第11話 スミ婆さんのこと②

 この村に来てから、どうも感覚が麻痺しているらしい。

 真昼間なのに薄暗い森の中を突き進みながら私は思った。前を歩くのは太った中年の男。しかも下世話な話が大好きなスケベ男と来ている。そんな男と暗い森を二人きりで歩いている。何をされてもリスクマネジメントが出来ていない、と言われるだろう。

 時折飛んでくる下品な笑い声にはうんざりだったものの、何事もなく道中を進む事が出来た。村から歩くこと30分。ついにスミ婆さんの家が見えた。

「俺はここまでだ。帰り道覚えたか?香澄ちゃん。」

 哲やんはそれまでのにこやかな顔はどこへやら、顔が強張っており、声も震えている。

「待っててくれませんか。」

「悪いけど、こんなとこにじっといたかねぇよ。」

「お酒を盗む度胸はあるのに・・・・・・。」

「ぱっと盗んで帰るだけだからな。じっとしてたら取っ捕まって何されるか分からねえ。」

 いつもは能天気な哲やんですらここまで怯えるのだ。香澄の頭では邪悪な鬼のような老婆がイメージされていた。

「孫は家に来てねえな。いたら自転車があるからな。これは幸いだぜ。孫に話かけたら婆さんがおかしくなるからな。」

「じゃあ・・・・・・。」

「おいおい、待てって。」

 よし、と歩を進めた私を哲やんは慌てて引き止めた。

「香澄ちゃんよ、何であの婆さんに会いてえのか知らねえけど変なことに首を突っ込まねえ方がいいぜ。」

「ご忠告ありがとう。でも、興味があるんです。」

 何にだよ、と哲やんが呆れるのも聞かず、私はスミ婆さんの家に近づいた。

 家は木造の平屋で、敷地はそこそこ広い。古風な瓦と木目の分かる木がどこか懐かしい。田舎の祖父母の家がこんな感じだったな、と私は思った。家を囲む不自然な石の壁を除けばだが。

 石壁は家の四方を隙間なく囲んでおり、最上部には有刺鉄線が巻かれている。石壁の一角に玄関が埋め込まれていた。ごつい鉄製の扉、カメラ付きのインターホン、そして何よりあちこちに配置された監視カメラ・・・・・・。

 相当用心深い人物だ。私の姿などとうに捉えているだろう。

ならば遠慮は無用だ。インターホンを押した。

反応はない。もう一度押す。やはり反応はない。想定済みだが、これ以上打つ手がない。

「すいません!どなたかいませんか!」

 私は大声で叫んだ。アナログだが他にやることがない。

 やはり反応はなかった。しばらくそのまま待ってみたがどうしようもないので引き返すことにした。

 家を数歩離れたところで、唐突に玄関が重い音を立てて開いた。

 慌てて振り返ると、老婆が立っていた。

 背が高く、スリムな体形で、腰もしっかりしている。白髪ではあるもののストレートに肩まで垂らされた髪はよく手入れされていることが分かる。黒を基調としたシックな服装も含め、一目見て「洗練されている」と感じさせる出で立ちだった。

 だが、そんなことよりも私を驚かせたのは彼女の手にあるものだった。

「あんた誰だい?」

 老婆が口を開いた。しゃがれていない通りの良い声だ。射抜くような視線が痛い。

「花田香澄と言います。森の中の村から来ました。」

「あの村?ああ、あんたがそうかい。でも、それにしちゃ普通だね。」

 スミ婆さんは私を睨み付けた。何故かとても疑っているようだった。だが、それよりもとにかく、

「拳銃を向けるの、止めてくれませんか!」

 私は腰が抜けて地面にへたりこんでいた。スミ婆さんの手には黒光りするリボルバー式拳銃が握られていた。銃口が私をしっかり捉えている。

「こんなとこどうやって来たってんだい?」

「崖から転がり落ちて。」

「嘘言いな。こんなところ、来ようと思わねえと来れねえはずさ。それに、来ようと思ってくるなんてまともな人間じゃねえ。」

 確かに。こんな現代社会から隔離された世界に来ようと思ったら探検家にでもならないと無理だろう。だが、私は本当に偶然辿り着いてしまったのだ。

「本当に偶然なんです。都会が嫌になって在来線を乗り継いできたら、森に迷い込んで。キャリーケースもなくして、財布も家の鍵も全部なくしたんです。」

 何とも恥ずかしい事実を話すと、スミ婆さんは目を丸くした。私は私物を全て失っていたので、都会にいたという事実を証明するのは難しい。

「ふん、そういうことかい。じゃあ入りな。」

 スミ婆さんは何故か納得したらしく、拳銃を懐にしまい、私を家に招いた。私は力の抜けた身体を何とか起こし、よろよろと玄関に向かった。


 スミ婆さんの家は、木造の古民家といった外観だが、内装は想像と全く異なっていた。カラフルな壁紙と北欧のようなモダンな家具が適度に配置されており、まるで高級ホテルのようだ。

 スミ婆さんは私にお茶とチョコレートを差し出した。

「コーヒーなんて言うんじゃないよ。私はこの組み合わせが一番好きなんだ。」

 まだ呆気に取られている私を横目にスミ婆さんは板チョコを齧る。

「因果なもんだね。40年も経って自分と同じ人間に会うなんて。」

「同じ?」

 溜息を吐くスミ婆さんに私は尋ねた。

「ああ、そうさ。あんた都会から逃げ出したんだろ?それでもこんなとこに逃げ出す奴は普通じゃない。だから私と一緒なのさ。」

「お婆さんも昔は東京にいたんですか?」

 誰が婆さんだい、と軽口を叩きながらスミ婆さんは笑う。

「私はここに来る前は銀座あたりのクラブで働いてたのさ。当時の銀座っていやあ社交界でもトップの地位にあった。私はそこで、なかなか上手くやっていたのさ。今の老いぼれた姿からは想像もつかんだろ。」

 スミ婆さんは笑った。嫌味や浅ましさは一切感じられない人懐っこい笑みだった。

「ええ。銀座と言えば今でも敷居が高いですよ。一流ってイメージがあります。でもスミさんの話は幾らなんでも盛ってるでしょ。」

 私も思わず軽口を叩く。だが、スミ婆さんのスタイルの良さを見ると若い頃はかなり美人だったのではないかと思える。

「盛ってる、てのは何だい?でも、信じとらんのは分かったよ。とにかく私は銀座のホステスで調子に乗ってたわけさ。経済も発展中の時でね。どいつも羽振りが良かったし、私らも狂ったように金を集めてはばら撒いた。今思えば何てくだらないと思う反面、とにかく楽しかった思い出も少なからずある。」

「そういうの、楽しくても長続きはしないんでしょうね。」

「まあそうだね。永遠に若くもないし、いつまでも人気者ではいられない。陽は昇るが沈んでいくからね。昇っていく時が一番楽しい時だ。自分が行けるとこまで行くと、後ろから走ってくる若い娘に抜かれていくのを待つだけ。私もあっという間に落ちぶれたよ。」

 私はスミ婆さんの話を聞きながら、自分が都会に戻ったら道は違えど同じ思いをするのだろう、と感じていた。スミ婆さんはそれからも自分の過去を懐かしむように話を続けた。でもまあ戻れるなら戻りたいと思える瞬間もあったわな、と笑う姿は、負け惜しみでもなく過去を良い思い出として消化しているようだった。

「私は都会に負けたんだ。あんたとは違う。あんたはまだ戦う前だ。これからまだやり直しが出来るし、負けを認めるのは早いよ。」

 スミ婆さんは、特に悔しそうな素振りも無くそう言ってのけた。

「逃げた先に私が見つけたのは、誰もいない、誰の助けも受けない、孤独な空間だった。耐えきれなくなって、こんな辺境に逃げ出そうとしたところ、当時ボーイをやってたあの爺さんが付いてきてくれたのさ。」

 そう言って、スミ婆さんは壁にかけられた遺影を指さした。額縁に収められた人物は鋭い瞳をしていた。

「5年前に病気で亡くなるまで文句一つ言わずに連れ添ってくれたよ。当時の私にとっちゃ歯牙にもかけない男だったが、こんなクズのために随分苦労をしてくれたもんさ。こいつは何にも負けてなんかいなかったのに、全くバカだね。」

 スミ婆さんは笑いながら憎まれ口を叩いた。そこには確かな愛情が感じられ、私は思わず顔が綻んでいた。


 それから私とスミ婆さんはくだらない話で存分に盛り上がった。スミ婆さんへの警戒心はすっかり薄れていた。

「そういえば、先日、お孫さんに会ったんです。」

 言ってから、ゆきが村に一人で来たことがバレてしまう、と思った。

「村まで行ったのかい、あの子が。」

「はあ、まあそうです。」

 スミ婆さんは大げさに頭を抱えた。

「全く、ちゃんと帰ってきたからよいものを・・・・・・。次来た時はお説教だね。」

 しかめっ面でそう言いながらもスミ婆さんはどこか嬉しそうだ。

「お孫さん、可愛いんですね。」

「そりゃあね。あんた、目に入れても痛くないってな。こんな辺鄙なとこに住むババのことなんて息子夫婦も見捨ててんのにさ。あの子だけはずっと来てくれんだ。私の生きがいはあの子に会うことだ。」

 スミ婆さんはみるみる笑顔になっていく。さっきまで拳銃を握っていた人間が孫の事となるとこんなに嬉しそうな顔をするのだから不思議だった。

「で、あの子と会って何か話したのかい?」

「村には子供がいるのに若い女性がいないって。気をつけて、と言ってました。」

 スミさん、何か吹き込みましたか?と笑ってみせるが、しかし、スミ婆さんの表情が途端に曇った。

「そうかい。あの子にははっきりと伝えてなかったんだがね。」

 さっきまでの明るさは消え、目を伏せる。嫌な予感がした。

「私はここで一生を終えるつもりだったよ。こいつが作って、こいつと暮らしたこの家でね。ただ、もうここにいるのは限界だ。近いうちにここを去る。」

「え?何で?」

 私は思わず大きな声を上げた。スミ婆さんは声に驚いたのか少し目をぱちっと瞬かせた後、急に顰めっ面になった。

「私は都会のど真ん中にいた。今はどうかわからんが、当時は東京が急速に発展している時で、それと同時にどこから来たか分からない連中が大量に入ってきた。息を潜めて目を光らせてる奴らも山ほどいた。でも、そんな連中は表には出てこなかったし、私も当時は怖いもん知らずだったから何とでもなった。でも、ここは違う。よくは分からない。でも、あの頃よりもっと恐ろしくて不気味な連中が跋扈してる。」

「不気味な連中って・・・こんな場所で?」

「あんたはそのど真ん中にいるのによく鈍感でいられるもんだ。」

「まさか村の人達のことを言ってるんですか。」

 私の言い方に棘があるように聞こえたのか、スミ婆さんは宥めるように私の右手を撫でた。私は無性に不安を感じ、その手を握り返した。

「あんたは最近村に来た、と言ったろう。奴らもそうさ。でも奴らは昔からこの村にいたと言う。」

「村の人達も、私と同じ?でも、皆昔の話をしてました。哲さんもどぶろくを若い頃から盗んでるって・・・・・・。」

「そう。怖いのはあいつらが本気でそう思っていることだ。誰一人としてそれに疑いを持っていない。ガキの頃から私の家のどぶろくを盗んでるとか、本当に笑えない話だよ。もう20年くらい前にあの村は廃村になった。私とじいさんは村のしんがりを務めた秋田犬を最期まで可愛がったもんさ。この村は日本地図からも消えて久しい。死んだ村だったんだ。・・・最近になって、そこに急にあいつらが入り込んできた。移住とかそんなんじゃあない。さも昔から住んでいたかのように振る舞い、皆が顔馴染みのように笑い合い、何も実らない畑を当然のように耕す。」

 嫌な音が頭に響いた。聞きたくない言葉が異物となって脳に紛れたようだった。

「私もあいつらが何者なのかは全く分からん。でも、どぶろくで済むなら安いもんさ。あんたにはあれらが人間に見えるってんだから若いもんだよ。」

 私は寒気がした。あの朴訥な村人達が一転して得体のしれないものに感じた。

「でも、一人だけ見た顔がいたね。年は食ったし、足も悪いみたいだけど、昔この村に住んでた男だと思う。」

「児玉さん?毛むくじゃらの。」

「多分そうだね。でも、そんな名前じゃなかったよ。確か、須磨ってやつだ。」

 私は反射的に声を上げた。

「須磨!」

 驚いたのはスミ婆さんも同じだった。

「何だい!」

 トネリと同じ苗字だ。一体どういう事なのか。

「いえ、あの・・・・・・その時、須磨さんには家族がいたんでしょうか。」

「嫁と息子がいたよ。転勤とか言って随分前に引っ越したけどね。」

「何のお仕事をされていたんですか?」

「駐在だ。でも役人みたいな事もやってたな。」

 私はますます驚いた。今の駐在と同じだ。

「村人からは結構慕われていたよ。でも、駐在がいなくなった後は代わりが来なかった。だから、駐在に続くみたいに村人達もどんどん抜けていったな。2年もしたら誰もいなくなった。役人も村長もいないし、秩序が保てなかったのかもな。」

「今も村に駐在はいます。児玉さん・・・・・・須磨さんと違って若くてうっとうしいですけど。」

「知ってるよ。あいつが一番怪しい。」

「ですよね。あの人が一番人としておかしいです。」

「いや、あいつが多分村の中で唯一まともだ。だが、だからこそおかしいのさ。警察のように規律を守らせることもしなけりゃ村人とも一切馴れ合わない。私には意図的に避けているように見えたよ。異物を見るような・・・・・・監視するような目をしてね。あいつは私と同じで、村人を不気味な存在だと分かっているような気がするよ。そもそもあいつは本物の警察なのか、それすら怪しい。」

 確かにあの駐在は腹が立つし、おかしな人間だとは思っていたが、そこまで考えたことはなかった。

「須磨にしてもそうだ。不自由な足でこんなところに何故戻って来たのか、普通じゃありえない。」

 私は寒気がした。頭の中がぐるぐる回っており、どこか遠くにいるのにスミ婆さんの声だけ響いてくる。そんな感覚に陥った。

「若い女がいないのも変だし、子供達がいるはずなのに家の外に出さないのも変だ。気をつけな。あの村は・・・・・・普通じゃない。」

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