに来てくれていい……だから!」


 お前はお前の夢を追いかけてくれ。


 倉前の言葉は世界に色を与えた。惜別の無色が支配していた空間を淡い暖色で満たした。恋慕。憧憬。悲痛。とりどりの感情が混ざった絶妙な配色は、別れから悲しみを薄め、先へ進む勇気を二人に与えた。


「……バカな人。でも、好きですよ、倉前さん」


 花梨は倉前の方へ進んだ。互いの吐息がかかるほど近く、近く。踏切の鳴る音が響く。レールが震える。二人の唇は、電車の到着と共に離れ、「それじゃあ」と言って花梨はその電車に乗りこんだ。

 ドアが閉まり、機械的に進んでいく電車。二人の男女は最後まで互いをまっすぐ観ていた。電車が去った後。寂寞が支配する駅。倉前はただ立ち尽くし、天を仰いだ。両の眼から、悲涙を落としながら……






 それから三年が経った。小さな町は変わらず静かで何もなかった。時代から取り残されたような風景は、ノスタルジーこそ感じさせるものの、退屈である。


「おや。久しぶりじゃないか」


 河原を歩いていた東塚が声を掛けたのは倉前であった。


「あぁ。手はもういいのか?」


「何年前だと思っているんだ。慣れたもんさ」


 東塚は会社から金を貰っていつもぶらついている。労災にしたくない社長が事故をなかった事にして、東塚は変わらず勤務している事になっているのだ。


「お前さん。絵を描く趣味なんかあったかね」


 東塚がそう言うと、倉前は「数年前にな」と返した。手にしたスケッチブックを盗み見た東塚は「上手いもんじゃないか」と素直に賞賛した。


「あぁ。師匠がいるんだ」


 倉前はそう言った。二人は程なくして別れた。空は青く澄み渡り、心地よい風の吹く日であった。

 倉前が師匠と呼んだ相手……それは誰もいない倉前の部屋の机の上いる。彼宛に送られた、大量のポストカードがそれであった。

 様々な風景が描かれているポストカード。その横には雑誌があった。開かれたままのページには、大きくこう記されていた。


 金賞。上井 花梨 と。

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色のない花 白川津 中々 @taka1212384

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