第10話 スミ婆さんのこと①

「スミ婆さんかあ、久しく会ってねえ。なんせ変わりモンだからな。会いたかねぇな。」

 橋じいは目を伏せながら言った。

「何より家は変なとこにあるし、近寄れやしねえ。村のモンでも最近会った奴ぁあんまりいねんじゃねえか?どぶろくを盗んでる哲くらいだな。」

 あまり頼りたくはないが、哲やんに聞くしかないのか。

「どんな人なんですか?」

「2年くらい前にな、金田と揉めたんだ。よく分かんねえが、金田が婆さんの孫に話しかけた事が気に食わなかったみたいでな。一人でギャーギャー喚きたてて、杖を振り回すわ、灯油を撒き散らすわでえらい騒ぎになったんだ。」

「はあ、大分滅茶苦茶な人ですね。」

「そっからもう村とは一切関わりを持ってねえよ。自分の家の周りをごっつい石の壁で囲んじまって、村から婆さん家まで行く途中の橋まで燃やして落としちまったんだ。」

「うわあ。でも、哲やんさんはどぶろくを盗みに行ってるんですよね。」

「川を泳げば行けるみてえだな。それに哲の話じゃ、どぶろくだけは壁外にある開けっ放しの蔵に置いてあるから盗めるってよ。まあそこまでする馬鹿はあいつくらいだけどな。」

 開けっ放しの蔵?

 家を外壁で囲っている人間にしては不用心だ。

「孫も変わった娘でな。いつぞやから婆さんとこに住み着いてるみたいなんだが、おたふくみたいな顔して、一つも笑わねえんだ。」

 おたふくという例えに私は思わず噴き出した。ゆきの真っ赤なほっぺたと仏頂面を思い出した。

「婆さんは、数年前に旦那を亡くしたらしいんだ。そっから頭がおかしくなって被害妄想に囚われてる。実際この村の奴も一人、被害にあってな。」

 橋じいは頭を掻きながら苦しそうに眉を顰めた。

「村人全員の気持ちを代弁してスミ婆さんに文句を言った奴がいてな。それからしばらくして、そいつが行方不明になっちまったんだ。」

 私は絶句した。

「ずっと見つかってねえ。今でもだ。それ以来、みんなスミ婆さんを怖がって近付かねえ。香澄ちゃん、悪いこた言わねえ。あいつにゃ近寄らねえ方がいいぜ。」

 橋じいは珍しく真顔で私に訴えかけた。


 私はひどく迷っていた。ゆきの言っていた事も気になるが、橋じいの話を聞くかぎりスミ婆さんは相当ヤバそうな人間だ。

 村には私が気づいていない何かがあるのかもしれない。しかし、今の生活は幸せそのものだ。不便だが衣食住は何とかなっているし、村人達との関係も悪くない。何よりトネリと一緒に生活しているのだ。

 あえて危険人物に会わなくていい。私はそう自分に言い聞かせた。


 だが、ある瞬間が脳裏をよぎった。

 あの豪雨の日、一人で布団に包まって泣いていたトネリの姿だ。

 またその光景がフラッシュバックしてきた理由は分からない。ただ、私はその理由を知りたかった。だが彼女自身に聞くのはデリカシーに欠ける。何か嫌な事があったのかもしれないから。

 ゆきが言っていた「子供がいるが若い女性はいない」という事は何を意味しているのか。この村で出会った子供はトネリしかいない。他の子供など見た事ないのだ。橋じいや他の村人に聞きたかったが、何故かそれはまずいことのような気がした。

 そして、彼女の示唆した村に関する「何か」がトネリの現在や生い立ちに関係があり、そしてあの日の涙にもどこかで繋がっているように感じた。彼女の事であればどんな事でも知りたい。そう思うと居ても立ってもいられなかった。


「おいおい、正気かよ。俺だってあの婆さんは抱けねえぜ。」

 哲やんは汚いジョークとは裏腹に本当に困った顔をしていた。

「お酒を盗んで川を泳ぐなんて無理でしょ。あなたなら違う道を知ってると思って。」

 そう思ってはいるが、川とは別のルートがあることは確信していた。ゆきも自転車で来ていたし、以前に哲やん達と一緒に酒を飲んだ時も、彼が川を泳いでいたような形跡はなかった。

「案内してやるけど、俺は婆さんには会わねえぜ。香澄ちゃん、それでもいいのか?」

「大丈夫です。」

 私がそう答えると、哲やんは腕組みをして考え込んだ。そして、やがて頷いた。

「だけど、一つ約束だ。俺が案内するのは家の前まで。外で控えてはいるから何かあったら呼んでくれ。」

 私は頷いた。

「じゃあ、明日案内してやる。でもまともな受け答えは期待しない方がいいぜ。」

好奇心は猫を殺す。そんな諺も忘れていた。


 家に帰ると、トネリが座敷で眠っていた。私を待ちくたびれて、テーブルの上に夕飯を残したまま。悪いことをしたと思ったが、安らかに眠っている彼女を起こすのも忍びないので布団まで運ぼうと彼女の身体に触れた時、薄らと目が開いた。

「香澄・・・・・・おかえりなさい。」

 眠たそうに舌足らずな口調でトネリが呟いた。夢うつつといった感じだ。

「ただいま。ごめんね、トネリ。ご飯食べる?」

 彼女の頭を撫でてあげると、甘えるように私の膝に擦り寄ってきた。そのまま膝枕をして眠りに落ちる。

 陽が落ちていく。少し暑くて静かな夜が来る。

私はトネリの頬に口づけた。

 彼女の事は全て知りたい。

 それがどんな事でも彼女を見失うことはない。きっとそれだけは確かだ。

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