第13話
休日の河原。倉前と花梨は特に約束をしたわけではないが逢引を重ねた。
何かあるわけでもなく、ただただ会話をしながら昼食を摂り、食後のコーヒーか紅茶を飲み終われば別れるというのを繰り返した。
花梨はその後絵を描き、倉前は図書館へ行き様々な画家の画集を観てはメモを取った。誰のどんな作品でいつ創られたものなのか。製作背景。画家の想い。受けた印象。そういったものを書き連ね、帰宅後に読み返していた。そして寝る前には決まって雑誌に掲載された花梨の絵を眺め、その日を終えるのであった。
「俺は、今まで何かに夢中になったことがないんだ」
ある日のこと。倉前は花梨にそう話した。
「だから、苦しみながらでもそうやって一つの事に執着できるあんたが、少し羨ましい」
「そんな大層なものじゃないですよ。ただ、他に何もできないだけです」
「何かできるってのは、いい事さ」
「そんな事……いえ、ありがとうございます」
花梨は愛しみに溢れた笑顔を送った。あいも変わらず不器用な倉前であったが、そんな倉前を、花梨は好いているようであった。
「倉前さんは、何もやってなかったんですか? 運動とか、勉強とか」
「俺は……」
花梨の言葉に口ごもる。倉前には、何もなかった。少なくとも本人はそう思っていた。情熱など一度たりとも燃やした事はなかったし、魂は冷え切っていた。命は躍動せず、心身を削るような努力などまるで経験がないのである。彼はそれを恥だとつい最近思うようになった。自らを表現できない世界に果たして意味はあるのか。苦しみもがきながらも自身の生きた証を残せる方が、惰性と保身に塗れた生より余程高尚なのではないか。そんな事を考えるようになっていた。それは紛れもなく、花梨の影響であった。
「……これから、何かしたいものだな」
倉前は花梨に微笑み、言った。彼の握る拳には力が入っている。儚い希望ではあるが、倉前は本当にそう思っているのだろう。
「だったら、やっぱり絵を描きましょうよ。私、倉前さんが描いた作品。観てみたいです」
「そうだな。あんたの絵が完成したら、描いてみるよ」
「……はい! 楽しみにしてます!」
昼食は終わった。倉前と花梨はそれぞれ別の方向を見ていた。一人は絵を。一人は遥か彼方を……
その夜。倉前は紙に花を描いた。鉛筆一本で描いた、とても作品とは呼べぬような花を。
単色で彩られた花は歪な弁を露わにし、硬さも柔らかさも感じさせぬ、抑揚のないものだった。
「上手くいかんな」
手にした鉛筆を放り投げ寝転んだ。一朝一夕で絵など描けるものではないと彼自身も分かってはいたが、やはり下手を打てば面白くないようである。しかし、描いた花を握りつぶす事はできなかった。拙いできであったが初めて自発的に描いた絵に、倉前は何かしらの執着を持ったのだろう。
天井を見上げる倉前はいつしか寝息を立てていた。夢を見ているのか、時折何やら寝言を発している。ブツブツと呟く彼の顔は思いの外真剣で、それが返って滑稽であった。
昼前。倉前は起き上がった。時計を確認すると、身支度をして外に出た。いつもの道を往き、風を聴き、季節を観る。空はどこまでも遠く、青く、澄んでいた。人の通りは少なく静寂で、葉から零れ落ちる音すら響くような美しい空間。倉前は一人その至福を味わいながら足を進めた事だろう。そして、いつもの河原に着いた時、更なる幸を得たはずである。
「こんにちは。倉前さん」
川とキャンバスを交互に睨んでいた花梨が彼に気がつき、満面の笑みで挨拶をした。
「あぁ」
倉前は、静かに一言。しかし、微笑みながら挨拶を返した。
せせらぎと光と、そよぐ緑。二人の男女は、まるでエデンの園にいるアダムとイブのようであった。
「いつ頃できるんだ」
倉前は花梨の前にあるキャンパスを観てそう言った。
「後は細かなところを描いて、色を入れるだけですね。それが、長いんですけど」
倉前は「そうか」と返事をして二人はいつもの土手へ歩いて行き、いつもの場所に座って食事をした。倉前は何か言いたそうな顔をしていたが、結局その口は弁当の中身を入れるだけに終わったのであった。
「倉前さん。私、夢が一つできました」
代わりに花梨が言葉を発した。落ち着いたトーンで、ハッキリと。倉前に向かって。
「どんな?」
「秘密です。でも、あの絵が完成したら、教えてあげますね」
花梨は河原に置いてあるキャンバスを指差した。倉前は無言で頷き、空になって弁当を片付けコーヒーを飲んだ。それが空になると、「そろそろ行くよ」と行って別れた。いつもの、変わらぬ、同じ光景であった。
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