第4話

 そうして二人は土手に座った。

 倉前が「絵はいいのか」と聞くと、花梨は「休憩です」と答えた。その後、会話というにはあまりに簡素な言葉の応酬をした。受け答えはだいたい「はい」とか「そうだ」とかばかりで一向に花は咲かず、ついには沈黙が訪れた。しかしお互いが苦痛ではないらしく、澄み渡る空を見ながら奏でられるしじまに耳を傾けていた。


「あんたは、シャガールが好きなのか?」


 先に口を開いたのは倉前だった。快晴を見上げたままで随分とぶっきらぼうに見えるが、その声質は柔らかく、まるで友人に向けて喋っているようであった。


「はい。私も倉前さんと同じで、婚礼の光が好きなんですよ」


「俺は、あれを好きと言った覚えはないが」


「お嫌いですか?」


 倉前は言葉につまり、「いや」と小さく否定する事しかできなかった。それを見た花梨はくすりと笑い、倉前が傍に置いた画集を手慰みに捲った。


「シャガールは愛についての作品を多く手掛けています。それだけ、想うところがあったのでしょう。そんな心の内を表現できるなんて、素晴らしいと私は思います」


 倉前は「そうか」と答え、さらに言葉を続けた。


「あんたも、そうなのか?」


「え?」


「あんたも、自分の内面を描いているのか?」


「私は……」


 今度は花梨が口ごもってしまった。それは先程とは違った気まずさを含んだ沈黙であり、倉前もそれに気付いてるようだった。バツが悪そうに、二人が二人共、妙な顔をして黙りこくってしまった。


「俺は絵は分からん。しかし、あんたの絵はいいと思うぞ」


 倉前の言葉に他意はなかっただろう。しかし、花梨はうつむきながら「ありがとうございます」と言っただけであった。そしてまた沈黙。どうにも、居た堪れない風である。


「邪魔をして悪かったな」


 幾らか時間が経った頃。倉前はそう言って立ち上がり、花梨に別れを告げた。土手を勇ましく登る姿は雄々しく、凱旋した兵隊のように威風堂々としていた。


「あの!」


 そんな勇姿に水を差すように花梨は倉前を引き留めた。その手に、シャガールの画集を持って。


「忘れ物です」


「悪いな。本なてものはどうにも、持ち慣れていなくてな」


 花梨から画集を受け取った倉前は、今度こそ悠然と河原を後にした。

 そして帰宅した倉前は画集を開き、絵を脳裏に刻んだ。解説はもはや興味がないようで、タイトル以外の文字は読んでいなかった。それでも最後のページを開くのに一時間程かかったのは、倉前が真剣にシャガールの絵を観ていたからに他ならなかった。


「シャガール展か……」


 狭い部屋で、小さくそう呟く倉前の姿はどこか女々しかった。彼は美術館に行き、本物のシャガールの絵を見たいわけだが、生まれてこのかた美術館という場所に縁が無かった為に勝手が分からないのである。元より無骨な男故に礼儀作法には疎く、粗相を働きはしないかと怖れを抱いたのだ。


 倉前は画集をちゃぶ台の上に放り出し、擦り切れた畳の上に寝転んだ。幾度となく漏れる溜息は次第に寝息となり、睡眠は彼を無知なる苦悩から一時的に開放したのであった。





 翌週末。倉前はやはり定食屋に来ていた。給料日前という事で客は少なかったが、それでも静けさとは無縁であった。

 そんな中で、倉前は出されたビールや肉じゃがに手をつけず、黙りこくっていた。


「どうかしましまか?」


 そんな倉前に花梨が声をかける。しかし倉前はうんと唸ったきり答える事はせず、花梨の表情に不安に曇った。


「……一つ、頼みたいんだが」


 意を決したように倉前が口を開いた。花梨は「はぁ」と不思議そうに呟き、伝票を構える。


「美術館に行きたいんだが、あんた、付き合ってくれないか」


 倉前の一言に虚をつかれたのか花梨は呆気にとられ言葉を失った。しかし「駄目か?」と冷や汗を流しながら問う倉前の姿を見て、彼女は大きな笑い声を上げた。


「そんな事を言いたいが為に、陰気な顔してたんですか」


 周りから注視されても尚花梨は笑い続けた。倉前は「仕方ないだろう」と言って、なぜこんなことになったのかを花梨に聞かせたが、それがより彼女を可笑しく思わせたようで、さらに笑い声は高くなっていった。


「いいですよ。なら、次の休みの日にでもどうですか」


 笑いを含んだまま、花梨は倉前の誘いに了承した。当の蔵前は「助かる」と言ってビールをグラスに注いで、それを一気に飲み干した。赤面しているのを、酒のせいにしようとしているようだった。

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