第7話
程なくして倉前にとって予想外の出来事が起こった。
「お前、花梨ちゃんとできてんだってな」
こう言ってきたのは同じ工場で働く野間口である。彼は根っからのやかまし屋で、ろくすっぽ仕事をしないくせにいちいち色んな事に首を突っ込む性分であった。倉前はそんな野間口の事を疎んでいた。例の定食屋でも最近よく顔を見かけるので気にしないようにしてはいたが、野間口の姿を見てしまうとどうしても倉前の表情は曇るのであった。
「知らない話ですね。そんな事よりちゃんと働いて下さい」
知らない話。倉前はそう言ったが、美術館に行って以来、彼は花梨と何度か河川敷で会っていた。それも偶然ではなく、倉前が時間を見計らって訪れていたのだ。彼にとっては一人の友人と談話しているだけに過ぎないのだが、見る人が見れば、それは男女の仲だと錯覚してもおかしくなかった。そして倉前自身もそれは分かっていたのだが、この野間口という男にその話題を出される事が我慢ならなかった。
歳上の野間口に対して倉前は一応の礼儀として敬語を使っている。しかし品性下劣で怠惰を極めたこの男に対して敬意など微塵も抱く事なく、社会通念的な義務感により形式的な儀式として敬語を使っているに過ぎない。もし野間口が同じ職場でなかったら、倉前は迷わず彼を罵倒し蔑むであろう。それくらい、倉前は野間口の事を嫌悪していた。
「若い男が何を恥じらう。言ってみなよ。どこまでやった?」
あまりに俗な発言に倉前は閉口した。ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる野間口とは対照的に、倉前の顔には一種の哀れみさえ伺えた。
「仕事してください」
そう言ったきり倉前は野間口と口をきかなかった。それでもしばらく野間口はあれやこれやとしつこく聞いていたが、最後は舌打ちをして自分の仕事に戻って行った。
「いやらしい奴だよまったく」
野間口は倉前に聞こえるように、他人にそんな事を言っていた。
その週の終わり。倉前はやはり定食屋でいつもの晩酌をしていたのだが居心地が悪そうであった。というのも、客がこぞって彼と花梨との仲を噂し、奇異の目で見ているからである。野間口が吹聴しているのもあるが、二人の噂はそれなりに広がっていたのだ
くだらないと一蹴する倉前であったが動揺しているのは明らかであった。実際のところ彼は花梨にそういう感情を持っていなかったのだが、周りからの声を聞くとどうしても、花梨を意識してしまうのである。
倉前は悩まざるを得なかった。眉間に皺を寄せて苦悶の表情を浮かべながらビールを煽っている。随分と、妙な姿である。まるで[考える人]の像の傍に酒が置かれているようであった。
そんな倉前の卓に頼んでもいないポテトサラダが置かれた。倉前が顔を上げると、花梨が「サービスです」と微笑を浮かべていた。
「どうしかたんですか? 浮かない顔をしていますけれど」
花梨は周りの噂を知ってか知らずか、いつものように明るく、親しげに倉前に接していた。彼女のそんな態度がまた皆の話の種となり、定食屋は公然なる密談の花がそこかしろで咲き誇るのであった。
「ありがとう。なんでもないんだ」
倉前はぎこちない様子で礼を言った。それを不思議そうに見つめる花梨であったが、すぐにいつもの調子に戻り、笑顔を見せた。
「どうですか? お手製なんですけど」
味の評価を急かす花梨に「まだ食べていない」となだめ、倉前はポテトサラダを口に運んだ。そうして「美味い」と言って彼女の料理を好評した。
「ありがとうございます。インカのめざめを使っているんですよ」
倉前はよく分かっていなかったが「そうか」と答え更にポテトサラダを食べた。実際に花梨が作ったポテトサラダは倉前の舌に馴染み、間を置かずして完食してしまった。花梨は満足した様子でその場を立ち去り職務に戻ったわけだが、残された倉前はこの一連の事象が件の噂をより色濃くしてしまったことに気が付き汗をかいた。周りの視線が倉前に向けられるたび、小さな話し声がそこかしろで聞こえた。
「勘定、置いてくよ」
倉前は早々に店を出た。いつものように代金を卓の上に置いて足早に定食屋を後にする。外は心地良い夜風が吹いていたが、倉前はそれすらも分からない様子で下を向き、ひたすらに帰宅を急いだ。
そうして幾らか歩いた後に、後ろから「倉前さん」と、彼を呼ぶ声が聞こえた。花梨であった。倉前は立ち止まり、花梨がやってくるのを待った。
「倉前さん。お勘定……」
「足りなかったか?」
「逆ですよ。多いんです」
花梨は手にしている五百円を倉前の眼前に差し出した。彼が「ポテトサラダ代だ」と言うと、花梨は「サービスだって言ったじゃないですか」とそれを咎めたのであった。
「いや、あまりに美味かったものでな。タダでは悪いと思った」
倉前は誠実な男である。質実剛健と言えばいささか過言ではあるが、真面目で実直である事は疑いようのない事実である。しかしそんな彼が、今初めて、人に対して言い訳じみた言葉を吐いたのであった。
確かにポテトサラダは彼の口に合った。タダでは悪いと思ったことも嘘ではないだろう。しかし、倉前が五百円多く支払った理由は別のところにあり、また彼の思惑は歳不相応な幼稚性を含んだものであった。つまるところ、照れ隠しである。自分は花梨とは特別な関係じゃないという事を誇示したかったのだ。
その相手が彼を囃し立てる人間や野間口ではなく花梨に本人に対してなのは、倉前の自己を満足させる以外に意味を持たなかった。
「だったら、言ってくれたらいいのに」
拗ねたような花梨の口調には可愛らしい反面棘があった。それが他人には見せない、親しい者だけへの態度だという事はいくら朴念仁の倉前とて理解ができた。しかし今、彼はその愛情を求めていないどころか忌避する対象ですらあった。倉前は困った顔をして、「すまない」と言う他を知らない。花梨はそれを訝しんでいたが「まぁいいです」と言って倉前に背中を向け、去り際に振り返って一言伝え話を終わらせた。
「次来てくれたら、またポテトサラダお出ししますね」
その日から、倉前は定食屋に行けなくなっていた。晩酌は自室で済ませ、惣菜容器のゴミを増やした。
いつも散歩に使っていた河川敷にも足が向かなくなり、散歩自体もめっきり行かなくなってしまった。ほんの些細な噂話によって、彼の幸福が一挙に崩れてしまった。
「くだらない」
薄暗く西陽が差し込む部屋で倉前がそう呟くと、悲しい残響で空間が満たされていった。卓にのっている缶ビールを飲み、倉前はうだつの上がらない男を二週間ほど演じ続けたのであった。
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