第8話
家と工場の往復を繰り返す倉前の顔からは感情が抜け落ちていた。元より鉄面皮気味であったとはいえ以前はまだ気概が伺えていた。それがどうしたことか。今の蔵前には腑抜けという言葉が、ぴったりと似合っていた。
しかしいくら堕落していても腹は空くらしく、休日に昼まで寝ていた倉前は気怠そうに足を引きずって近くのスーパーまで来ていた。油と塩が過分に含まれた弁当を買いに来たのである。その身なりは実に見すぼらしく、弁当を物色する姿はまったく見苦しい事この上なかった。
まるでこじきの様に低品質な食事を買い物かごに入れ、倉前は足早に会計へと向かう。挙動が不審で、どうにも怪しい。注がれる視線は白く、冷たい。
しかし、そんな彼に近づく人影が一つあった。人間と陳列棚の間をすり抜け、その人影は倉前の肩を掴み声をかけた。
「倉前さん。お久しぶりです」
人影は花梨であった。倉前は大袈裟に驚いた後、どもりながら「久しぶりだ」と情けない挨拶を返した。そうして初めて自身の格好を思い出し恥たのか、花梨から目線を外し体を斜に構えた。
「お昼ご飯ですか? なら、一緒に食べましょう。私、いつものところで絵を描いているので」
そんな倉前の格好など気にもせず、花梨はそう言った。倉前は無言であったが、花梨の誘いに頷いた。そうして二人はそれぞれの昼食の会計を済ませ、いつか二人で話した河原の土手に腰を落ち着け、安い弁当を広げたのであった。
「絵は、そのままにしてきたのか?」
倉前はそんな事を聞いた。座っている位置からも放置されているイーゼルが見られるために分かりきっていたことではあったが、彼は沈黙が持つ魔力を恐れ口を開いた。混乱と妄想を促進させる魔力に恐怖したのだ。
「えぇ。どうせ盗まれるようなものじゃないですし、それに……」
言い淀む花梨に倉前は「それに?」と彼女の言葉を繰り返した。また花梨も「それに」と同じ言葉を発し、こう続けた。
「駄目なんです。私の絵」
倉前にとって、絵心も女心も空想上の生物のように途方もなく荒唐無稽で、理解しようにも圧倒的に想像力が欠けていた。叩けども叩けども響かぬ軟体は倉前にとって畏怖の対象であり、避けたいものであった。しかし、シャガールに触れ、花梨と交流するうちに少しずつではあるが心境に変化が訪れていた。以前までの倉前であるなら、落ち込む女に対し不躾な返事を一言吐くか、まるきり無視をして事を終わらせていただろう。しかし、この時の倉前は花梨にこんな言葉を投げかけるのであった。
「駄目なんて事あるか。あんたの絵は、上手い」
多少の照れ臭さと多大な感情の昂りにより言葉が下手になってしまっていたが、倉前ははっきりと、優しさと慈しみと愛情をもってして花梨に伝えた。無論、安い励ましではない。彼は彼なりに彼女を元気付けたかったし、事実、品評はできぬが、上手い絵を描くと思っていたのである。しかし、当の花梨の表情は暗く、小さな声で「ありがとうございます」と呟くだけであった。
「まぁいいじゃないですか。私のことは」
暗雲を払うかのように花梨は明るい声を出し話題を終わらせた。快活な調子で笑顔を見せたが、どこか陰りのある顔つきであった。
しかし倉前は何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだろう。努めて活気強く振舞っているように見える花梨に、何を言っていいのか分からなかったという風である。
「そういえば倉前さん。最近、お店に来てくれませんね」
話を変えた花梨だったが、その話題は倉前にとって避けたいものであった。顔が強張る倉前を尻目に、花梨は極めて純粋かつ、批判的な口調で「どうしてですか」と問い詰め、倉前はとうとう、群衆の風説から発芽した幼い羞恥心を白状せざるを得なかった。
「恥ずかしい話なんだが」と前置きをして、倉前は周囲の目が気になるのだと言葉を落とした。それに対し花梨は「は?」と素頓狂な声を上げ、間を置いて少しずつ、堪え切れない馬鹿笑いを高く響かせるのであった。
「馬鹿な事を気にしますね」
腹を抱え涙を流しながら花梨はそう言った。倉前は「慣れんのだ」と若干不機嫌そうに呟いたが、それすら花梨の笑いを誘ったらしく、彼女の高く美しい奇声はしばらく続いた。
「気にしなくていいのに。それとも、私とそういう仲になるのはお嫌ですか?」
「そういうわけじゃないんだが、どうにも、影で噂をされるのは好かん」
花梨はその言葉を聞いて、悪戯っぽい顔をして「可愛い人」と呟いた。先ほどとは違う、クスリと笑う彼女の態度に倉前はたじろぎ、頬を赤らめる。
それを恥だと感じたのか、倉前は立ち上がり「帰る」と花梨に背を向けた。
「今日は来てくださいね。約束ですよ」
倉前は遠慮がちに背中越しから手を挙げ花梨に応えた。そしてその晩。実際に定食屋へと赴き、花梨と、それから中年の女将からもてなされたのであった。店には野間口の姿も見え倉前に下品な視線を送っていた。やはり不愉快そうに一瞬怪訝な表情をする倉前であったが、「サービスですからね」と言って出されたポテトサラダを一口食べた頃にはもはや顔は和らいでいた。倉前は久方ぶりに訪れた幸福を甘受し、大いに酒を飲み、喜びを噛み締めたのであった。
花梨が姿を消したのは、それからほどなくである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます