第12話
あらかた話を終えて、花梨は倉前にインスタントコーヒーを出した。
腰を下ろしたベッドから立ち上がる際、「すみません。気がつかなくて」と申し訳なさそうに、不自然なくらい頭を下げた。瞳に浮かんだ透明に輝く微かな雫を隠そうとしたのだろう。
倉前はコーヒーを啜り、「家には帰っていないのか」と聞いた。花梨は「はい」と答え、「やっぱり悔しいですから」と続けた。
「パリから帰る前に、一通だけ母からの手紙を読んでみたんです。そしたら、いつでも帰ってきていいと書かれていまして、なんだか逆に帰りづらくなってしまったんです。最初から、そんなつもりはなかったんですけど」
倉前は花梨の声を聞きながら転がっている絵を眺めた。色使いやタッチ。構図。全てが高水準で、素人目にも素晴らしい作品だという事がわかる。絵画に興味のない人間であれば、間違いなくピカソやダリよりも花梨の描いたものの方が良いというであろう。
しかし倉前は違った。花梨を通しシャガールに触れ、そこから絵を見るのではなく、観るようになった。一枚の作品に込められた作者の意思。執念。覚悟。妄執……美醜、善悪入りまじ混じった感性の塊。倉前は、その一片を観ることができていた。
「絵は……」
「え?」
「絵は、描かないのか? 以前のような、その、幼稚園の絵を」
「……」
「俺は、あんたが描きたいと思った絵を観てみたい。それがどんなものでも」
倉前と花梨は瞳を合わした。お互いが、それぞれみていたもの。絵から、床から目を離して。
「……怖い」
花梨は、倉前を、倉前の瞳を見ながらポツリと落とした。否定されてきた自己。否定した自己。それをもう一度、自らが培ってきたものを捨てて出せと言われれば、誰しもが恐ろしくもなろう。花梨はずっと一人で、孤独に戦ってきた。そうして築き上げた今の自分を、どうして簡単に捨てる事ができようか。
「大丈夫だ。あんたの絵は、素晴らしい」
倉前はそんな花梨の心の中を土足で踏み荒らし、トラウマとも呼べる過去を掘り起こした。あまつさえ、死んだ花梨の絵を蘇生させ自分に観せろとのたまうのである。なんと厚かましく、恥知らずなのであろうか。しかし、そんな人間だからこそ、花梨は倉前に自らの過去と、薄弱なる感情を晒したのかもしれない。もっと言えば、倉前に言ってもらいたかったのではないだろうか。「お前の絵が観たい」と。
「倉前さん……」
花梨は笑わなかった。河原で肩を掴まれた時とは打って変わって真剣な面持ちで倉前を見つめる。二人の間には刹那と久遠があった。時の流れさえ煩わしいほどに、倉前と花梨は見つめ合っている。
熱い吐息が重なる。白熱灯が照らす男と女に……妙に生々しく、肉を思わす官能的な構図は美しくもあり醜くもあった。そのまま数秒。二人はやはり、見つめ合ったまま、そっと距離を詰めた。
唇同士は、何の前触れもなく、引かれるように自然と一つになった。小さく狭い、静かな部屋に二人の呼吸と鼓動が響く。甘美なる愛の花は二人だけの世界で芽吹き、開いた。滴る蜜は初々しくも過分に溢れ、二人の心に染み渡る。
しかし、花は短命だった。愛を知らぬ男はそっと後退りをして、「すまない」とお門違いな謝罪をして女に笑われたのであった。
「おかしな人」
「そうかね。慣れていないんだ。しかたない」
二人はそのまま、他愛ない話をして「そろそろ帰るよ」と倉前が言ったため別れることとなった。花梨は「そうですか」と名残惜しそうに玄関まで見送った。
「そういえば」
別れ際、倉前は口を開いた。
「定食屋には、いつ戻るんだ」
「そうですね。もう少し、落ち着いたら……女将さんには、申し訳ないんですけど」
倉前は「待ってるよ」と手を振って花梨と別れ、酒を買って帰った。
一人の部屋で飲む安酒であったが、なにやら満足気な表情を浮かべている。恋の発芽と接吻の充実感に、彼は今、満たされていた。
「落ち着かんな」
酒のせいか、はたまた女のせいか。倉前はそんな事を語ち、そわりとした様子で外に出て、風と共に気ままに歩いた。夜は深く、星は輝き、緑は香っていた。倉前は一人、無限に続く夜空の下で、遠く、遠くを見据え歩き、程なくして部屋に帰った。
翌週。倉前が定食屋に行くと、女将が「いらっしゃいませ」と出迎えた。そして遅れて花梨が反復する。どうやら踏ん切りがついたようであった。どこで聞きつけたのか、散り散りになっていた客達も再び集まっている。女将がそんな客一人一人に嫌味と皮肉を飛ばしていたが、倉前にはいつも通りにこやかな接客をし席に案内した。そうしてお決まりの晩酌セットを頼むと、程なくして花梨がビールとお通しを持って現れたのであった。
「倉前さん。私、描いてみますね。だから、観てくださいね」
花梨が笑顔でそういった。倉前は「楽しみだ」と笑顔を返し酒を飲んだ。野間口や他の者どもがこぞってひそひそとし始めたが、もはや倉前は気にしていないようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます