第10話
沈黙を破ったのは倉前であった。
「確かに、上手いだけだ。絵の事は分からんが、惹かれなかったよ。シャガールのように」
重く、静かで、鋭い声。気遣いも遠慮もない、倉前が持つ真っ直ぐな心がそのまま言葉となって花梨に届いた。
「ありがとう、ございます」
下を向いていた花梨は顔を上げ、ゆっくりと口を開き、倉前の目を見ながらそう言った。そしていつもの笑顔に戻る。斜陽に陰る彼女のそれは、酷く悲しく、見るものを苦しくさせる。倉前はそっと花梨に近寄り両肩を掴んだ。
「でも、上手いんだよ。金賞を取った絵より、シャガールの絵よりもあんたの絵は、上手かったんだ。上手いと思ったんだよ!」
倉前は叫んでいた。身体が震え、手には力が入っている。彼の抱いている感情がいったいどんなものなのか。それは彼自身も恐らく分かっていないだろう。ただ一つ。上井花梨が描いた絵を否定したくないという気持ちは見て取れた。彼女が描いた、自分のよく知る風景を否定することができなかったのだ。生まれ育ち、共に生きてきた風景を。
倉前は特別郷土愛が強いわけではない。どこへ行こうが彼は生きていけるし、故郷を出るという話になれば何の躊躇もなく今借りている安普請を引き払ってひっそりと新たな生活を始めるだろう。ではなぜ彼が彼の住む田舎風情が描かれた絵に感動したのか。惹かれぬと言い捨てた絵をこうも庇護するのか。前述の通りその感情は解明できないのだが、いままでにない、マグマのような激情が溢れ出ているのは確かであった。
「……」
花梨はしばらく呆けていたが風が何度か吹いた折に噴き出し、高い笑い声を響かせた。倉前は困惑しながら掴んでいた肩を離し、「すまん」と、いったい何に対してなのか皆目見当のつかない謝罪をしたのであった。
「なんか、そんなに言ってもらえると、笑えちゃって。すみません」
花梨の笑いにつられたのか、倉前もぎこちなく口角を上げた。半ば呆れたような、先の発言に照れたいった様子である。普段感情を表に出さない男だ。花梨の笑う姿を見て自分の行動を振り返り、恥だと思ったのだろう。そんな倉前に花梨は話を振った。
「倉前さん。以前した約束、覚えていますか?」
「約束?」
「ほら、私の絵を観たいって……」
「あぁ。覚えている」
いつか交わした約束。美術館に行った日。知らぬ土地の、知らぬ店での契り。花梨はそれを覚えていた。倉前もまた、忘れてはいなかった。
「今からどうですか? 私が間借りしてる部屋に幾らか置いてあるんですけど……」
花梨の誘いに倉前は「是非行こう」と答えた。「ではご案内します」と言って花梨が先を歩く。田舎道を進み人里から離れ、二人はとうとう山へ入っていった。陽はすっかり落ちてぼうっと浮かんでいる青白い月が、夜の帳に穴を空け控えめに枝を伸ばす木々を照らしていた。
「随分と歩くな」
「じきですよ」
言葉少なく足を進める花梨であったが、雑木林の中にある拓いた土地に建てられた小屋の前で立ち止まった。そうして倉前の方を向き、「着きましたよ」と笑顔を見せた。
木造の小屋はくたびれているがよく手入れされていた。壁のいくつかが新しい木材で補強されてる。恐らく花梨が修繕しているのだろう。女一人でこんな前世紀的な生活をしているというのは、一般的に考えて異常である。
倉前が「どうぞ」と案内された部屋の中は異質であった。花梨が安い白熱灯の灯りを付けると、キャンバス。厚紙。絵の具。イーゼル。その他諸々の美術道具に、山ほどの絵が壁や床に散らばっているのが見える。他にあるものといえば小さなイスとテーブル。そしてベッド。生活感のある部屋具はこのくらいで、捉え方によっては狂気の産物と言っても差し支えなかった。
しかし倉前はそれにまったく動じず「凄いな」と呟き、乱雑に置かれている絵を一つ取ってそれをまじまじと観た。
一本の木。厚い葉が強い陽射しを浴びている。初夏だろうか。周りには色濃く茂る緑が力強く、更なる成長を遂げようとしているのが伝わってくる。生命の活力が、命の躍動が感じられる作品であった。
「やはり、上手いよ。だが、どうしてだろう。あまり印象に残らないのは」
不躾な質問であったが、花梨は自嘲的な笑みを浮かべた。なげやりで、諦観的な、力ない笑みを。
「私。実は留学していたんですよ。美術留学……なんていうと、随分と偉そうなんですけど、パリに三年」
花梨は伏し目がちに口を開いた。何か、後ろめたさがあるような態度である。彼女は力なくベッドに座り、「かけてください」と倉前に着席を促した。
「凄いじゃないか。どうりで上手いはずだ」
「そうなんです。技術は見違えるほど上手くなったんです。けれど……」
花梨はポツリポツリと自身の身の上を語り出した。倉前は椅子に座り、静かに彼女の声に耳を傾ける。こんな時は倉前の抑揚のない顔が場に合っていた。合ってはいたが、適切な表情を作れない事に困っている様子であった。
周りに置かれた大量の絵がわざとらしい白光に照らされ物悲しく止まっている。花梨の言葉は、そんな作品達の涙の代わりを成しているようであった。
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