第11話

 花梨は比較的裕福な家に産まれた。

 父は美術品のバイヤーをしていた。とりわけ絵画に力を入れており、幼い頃から花梨に様々な名画を観せてきた。その中に、婚礼の光のレプリカがあった。


「これはね。シャガールが亡き妻の思い出を描いたものなんだよ」


 父は幾度となく幼い花梨にその言葉を述べた。飽きるほど聞いたセリフであるが、美しく途方も無い幻想を描いた作品を目の当たりにするとそんな事はどうでもよくなった。

 いつか本物を観たい。欲しい。描きたい。これ以上の絵を! 花梨の感性と野望はより傲慢に、力強く変貌していき、中学に上がる頃にはもう夢の形が固まっていた。


 シャガール以上の画家。


 彼女は、学校で書かされた将来なりたい自分と記されたという益体のないプリントにそう書いた。それを父に見せたところ「楽しみだ」と言われ、彼女は有頂天になった。


 ところがである。花梨が高校へと入学し、二年の月日が経った頃。彼女が「画家になりたい」と改めて両親に打ち明けた際。父母が揃って猛反発したのである。

 殊更父は苛烈に反対した。「やるだけ無駄だ」「才能がない」と容赦ない言葉を花梨に浴びせた。この掌返しに花梨は憤慨した。そうして、父と顔を合わせれば事ある毎に口論へと発展するようになってしまったのである。この家庭内の不和は花梨が高校を卒業する直前まで続いた。


「私。留学するから」


 花梨は父にそう言った。母には密かに打ち明けていた。もはや娘の意思は変えられぬと思ったのか溜息まじりに了承し、父には自分で伝えろと肩を落としたのであった。


「分かった。好きにしろ」


 思いの外、父は簡単に留学を許した。響く怒号を覚悟していた花梨は拍子抜けしたようである。しかし、父が続けた言葉に、花梨は唇を真一文字に結び、厳しい表情となった。


「その代わり、絵で食えるようになるまで家の敷居は跨がせん。途中で諦めてもだ。その覚悟があるなら、やってみろ」








 出発の日。母は花梨に手紙を持たせた。飛行機の中でそれを読んだ彼女は反抗心からかそれを破り捨て隣に座る人間に怪訝な顔を向けられた。その人物は余程気になったのか、花梨に向かって声をかけた。


「いいんですか? 手紙」


「えぇ。くだらない内容でしたから」


 手紙の内容は花梨とそれを書いた母親しか知らない。しかし、それは母のアガペが込められているというのはよく分かった。なぜなら、無償の愛は時に、我が道を行かんとする若者の心を逆撫でするのだから。


 パリに着いた花梨は精力的に創作活動に勤しんだ。学校へ通いながら安い仕事をこなし、寝る時間も惜しんで絵を描き続けた。目にはクマが居座り頬はこけ、見るからにやつれていったが花梨は充実しているようだった。また、毎月母から現金の振込があったが全く無視し、時折届く手紙も読まずに捨てていた。母の気遣いは、花梨の反骨心を強める効果しか発揮しなかった。


 そんな生活を一年続けた。生活には慣れ、受ける差別や偏見も鳴りを潜めていたのだが彼女は日に日に追い詰められているように見えた。


「君の絵は、まるで幼稚園児のお絵描きだ」


 酷評。

 花梨の絵には、それしか与えられなかった。どれだけ描いても与えられた評価は同じであった。自身の否定にも等しい品評は、最初こそ創作の原動力となったが次第に苦しみへと変わり、絵を描く目的と意味を曇らしていった

 どうして。なぜ。何が駄目なのか。苦悶し自問自答する花梨はとにかく技術を磨こうと、これまで以上にキャンパスの前で試行錯誤を繰り返すようになった。模倣と模写の反復。描きたいものも描かず、遮二無二一級と称される絵を真似た。そしてまた一年が経ち、彼女のテクニックは見違えるほど上達したのであった。


 更に一年。花梨はコンテストで賞を取れるほどとなった。多くの作品を発表し、界隈でも名が知れた存在となったのである。しかし、 それは多分な皮肉も手伝っていた。彼女は、絵の講師と蔑まれていたのだ。

 花梨の描く絵は上手かった。しかし、それだけであった。苦しみの中で獲得した技術はいかんなく発揮され、美しくキャンバスを彩ったが、そこには彼女の信念や魂は篭っていない。いかに達者に、いかに失敗のないように描くか。花梨のスタイルは、そうなっていた。それを見透かされたように花梨の絵はいつも銀賞止まりだった。

 筆を握る姿も悲痛で、まるで強制労働をさせられている奴隷のようであった。好きだったはずの絵が、いつしか彼女の首を絞めていた。


「好きな絵が、描けなくなっちゃったんです。好きなはずなのに、好きに描けないんですよ。自由に描いたらまた、下手な絵と言われるんじゃないかって」


 花梨は最後に、「恐いんです」と呟いた。彼女の心は未だ、パリで流した血にまみれているのである。

 自虐的に笑う花梨の姿に覇気はなかった。彼女の語りに絆されたのか倉前は、少しばかりまつ毛を濡らしていた。

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