第6話
倉前が何を感じ何を考えていたかは知らぬが、程なくして彼は我に返った。
空いていた口を閉じ、キョロキョロと周りを確認している。姿が見えぬ花梨を探しているのだろう。倉前が何度か首を左右に振っていると、休憩用の椅子の上で手を振っている女がいた。花梨であった。倉前は照れ臭さと安堵が混ざった面持ちでそこに向かった。
「すまんな。つい、魅入ってしまった」
「分かります。素晴らしい作品ですから」
倉前は花梨の隣に座った。少しばかり疲労している様子である。これまで趣味といえば散歩くらいなもので、芸術などとはまるで縁のない生活をしていた倉前にとって今日の体験は非常に濃厚なものであっただろう。普段使わぬ感性が刺激され、良くも悪くも彼の心に負荷がかかっているのが見ていて分かった。
「疲れましたか?」
そんな倉前を案じて、花梨が声をかける。「何を馬鹿な」と言ってみた倉前であったが、ようやく自分の疲労度合いに気が付いたのか、「そうだな」と言い直して深く深呼吸をした。
「絵を見るだけだというのに、美術館というのは、存外気が張るもんだな」
「慣れないうちは、どうしても緊張してしまいますよ」
「そんなものかね」
「そんなものです」
倉前とは違って花梨は落ち着き払っていた。歳は倉前の方がずっと上であったがまるで姉弟のように思える。側から見たら、可笑しな二人組である。
「そろそろ、行きましょうか」
そんな見方をされていると察したのか、花梨は立ち上がって倉前を急かした。倉前の方も「そうだな」と言って同意し腰を上げた。そうして、残りの展示物は二人とも連れ立って見て回った。目当の作品を見終わったことで、いくらか肩の力が抜けたようであった。
「いや、良かった。今日は本当にありがとう」
展示物を見終えて美術館を出た二人は遅めの昼食を摂っていた。料理が置かれたテーブルを挟んで倉前が礼を述べると、花梨は「こちらこそ楽しかったです」と微笑んだ。
「そういえば、ポストカードは何を買われたんですか?」
二人は美術館の土産物屋でポストカードを買っていた。最初倉前は嫌がっていたが、いざ購入するとなると念入りに選別し、ああでもないこうでもないと頭を悩ませていた。
「ああ。例の、婚礼の光と、サーカスのと、空を飛んでいるやつだ」
花梨は倉前のいい加減な説明に顔を崩した。しかし、倉前はタイトルを忘れているわけではない。なんとなしに、それを口にするのを恥だと思ってしまうのである。現に彼は自室で画集を眺めている時も、時折作品名を呟いては赤面していた。タイトルを述べるのがなんとなく通ぶっているようで、口にするのが憚られたのだ。
「次は、ご自分で描かれてみたらどうですか?」
花梨がコロッケを箸で切り分けながらそんなことを倉前に提案した。
「いや、描く方はやはり、性には合ってないな。観るのは好きだが、描くのは居心地が悪い」
「そうでしょうか。存外、お似合いなご趣味かもしれませんよ?」
「どうだろうな。ただ、今は眺めるだけで満足だ」
倉前は「そうだ」と言葉を続ける。
「あんたが描いた絵を、観たいもんだな」
花梨はびっくりしたのか目を見開き、コロッケに伸ばした箸を止めた。
「生憎と、お見せできる程の出来ではないので……」
「何を言うんだ。河原で描いていたやつは上手かったじゃないか。完成させた作品はないのか? あるなら、観せてほしい」
「……」
花梨は空中で持て余していた箸を動かしてコロッケを掴み、それをそのまま口に運んだ。そうして少し考えるような素振りを見せて、口の中が空になってから答えた。
「分かりました。機会があれば、是非」
この答えに倉前は「本当か!」と大変に喜んだ。かつての彼では考えられない感情の豊かさである。澄ました顔でコロッケを食べ続ける花梨とは対照的であった。
「魚、冷めてしまいますよ」
花梨に指摘され、倉前は未だ手付かずだった焼き魚定食を丁寧に平らげ、二人は店を出た。
勘定は倉前が出すと言って聞かなかったので、個別で支払おうと主張していた花梨が折れる事となった。これは見栄や格好をつけるためではなく、もちろん下心があるわけでもない。倉前が唯一表すことのできる、感謝の印なのだ。
「なんだか悪いのですけど、ご馳走さまです」
「付き合ってもらったんだ。飯くらい奢られてくれ。それに、いくら安月給だからといって、ボロい定食屋の賃金よりは稼いでいるよ」
さて。電車に乗って田舎町の駅に着き二人は別れた。倉前はそのまま散歩をして、ついでに夕食も外で済ませた。そして帰宅後、一人呆け今日の余韻に浸った。
騒がしい街角。厳かな美術館。大衆食堂。人混み。絵画。料理……
倉前は思い出したように鞄を漁り、購入したポストカードを取り出して卓に並べた。それらをじっと見据え、一瞬微笑んだと思ったら綺麗に片付け、寝支度をしてその日を終えたのであった。倉前にとって、久しぶりに誰かと過ごした一日であった。
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