第9話
定食屋には静寂が戻っていた。
花梨が消えて一ヶ月。目当ての看板娘がいないとなると、皆こぞって場末の飲み屋やスナックへ散り散りとなっていったのである。そんな中、倉前だけは一人、ビール片手に寂寞に身を置いていた。
「ほんと、みんなゲンキンなんだから。昔から贔屓にしてくれてるのは、倉前さんだけなんですよ」
女将が苦笑しながらそう言った。倉前は「このくらいの方が落ち着くんじゃないのか」と皮肉を言うと、女将は「まぁ」と口を尖らした。
「意地の悪い事をお言いになりますね」
女将はそう言って倉前の卓にある空いた皿を片付けた。それから「豚汁とおにぎりでいいですか」と聞き、倉前は「ああ」と答えた。女将はやや不機嫌そうに「かしこまりました」と言った。しゃがれた声とほどよく出た腹に愛嬌があった。
その女将の話によると、花梨はこの定食屋を辞めてはいないが、しばらく休ませてほしいと相談されたのだという。元よりそう高くない金でお遊び半分の仕事をさせていた為、女将は二つ返事でその申し出を受け入れたという話であった。
花梨との交流がなくなり、倉前はなんとなしに落ち着かない様子であった。休みになると河原やスーパーに行き辺りをキョロキョロと見渡すのである。いい歳をした男がまるではぐれた親を探すかのようで、なんとも情けない姿であった。彼の人生において、こんな体験は初めてのことである。そして、そこに生じる気持ちも恐らく感じたことがなかったであろう。何を思い、どうしたいのかは分からぬが、ともかく。倉前は花梨を探し続けたのであった。
そんな折。倉前にまた出張検査の命が下った。場所は以前と同じ隣県の工場である。社用車のアクセルを苦虫を噛み潰したようかのような顔で踏みつける倉前は案の定、取引先に到着するや否や部長に嫌味をぶち撒けられた後(今回は検査作業を行った)いつも通り寂れた喫茶店で束の間のサボタージュを決め込んだのであった。
倉前は席に着く前に雑誌を一冊持っていった。普段は流れるテレビ番組を無為に聞いている彼だが、ふと見えたタイトルに惹かれたようである。雑誌には[週間アートギャラリー]と銘打たれていた。
深く淹れられたコーヒーの香りが満ちた店内で、一人雑誌を読む倉前は周りの人間と違って感情に熱が入っている様子である。先ほどまで死んだ目をしていた人間が、変わるものだ。
そんな彼があるページを開いた瞬間。面持ちが変わり、目を近づけた。それはとあるコンクールの結果発表と総評であった。
よく見る川。知っている風景。身近なテーマが描かれたその絵には、倉前の住む町の名前が付名付けられていた。そしてその絵の作者は……
上井 花梨
大きく銀賞と書かれていた。倉前は思わず「本当か」と声を漏らした。気恥ずかしさからか、いつの間にか卓に置かれていたコーヒーに口をつける。すると何やら妙な顔をしてから時計を確認し、急いで会計に向かった。コーヒーからは湯気が立っていなかった。
レジで代金を支払う際に、彼は店主に言った。
「すまないが、この雑誌を売ってくれないか」
それからまたしばらく。倉前は花梨と出会った。
それは夕暮れ。倉前が河原を散歩していた時である。落陽を反射した水面が輝き、それに照らされる女性が彼女だった。絵は描いていない。ただ押し黙り、流れる川を見つめる。夕暮れから生じる闇に呑まれ、孤独感のある影を纏っていた。近寄り難い空気に倉前は息を飲んだが、深呼吸を一つして彼女の元へ足を進めた。
「凄いじゃないか」
「……」
「みたよ。銀賞」
「……大したことないですよ。一番じゃなきゃ」
物憂げな花梨の表情が伺える。諦めなのか、悲しみなのか。泣けばいいのか、自身を嘲笑えばいいのか。感情が迷子になっているような、そんな顔をしていた。
「なぜそう拘る。絵を描くのは、好きじゃないのか?」
「好きに決まってるじゃないですか!」
せせらぎを打ち消す叫声。悲痛な面持ちをした花梨はすぐ「ごめんなさい」と頭を下げた。
「いや、こっちこそ悪かった。俺は、あんたの事を何も知らないんだから」
倉前はそう言って花梨に背を向けた。自分の出る幕ではない。何も知らないくせに首を突っ込んでしまった。まったく彼女に申し訳ない。そんな感情が見て取れた。ほとほと不器用な男である。語るも語らぬも、満足にできないのだから。彼はただ、この場を去ることしかできないと思っているに違いなかった。
「あの」
そんな倉前を花梨は呼び止めた。儚く、切なげな色を奏でるその声には、助けを求めるような、懇願するような弱々しさがあった。
「あの……私の絵、どう思いました?」
花梨の問いに倉前は少し悩んだ。胸に一物あると言っているようなものである。慣れない言葉が口から出るまでには、それなりの時間を要した。
「上手いと思ったよ」
倉前の一言に花梨は俯いたまま言った。
「……それだけ、ですか?」
倉前は黙ってしまった。花梨もまた、口を閉ざした、黄昏に染まる世界には、風と川と、二人の男女の息遣いが交わり、生々しくも幻想的な光景が作られていた。
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