第2話

 翌週末の午後である。倉前が勤務する工場から出荷された製品に不良が見つかったとの連絡が入った。追跡調査をした結果、どうも東塚が左手を失った日に造られたらしいという事が分かった。


「倉前君。他にも不良があるかもしれないから、検査へ行ってきてくれないか?」


 気弱な上司にそう言われ倉前は嫌な顔をする。

 検査とは、文字通り他に不良品がないか調べる事である。倉庫に積まれた物はすぐに確認できるが、既に出荷されてしまった分は出荷先まで赴かなければならない。取引先は隣県のため社用車を使用。普段車を運転しない倉前はこの出張検査を内心嫌がっていたが、業務命令を断るわけにもいかず(そこまで大仰なものでもないが)渋々とそれを承知したのであった。



 そうして倉前はわざわざ一時間もかけて取引先までやってきたわけであるが、本来の目的を果たすことはできなかった。


「おたくらが遅いから、こちらで済ませてしまったよ」


 いやらしい笑みを浮かべながらそう言ったのは取引先の部長である。嫌味ったらしく上がった口角には侮蔑と愉悦が見え隠れしていた。倉前は「申し訳ございませんでした」と心こもらぬ謝罪を繰り返し、その都度相手方の部長は嫌味を言い続けたのであった。


「まったく勘弁してほしいものだね、ともかく今日はもう帰ってくれ。こちらも忙しいんだ」


 そう締められて追い出された倉前は、外に出ると舌打ちをして社用車に戻った。横柄な態度を取られ疲弊しているのは誰の目にも明らかで、元来の人間嫌いもあり、倉前は酷く焦燥しているように見える。


「まったく度し難い」


 誰に言うでもなく一人呟く。無意味な愚痴を口に出さねばならぬ程に不満が溜まっていたのである。

 倉前はヤケクソ気味にアクセルを踏み、行きに通った道とは別方向へ車を走らせたのだが、その行動には何の迷いもない。


 倉前はこの取引先に来た際に一時休息を取ると決めているからだ。普段運転しないくせに妙に手慣れた運転で、倉前は取引先から離れていった。






 町外れにある小さな喫茶店は丁度中間点にあり、サボタージュに使うのにはまさにうってつけであった。

 倉前はいつものように空いている駐車場に車を停め店内に入りコーヒーを頼んだ。淀んだ静けさがいかにも場末感を醸し出していてるのだが倉前のような者にはそれが居心地よく感じるらしく、店内にいるくたびれた数名の客達も倉前と同じように等しく気怠げにソファに身体を預けている。


 黒く熱いコーヒーは倉前のフラストレーションをいくらか鎮めたようで、眉間に寄っていた皺が収まり、猛禽のような眼光もなりを潜めた。

 店の中ではテレビが垂れ流されていたが誰も気にもとめずひたすらに虚空を見つめている。いや、あえて気にしないようにしていると言った方が正しいだろう。皆が時間の経過から目を背け、現実世界の辛苦を忘れようとしているのだ。


 しかし、どう足掻いても時の流れは万人に訪れ、万人に不幸を届ける。瞳を閉じても現状の打破ができるわけでもなく、コーヒー一杯分の暇は所詮コーヒー一杯分の逃避でしかないのである。席に根を張っていた客達は次第に立ち上がり、タンポポの綿毛が飛んでいくようにフラリとした足取りで店を後にしていく。倉前も例に及ばず、程なくすると苦々しくコーヒーを飲み干して会計へと向かうのであった


 古いレジスターとチープなカルトン。もはやインテリアと化しているチューインガムのディスプレイ。レトロというより廃墟めいた雰囲気のキャッシャーに、異様な雰囲気を放つフライヤーが一束積まれていた。

 それは暗い青を基調とした絵画が印刷されていた。純白のドレスを身に纏った花嫁を悪魔の様な影が見据えているという奇妙な作品。倉前はそのフライヤーを手に取って眺め、「シャガール展……」と、記されている文字を読み小さく呟いた。


「三百二十円です」


 そんな倉前に対し、店の主人である老人は怪訝な顔をして代金を請求した。倉前は慌てて財布を取り出して金を払い、フライヤーをポケットに突っ込んで足早に車に乗り込み自らが働く工場へと帰ると、帰社後、報告書に異常なしと書いた。





 その日、倉前は仕事が終わると例の定食屋へ行き、いつもの様に細やかな晩餐を楽しんだ。しかし、やはり店は大盛況であり、慣れない騒がしさに眉を潜める。落ち着かないのか頬杖をついたり髪を触ったりと、どうにも挙動が不審。そうしているうちに、彼はふと思い出したかのようにポケットを弄った。そこから出てきたのは昼に拝借してきたフライヤーである。


 倉前は改めて書かれている内容を読み始めた。


 シャガール展


 それは今日行った隣県にある美術館で催されているようだった。倉前は絵画に造詣はなかったし、かつて興味も持ったこともなかったのだが、しかし。


「シャガールか……」


 ビールを飲みながら呟く倉前の視線はフライヤーに釘付けとなっていた。正確にいえば、フライヤーに描かれた絵に釘付けとなっていた。もはや騒音が当たり前となった定食屋で、一人静寂を保ったまま。


「お好きなんですか? シャガール」


 無心に絵をながめる倉前に係る声。肉じゃがを手に持ったその者は、は声を弾ませてそう言った。例の、花梨と呼ばれる女であった。


「いや、今日初めて観た」


 倉前は気取らず正直にそう答える。花梨は一瞬失望したような顔を浮かべたのだが、すぐに気を取り直して「そうなんですか」と相槌を打った。 その表情は愛想以外のなにものでもなかったが、倉前が「だが」と断りを入れて言った言葉にまた、満面の笑みを浮かべたのであった。




「いい絵だ」


「……はい! いい絵です!」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る