第5話
翌週末。しかし場面はいつもと異なる。
喧騒に包まれた歩道。欲望を駆り立てる店の看板。排ガスに塗れた空気は心なしか曇って見える。その中心に座しているのが、大きく、複雑な構造をしている駅であった。
昨晩、これはいつもと変わらぬ事であるが、倉前が定食屋で晩酌をしていた時である。
「倉前さん。明日、どうしますか?」
倉前は少し動揺した感じではあったが、「十時頃に向こうの駅でよかろう」と慣れない口調で言ったのであった。
「では、東口にある時計の前で」
倉前は駅の出入り口に東と西がある事も、時計がある事も知らなかった。いや、実際彼は電車で隣県まで行ったことがあり、何度か東口を通って目印しとなりうるその時計を目にしているのだが、倉前にとってそれは単なる都会の一風景でしかなく、なんの興味も抱かなかった為まったく記憶に残っていなかったのだ。
「分かった」
しかし倉前はさも分かっているような口調で花梨の申し出を承知した。別段見栄や格好を気にする男ではないのだが、恥を忍んで美術館への同行を頼んでいる手前、これ以上の上塗りは避けたかったのだろう。
倉前は元来昔気質なところがあった。身の丈はわきまえているのだが、小馬鹿にされるのは我慢ならないのである。彼にとって、これまでの人生の中で一度も美術館に訪れた事がないのと、駅構内を知らない事。それらが自分の無識と経験不足を嘲笑うのに十分な材料であると判断したのであった。
そんなわけで倉前は少し早めに待ち合わせ場所へとやって来たのであった。東口にある時計とやらを確認する為である。
倉前はもしかして見つからぬやもと、少しばかり気を揉んでいたがまったくの杞憂に終わった。なぜなら、駅の構内にはご丁寧に西口東口と案内板が設置されていたし、時計とやらは下品ささえ感じさせる金色をしており、さらに巨大であったので、よく目立っていたのである。
目的を果たした倉前は立ち食い蕎麦を食った。実のところ美味くも不味くもない蕎麦なのだが、彼は「美味かった」と言って店を出た。
さて。例の金時計の前。手持ち無沙汰な倉前だったが、過ぎた暇を持て余す暇もなく、花梨は時間通りにやってきた。「どうも」と平素通りの笑顔を見せる彼女の姿はやはり美しく、特別着飾った風には見えないのだが、なぜだか倉前と河原で会った時よりも幾らか煌めいて見えた。
挨拶を交わした後、倉前は「美術館は遠いのか」と聞くと、花梨は「すぐですよ」と答えた。実際本当にすぐ近くで、花梨の先導の元一分で辿りついた。駅に併設されているような形で隣にあるその美術館は、美術館というより大きめな企業ビルを思わせる外観であった。
二人して中に入り、花梨の指示で倉前は受付を済ませる。それぞれがそれぞれ入場券を買い、案内に沿って展示室に入った瞬間、倉前の目の色は変わった。まるで少年が広大な草原を目の当たりにしたような、夢に溢れた純粋無垢なる輝きを放ったのであった。
無駄がない整理された空間。静寂と規律によって生まれる調和と美。そして、壁に掛けられた大小様々な絵画。その全てが倉前にとって初めての経験であり、また、初めて得た感動であった。
倉前は胸の高まりを抑えるよう一呼吸置いた。心なしか、震えているようにも見える。そんな倉前を花梨は黙って見つめ、言葉の代わりに柔らかい、慈愛に満ちた笑みを送っていた。
そして秒と分の間に、倉前から「行こう」と切り出し彼は、最初の一歩を踏み出した。
美術館に展示されている作品には小さく解説が書かれていた。しかし例の画集を図書館に返すまでに何度もページをめくっていた倉前は、自然と画集に記されている解説文も読むようになっていて、一部暗記までしていた。
もちろん一字一句同じ事が記されているわけではなかったがそこは大同小異であり、それに気がついた彼はもはや絵だけに集中する事ができた。
それでも、彼が解説を読まざるを得ない作品が多々あった。シャガールに影響を与えたと言われるゴッホやアンラマチスに、シャガールが批判した、ピカソの作品などである。
こういった展示会ではメインとなる作家以外にも、それに関連した人物の作品が置かれる事はよくある。鑑賞中にそれに気付いた倉前は熱心に説明書きを読み、時には感嘆の溜息すら吐くのであった。
そうして絵を観て、解説を読み、人の流れに飲まれながら、倉前と花梨はとうとうあの作品の前までやってきたのであった。そう、婚礼の光である。
「……」
倉前は、息を飲んだ。
深い青が陰る世界。輪郭すら危うい朧げな人々の中で一人だけ、ハッキリと存在している、ウェディングドレスを纏った女性。その女性の周は光り、彼女だけが輝いている。その彼女を、ひっそりと見守る悪魔……愛妻であるベラと紡いだ美しき記憶と、佇む破滅の影。夢幻の幸福と、無限の悔恨。久遠に続く、妻への想い……
シャガールの作品の中でもその特徴が一段と色濃く現れているこの絵はまさに、彼が愛の画家と呼ばれるに相応しいものであった。(後にシャガールは再婚しているが)
さて。倉前はかれこれ十分。この婚礼の光の前で立ちすくんでいた。感動したのか圧倒されたのかは分からぬが、瞬きすらせず、空いた口も塞がずにただ、目の前にある名作に、魂を通わせている。
「どうですか?」
花梨がそう聞いたが、倉前は答えなかった。いや、答える事ができなかったのだ。彼は今、かつてない体験を身体中で感じているのだから。
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