第3話

 翌日。倉前は図書館に足を運んでいた。狭い街であったが人は多く、静かな空間が人々の一挙手一投足と息遣いを浮き彫りにし、それが小さな緊張感を生んでいる。その中で目当ての本を見つけた倉前は、一人それを机に広げて読みふけっていた。

 倉前に読書の趣味はなく、図書館に訪れるのも子供の時以来である。そんな彼がいったい何の本を読みにきたのかというと、シャガールの画集であった。作品と解説が載っているそれは随分と寸尺があり、倉前は難儀していた。


 それでも倉前は頭に刻み付けるよう、一ページ一ページをゆっくり開いていき内容を読み込んでく。シャガールが描いた様々な絵画を、まるでその道の人間かの如くうんうんと頷きながら読み進める様は滑稽にも見えたが、彼は真剣であった。


 しかしそのうちに顔が曇り始める。目を細め険しい表情となり、終いには本を閉じてしまった。それは彼が見惚れていた、フライヤーに描かれていた作品のページであった。絵のタイトルは、婚礼の光というものであった。


「女々しいことだ」


 そう呟くと、倉前は長い事画集の表紙を見据え、溜息を吐いてそれをカウンターに持っていき、随分と迷ったようだが借り出し手続きをして図書館を出た。そして、また溜息を吐きゆっくりと歩を進めたのであった。大きな画集を脇に抱えて。


 倉前の住む街は田舎である。山と田と川が豊かで、季節の化粧が艶やかな場所であった。

 倉前はそんな街を好んでいた。自然と静寂を好んでいた。よく散歩に出ては風景を眺め、風を感じていた。そして今日も、図書館帰りにわざわざ遠回りをして、よく行く河原にやってきたのであった。


 透き通った河水は涼し気であり、陽光が反射し煌めいている。流れは強く、川から頭を出している岩肌を薄く濡らしていた。

 倉前の歩みは漫然的で牧歌的であった。悠久を思わせるその動作は、ある種の優雅さと傲慢さを思わせるものであった。整備された河原を歩く彼の姿はすこぶる上機嫌に思えた。


 だが、突如倉前は足を止めてしまった。そして目を凝らし、先を見た。川縁の歩道の少し先。桜の木の下の影に、見知った人間がいるのを、彼は見つけたのだ。

 その人間はイーゼルに立て掛けられたキャンバスをじっと見据え、時たま画用木炭を走らせては食パンで消しを繰り返していた。倉前は気づかれぬように立ち去ろうとしたが、その人間が身体を伸ばした折に、倉前の方へと顔を向け、二人の視線は重なり合ってしまった。


「倉前さん!」


 絵を描いていた人間はそう叫び、倉前の元へと駆け寄っていった。倉前は溜息をついて手を掲げそれに応えた。


「名乗った覚えはないんだが」



「昨日、シャガールの話をした後、女将さんに聞いたんです」


 皮肉交じりの言葉を吐き捨てた倉前であったが、それに素知らぬ顔で対応する人間は昨日彼とシャガールの話をした女、花梨であった。その日の彼女の笑顔は定食屋で見るものとはまた別で、親しみのある、朗らかな笑顔であった。


「どこかお出かけになられていたんですか?」


 花梨の言葉に倉前は図書館に行ってきたと正直に答え、脇に抱えた借りてきたシャガールの画集を見せた。すると花梨は「素晴らしいです」と目を輝かせた。


「しかし、解説を読んだらあまりに女々しくてな。少しばかり幻滅した」


 そう言って倉前は婚礼の光が掲載されているページを開いた。解説欄には、シャガールの亡き妻への想いを描いたものと記されている。この作品に限らず、シャガールの絵には愛妻であるベラをモチーフにした作品が多い。中でも婚礼の光は一段と美しく、それでいて物悲しい気配を漂わせている。その背景にあるのは喪った愛への執着。幸福の残照であり、悲痛である。しかし、女を知らぬ倉前にとって、そういった心境はまるで理解できないのであった。


「そういう人の心にも響いたのだから、これを描いたシャガールもさぞ喜んでいると思いますよ」


 悪戯っぽく笑う花梨に倉前は何も言い返せず、舌打ちをして目を逸らすことが精一杯のようだった。そして彼の逸らした視線の先で起こっている出来事に目が釘付けとなり、花梨に聞いた。


「絵を描く道具というのは、美味いのか?」


 花梨は質問の意味が理解できないといった様子で倉前の視線を追うと、木炭を消すために用意されたパンくずをついばむ鳩の群れが、イーゼル周りを荒らしているのであった。転がったキャンバスの上に乗る鳩は実に堂々としておりまるで力を誇示しているかのようであったが、花梨はそんなことおかまいなしといった風に「こら!」と叫びながら元いた場所に走って行って鳩達を追い払った。その後ろ倉前がゆっくりと追従し、怒る花梨を尻目に現場に落下している絵を見て呟いた。


「うまいじゃないか」


 その言葉に花梨はすかさず「食べたんですか?」と返すと、倉前は「馬鹿」と、軽い笑みを見せたのであった。

 柔らかい太陽が辺りを照らしている。初めて、二人の間に笑顔が生まれた瞬間であった。

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