第8話 触る
ある朝、私の小さな畑に芽が出ていた。腰の曲がった幸田さんに譲ってもらったミニトマトだ。
「放っておいても芽が出てくる」とは幸田さんの弁だが、実際に目の当たりにすると感動するものだ。
あまり数えてはいないが、この村に来てから一月以上は経っただろう。
私は社会的にどうなっているのだろうか。両親は心配して捜索願いでも出していたりするかもしれない。大学も単位が足りず留年に向かって一直線だろう。もしメディアで報道でもされていたら社会復帰も困難になるかもしれない。酷い娘だ。だが、不思議なくらいどうでも良かった。
「香澄。」
黄色のTシャツと黒いハーフパンツ姿のトネリが家の中から現れた。Tシャツは私のものなのでブカブカだ。トネリの服も全て流されてしまったからだ。駐在がトネリの生活用品を取り寄せてくれる事になったが、すぐには届かない。
「トネリ、見て。芽が出たのよ。」
はしゃいで手招きをする。トネリは不思議そうに首を捻りながらこっちに近寄ってくる。
トネリの腕を掴み、身体を抱き寄せる。そのまま下を指さすとトネリの目が嬉しそうに瞬いた。
「これ、香澄が育てたの?」
「まだちょっと育っただけね。でも、トネリが手伝ってくれたからよ。」
「もっと大きくなるの?」
「そうね。トネリのお腹の高さくらいまでは育つかな。」
私が手で尺を測る真似をすると、トネリは嬉しそうに微笑んだ。
「大きくなるんだね。」
その後、二人で畑に水を撒いてから散歩に出かけた。
以前にトネリと行った川辺に来ると、色とりどりの花が綺麗に咲いていた。
「わあ!」
トネリが感嘆の声を上げた。
「今までこんなに咲いたことなかったよ!」
嬉しそうに花を一つ一つ凝視しては、私の方を見て微笑んだ。たまらなく愛おしいと思った。
トネリは私に対して感情表現が豊かになってきたように思う。慣れもあるだろうが、出会った当初は乏しかった表情も、今ではここに咲き誇る花にも勝る笑顔を見せてくれる。
「お花、一つだけ取ってもいい?」
指さした先には薄い黄色の花があった。
「取ったらすぐに枯れちゃうわ。折角咲いたのに可哀そうよ。」
そう言うと彼女はすぐに手を引っ込めた。少し残念そうな顔をしているが、何かに気付いたらしく、しゃがみ込んだ。
「香澄。しゃがんで。」
言われるままにした私に彼女は何かを差し出した。花だった。風に飛ばされて落ちてたのだろう。
「落ちてたお花なら持って帰ってもいいよね?」
そう言ってにこっと笑った。
その瞬間、私は胸が熱くなり、また衝動的にトネリを抱きしめた。びっくりしたようだったが、おずおずと私の身体を抱き返してくる。
柔らかい頬に顔を寄せると、トネリはくすぐったそうに少し笑った。
頬を甘噛みし、そのまま唇をトネリのそれに近付けていく。
「待って!香澄。」
もう少しで唇が触れ合うはずだったが、トネリが私を制した。
私は青ざめた。その行為をトネリに拒絶された。無垢な彼女に私が行った行為は「普通」なら許されないことなのだ。知らずとも彼女が生理的に忌避しても何ら不思議ではない。
トネリの表情を恐る恐る伺う。彼女は顔を赤く染め、私を見つめていた。
「香澄のそれ、すごいドキドキする。」
トネリの青い瞳が情熱を宿している。
「キスっていうのよ。大好きな人にすること。」
「大好きな人。」
「嫌だった?」
トネリはすぐに首を横に振った。少し安心した。
「香澄は私のこと好き?」
ストレートな質問だ。邪推や嫌味など一切ない。
「好きだからこんなことするのよ。」
今更隠すつもりもなかった。私にはこの少女が必要なのだ。トネリは真っ白な肌を紅潮させながら頷いた。
小さな声でトネリが「好き」と囁いた。私に向けたものか、私の言葉を確認するように反芻しただけなのか読み取れなかった。私は躊躇った。彼女が何も分からず自分を受け入れるのではないか。それでは意味がない。
「私のこと、好きじゃなかったら嫌がってね。」
その行為の前に断りを入れるのは滑稽だと思ったが、言葉を述べるよりも態度で示してもらった方が分かる場合もある。
鼻と鼻がぶつかる距離まで。トネリはやはり拒否しない。
「いいの?」
優しく囁くと、トネリが躊躇いがちに頷いた。恥ずかしさが伝わってくる。
彼女の頬を両手で包み込み、唇を重ねた。
柔らかく、温かい。苦しそうな彼女の熱い吐息も愛おしく思う。強く抱き寄せると小さな身体が支えを求めてしがみついてくる。
理性が訴える。許されることではない。しかし、誰がそれを言う?何が許されない?ここは楽園だ。
惜しみながら唇を離すと、ぷはっと彼女が息を吐いた。真っ赤に上気した肌、濡れた唇、潤んだ瞳。ぼうっとした表情で私を見つめる彼女にもう一度口づけた。
「可愛い。大好きよ。」
トネリは手で自分の胸を抑えた。呼吸が荒い。
「どうしたらいいの?私は分からないよ。」
トネリが目に涙を浮かべて訴えてきた。初めて覚える感情に戸惑っているようだった。
もう一度、もう一度。
そんな汚らしい欲望をトネリにぶつけることに躊躇いがなかったわけではないが、私は止まらなかった。
導く。偉そうで大嫌いな言葉だ。
だが、私は彼女を導くだろう。
「トネリも私に触れて。」
彼女の小さな指が私の頬や唇を撫でることに幸福を感じた。
お互いを理解し合っている実感を得られていた。
いつからトネリに惹かれていたのだろう。
初めて会った時だろうか。裸のまま川で水浴びをするトネリを見た時から心が囚われていたのかもしれない。眠りにつく可憐な姿を見た時かもしれない。花が咲くと聞いて笑った時かもしれない。
切欠はもう思い出せない。
もう既にトネリは私の心を支配していた。
豪雨の日、一人で布団に篭り涙を流していたトネリ。何があったのだろうか。
この幸福な瞬間に、私は何故かそんな事を思い出していた。
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